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息子よ、卒業おめでとう!!

先週、息子が大学を卒業しました。

そう。あの「親子でプレバト!!」でお馴染みの息子です。

3月に卒業できず、秋季卒業となったのです。



人生に迷った大学一年生の頃。

彼は、単位をひとつも取りませんでした。

学校へ行かなかったかというとそうではなく、自分の在籍する文系学部へは通わず、理系学部の授業にばかり出ていたらしいのです。
(私には話しません。友達と話している声が部屋から漏れ聞こえてたまたま知ったのでした。)

その頃彼は、自身が障害を抱えていることに気付き、心理学部の講義も受けたり、心療内科へ自ら通ったりしていたようです。

人生にもがき苦しんだ時期だったのでしょう。


学校生活では、小学校高学年からいじめを受けるようになりました。

思えば、登校拒否にならず、よく高校まで通って卒業してくれたものです。


さしたる抵抗もなく、普通に楽しく、またはそれなりにやって来られた人は幸せです。
その親御さんも。

社会の敷いたレールに乗るのがしんどい子もいます。


頭が悪くて希望学部が取れなかった訳ではありません。

行くべき所へ落ち着いたのだと今は思います。

ただ、本来は理系。


私は、自分が塾へ行かず伸び伸び遊んで育ったので、子どもにも同じことをしてしまいました。

小6まで塾や公文などの学習教室にさえ通っていないのは、うちの双子の娘と息子くらいなものでした。(でも、成績はいつも1番でした)


息子は6年生になる時、塾へ行ってみたいと言いました。

塾へ通ったのは後にも先にも6年生の10ヶ月だけです。


塾の見学に何ヶ所か行きましたが、黙って座っていることを良しとしていた塾では嫌がられ、親の私は説教されました。


ある塾へお試しで行った時、「僕、ここがいい」と目を輝かせました。

好奇心旺盛な子の好奇心を快く受け止めてくれたようでした。

「授業中、なんでも言って良いんだよ!」


そこは日能研でした。

中学受験塾じゃない?中学受験しないのに、と思いましたが、まあ、別に通うだけならと、塾の先生にもそう話して入れてもらいました。

入塾テストは算数の模試でした。
最後の難しい一問を除いて、息子は全て正解。

塾の先生はニコニコ顔でした。


秋になって周りが受験モードに切り替わった時、息子がポツリ、「僕もやってみようかな」と言い出しました。

驚いたものの挑戦するだけならと、塾の先生に話しました。


受験校を決める段になり、私は中学受験の知識がありません。

しかも、当時、地方に住んでいました。

簡単に見学に行けません。

関東の学校を調べる術もありません。

受けるなら関東。6年間ですから、転勤で動くわけにいきませんので。

そこで、自分が知っている学校名3校(ということは誰もが知っている)の名を塾長に告げました。

息子は、早稲田、慶応、東大の名すら全く知りません。

ひたすら遊び呆けて地方で育った小学6年生でしたから。


塾長は、呆れ顔を通り越して「バカを言うな」とお腹立ち。

無理もありません。

6年生になってのこのこ塾に入ってきて(しかも塾自体が初めて)、秋になって初めて受験すると言い始め、たと思ったら、とんでもない学校名を口にしたわけですから。(お腹立ちはハイ、無理もございません汗)

でも、何故かどこかに受かる確信が私にはありました。

結果、上位2校は不合格。
数ヶ月ではやはり無理でした。
頭の良し悪しなら、本来、負けないんですけどね(笑)

ところが、3校目に合格。

たまたま、関東から転勤で日能研にいた先生がびっくりして、本当に受かったのか?と何度も聞かれ喜んでくださったとか。

実は息子、IQが150あるのです。

繊細で優しい。でも、誤解されることも多く…

IQが高すぎるときっと大変な部分、生きにくいことも沢山あるんだろうなあ…と、ごくごくフツーの私は想像でしか、いや、その想像すら全く及びませんが。

過度に愛情をかけて育て過ぎたかな、と思うほど、私は子どもを愛して育てました。でも、思えば私はいつも不機嫌でした。子育ては楽しく、一番幸せな時期だったのに、イライラすることが多かったと。(毎晩、読み聞かせをしたり楽しかったんですよ。本当に)

上の二人はそこが可哀想でした。

でも、いじめ等あれば真剣に向き合いましたし、子を守るためなら必死でした。

でも、息子がどんなに苦しかったか。そこまでの悩みを経験したことのない私には、息子の本当の苦しみを理解することができていませんでした。無神経な発言も随分したようです。

親として自分の命に代えても守る、という強い信念で育ててきましたし、全身全霊で育ててきたと一点の曇りもなく胸を張って言えます。

でも、障害を告げられた時(告げてくれた時)、私が言ったひと言で、閉ざしていた彼の心は完全に閉ざされました。


「あなたはそんな子じゃない」


文字通りを言った言葉ではありませんでした。

咄嗟に、『思い詰め、自分はそうなんだと思い込んでしまうことで、自殺にでも至ってしまったらいけない…』というようなことが咄嗟に頭をかすめ、本当に咄嗟に言ってしまった言葉でした。


障害、の部分を全く否定した訳ではありませんでした。

でも、息子には、そう伝わったのです。


『狭く窮屈に考え過ぎず、広く大らかに心を緩ませよう。』という気持ちでした。

でも、当事者にはそうは受け止められません。

私の言い方に問題がありました。

だから、彼は心を閉ざしました。


先月も、ちょっとした事件がありまして…


私が家族の家の掃除をしていた時、思いがけず旦那さんが早く帰ってきてしまったのです。
次女は1階で父と会話。

私は2階にいたので、息子に、“ケータイと荷物を2階に持ってきて欲しい”と次女にラインしてと頼みました。息子はそうしてくれました。
次女が2階に来て、これからパパと買い物に出るからそうしたら帰ってと言われ、そうしました。


ところが夜。

息子からラインで抗議を受けました。
(長女からは、息子が大荒れに荒れてちょっと怖かったと聞きました。)

息子は常々、誰かを除け者にすることは決してしまいという思いを持っていると言います。

自分が長らくいじめを受けてきたことや、生来、優しい性質で、キリスト教の教えが染みついていることもあり(信者ではありませんが)、そういう行為が大嫌いなのです。

ところが今回、自分がそれをしてしまった、と強く自分を責めていたのです。

2階にいたのは息子だけ。
私の携帯電話と荷物は下にある。

荷物を持って来て、とラインを頼んだだけ。

そう。私にとっては「だけ」であり、仕方のなかったこと。

それに、当の旦那さんからは、気付いていながらその夜、「掃除してくれてありがとう」とラインが来ました。

大人にとっては、ある意味しかたのないこと。
別段、大袈裟に騒ぎ立てることもない、当人たちは全く騒いでいない日常、なのです。

ところが、繊細で優しく、自分に絶対を課していた彼にとっては、「大きいこと」でした。

そこに壁が。

そして、「だけ」という感覚が拭いきれず私の理解が追いつかなかった結果、母と子に、ますます大きな壁が立ちはだかってしまったのでした。


ただ、俳句に関しては話してくれます。

だからある意味、俳句があって良かった。
親子関係は、本当に難しいです。


子育てに関しても失敗ばかり。
書くことは山のようにありますが、またの機会に。


「親子でプレバト!!」だけを読んでいる読者さんには、良好な息子と母の関係に見えますよね。傍目からはきっと。

隠すつもりはないし、別に俳句の記事なのであれはあれで真実。


だから、これまでもよく記事に書きましたが、傍から見ただけでは何もわからない。判断しないことが大事、と思います。

悲観したり、羨ましがったり、妬んだり、卑下したりすることは何もないんだと。

大事なのは、他人ではなく、自分のあり方や考え方や生き方。



息子の卒業式をWEBで観ることができました。

最前列に座り、しっかり参列していた息子。


学長の式辞は、ハンセン病差別に苦しまれた日野弘毅さんのお話でした。

16歳でハンセン病療養所に入所。
家族もひどい差別を受け、お母様が苦労の末にお亡くなりになられた時も、見舞いに行くことも葬儀に参列することもかなわず、お姉様は、18歳だった当時破談となり家を出て、生涯独身のまま自殺されたといいます。


息子が中学生の時、ハンセン病の方のいらっしゃる療養所を訪問しました。

参加は自由でしたが、申し込んだ生徒はほとんどいませんでした。

我が家にとっては当たり前。
次女の幼稚園では、歩けないので地べたを這って歩く子が普通に一緒に生活していたり、我が家の子どもたちは、それが普通だよね、という風に育っています。

息子は、大学生になってからも、都内のハンセン病療養所にボランティアに行っていたようです。


式典にはいつも聖歌が流れます。
「聖歌っていいね」と言うと、「歌えなかったのが残念だったけど」と息子。

お世話になった先生にも挨拶してきた、と言っていました。


卒業、おめでとう。


これまで様々な困難に直面しながら、よく頑張りましたね。

不出来な母親で、たくさん苦労させちゃったね。


これからも、俳句の師匠として、御指導のほど、よろしくお願いします^^








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