「同情」と「共感」についてのコラム
皆さんは「同情」と「共感」という言葉について考えたことはありますか?また、その違いについて考えたことはあるでしょうか?
本NOTEでは「同情」と「共感」をテーマに記しています。
(1)はじめに
このコラムでは「同情」と「共感」という言葉に注目をして、考えを深めることを目的にしています。
まず、私が「同情」と「共感」をテーマに扱う理由としては、
以下の問いの設定があります。
まず、テーマ1の問いですが
「同情」と「共感」という言葉は、一般的に感情や気持ちというものに関係する言葉として使われることが多いです。
この「同情」と「共感」という言葉を読み解いていくことが、「気持ちを理解する」ということに繋がっていくのではないかと考えています。
次に、テーマ2の問いですが
「同情」や「共感」というものは、「他者」に関係する内に存在するのではないかと考えました。
そのため、私は人間は「同情」や「共感」という行為を通じて、他者と関わっており、その行為によって、他人の人生に影響を及ぼすのではないかと考えています。
もし、自分の行為が他者の人生に関与していると仮定すると、それはどこまで「許される」のだろうか?と考えます。
上記の2つの問いは、私が2021年7月ごろに考えました。
直感的な結論を申し上げると「人間は他者との関わり/共感のし合いによって、自己を形成している」と感じています。
つまり、結論的には「わたしは他者/社会とどう関わるのか」という問いになり、
その問いを解き明かすのが「同情」と「共感」という概念であると考えています。
以上の2つのテーマを、仕事をしながら、年を重ねながら、人と関わりながら、ゆっくりと言語と知識によって自ずの内に体系づけられたら、楽しいだろうなと感じています。
(2)「同情」と「共感」について
では、まずは「同情」と「共感」の辞書的定義から探っていきましょう。
今回も「コトバンク」先生にお聞きすることとします。
上記がいわゆる辞書的な定義となります。
簡単に読み解いていきます。
「同情」とは、『思いや心を同じくすること』とあります。
つまり、「あの人は身近な人を亡くしてしまったようだ…」という『他人の気持や境遇、特に悲哀や不幸を、その身になって思いやる』という『感情』を指すようです。
「共感」とは、『他人の気持ちや感じ方に自分を同調させる資質や力』のことを指すようです。
つまり、『他人の感情や経験を,あたかも自分自身のこととして考え感じ理解』する能力ということ。
つまり、他者の感情を自分のものとし、活用することができる能力/技術ということになるのでしょうか。
共感という行為を通じることで『他人のことをより深く理解すること』。
尤も、引用元の記事を確認していただきますと、上記の『共感』の文章は一部でありますので、ある一面のみを引用していることは強調いたします。
以上、簡単ではありますが「同情」と「共感」について深めていきました。
次の節からは、「sympathy」と「empathy」という言葉に注目して、深めていきます。
①語源から探る
まず、一般的な訳として
「同情」=「sympathy」、「共感」=「empathy」とされています。
そのため、一旦「sympathy(シンパシー)=同情」、「empathy(エンパシー)=共感」ということで話を進めていきます。
語源から言葉の意味を探るというアプローチは、一定の成果を感じることが多いです。
取り合えず、私は困ったら「語源を調べとけ」のタイプなので、そちらを整理してみます。
※私は大学などで訓練された手法があるわけではないので、未熟な部分は多々ありますが、ご容赦ください。
以下、『読む語源学/語源path, pass (感情、苦痛)の英単語の意味まとめ』を参考に分析を進めます。
上記のサイトより「sympathy」と「empathy」の解説を引用します。
「sympathy」「empathy」には、「pathy」が共通しています。
上記のページに整理されている「path, pass」は「感情、苦痛」という意味があります。
そのため、「sympathy」「empathy」は感情や苦痛という概念が含まれていることが読み取れます。
参考までに、上記の記事にあるように「apathy(アパシー)」「compassion(コンパッション)」「passion(パッション)」などにも「path,pass」が共通しています。
この語源から意味を探るアプローチは、《英単語の語源図鑑》という本が面白くて便利です。
②sympathyについて
では、「sympathy」の『syn(一緒)とpathos(苦しむ)に由来し、原義はラテン語のsympathia(仲間意識)です。』を読み解いていきます。
「syn(一緒)」は他の言葉では「synchronize(シンクロナイズ)」「syndrome(シンドローム)」「symbol(シンボル)」などで使われています。
「シンパシー(同情)」とは「一緒に苦しむこと」であることが読み取れます。
先ほど引用したコトバンクの定義にも『思いや心を同じくすること。』という文言があったように、そことの合致も見られます。
つまり、「あの人は身近な人を亡くしてしまったようだ…」という「あの人」と「同じ気持ちになり」、「一緒に苦しむ」ことが「同情」であるということができると思います。
やはり、「同情」というと「一緒に悩んでいる姿」が思い描けますので、そのイメージとも大きく外れていないことになるでしょうか。
では、少し論点を変えます。
「sympathy(同情)」は「名詞」で、
「sympathize(同情する)」は「動詞」となります。
ちなみに「sympathize(同情する)」は以下のように分解できます。
この英語における「名詞」と「動詞」の違いってなんだろうと、単純に疑問に思いました。
が、ここから深堀りすると、私の知識不足で話が進まないので
「名詞はそのものの呼ばれ方や性質を表す」
「動詞は行為することを含んで表す」
という簡単な定義で話を進めます。
「sympathize」に着目して話を進めると、この単語は「自動詞」であることがわかります。(参考:https://ejje.weblio.jp/content/sympathize)
自動詞は「自分だけで意味が成り立つ動詞。目的語を必要としない動詞」だと定義した場合、
「sympathize」は「自分だけで意味が成り立つ動詞」となります。
このことから考察するに、同情「する」とは、相手にその感情の作用が及ぼさずに自己内で完結するものと考えられます。
つまり、「sympathize(同情する)」とは、相手のうちにある感情をまるで自分の物であるかのように振る舞うのですが、その振る舞い/感情自体が、特定の誰かに向かっているわけではないこととなります。
そのため、私たちは映画やアニメなどのフィクションの人物にも同情ができますが、その同情はキャラクターの苦痛な状況/心情を「この身で受け/感じて、あたかも同化」することが本質であるように読み取れます。
話は少し逸れますが、
「sympathy」と「sympathize」の違いってどこなのだろうか。と疑問に思った際、
「名詞」と「動詞」の違いとは? という疑問に戻ってしまうため、これ以上の深掘りは一旦避けることとします。
以上が「sympathy」の節となります。
③empathyについて
それでは次に、「empathy」について深めていきます。
基本的には「sympathy」と同じ経由で、分析をしていきます。
先述の文章より、empathyの語源を以下のように引用しました。
『empathyの意味は「共感」で、語源はen(中)とpathos(感情)に由来します。原義はギリシャ語のemphatheia(心の状態)です。』
それでは、「sympathy」との相違点である「en(中に)」に注目して調べていきます。
まずは「em」という接頭辞は、以下のような意味があります。
上記の引用からまず、上記の接頭辞は「~の中に」という意味があり、「empathy」が「em」と表記する理由は、「pathy」で始まるからだということが分かります。
それでは、同様の接頭辞を持つ単語をいくつか紹介します。
少し長々と引用をしてしまいましたが、上記の単語からも読み取れるように「中に(うちに/うちがわに)」という意味合いを含んでいることが分かります。
以上のことから「empathy」が「中にある感情」を示す単語であることがわかります。
また、「empower」の力を「注入する」というイメージから、
「em」に外部から内部へ/外から中へ、という運動性が感じられます。
このイメージを「empathy」に当てはめた際、
「empathy」は「己の中にある感情(ある一定の状態)」を表す意味に加えて、
「外から中へ、感情を注入する」という意味合いも考えられないでしょうか?
つまり、「外(他人の感情)」を「中(己の感情)」へ注入するということとなります。
そのため、「共感(empathy)」という感情は、その発生源は己の中ではなく、外部にあると捉えてもよいでしょう。
本NOTEの冒頭にて、コトバンクより『共感とは,他人の気持ちや感じ方に自分を同調させる資質や力を意味する。』と引用しました。
この資質や力は、つまり、
『「外(他人の感情)」を「中(己の感情)」へ注入する』という行為を意図的にでき、扱える力となるのではないでしょうか。
(3)「empathize(共感する)」について
〇empathizeについて
では、次に「empathy」の動詞化である「empathize」に触れます。
この「empathize」という動詞も、「sympathize」と同様に自動詞となります。
つまり、「自分だけで意味が成り立つ動詞。目的語を必要としない動詞」と分類することができます。
そのため、「empathize(共感する)」とは、何か特定の目的に対して作用するのではなく、自分自身に作用する動作であることが読み取れます。
説明のため、例題を提示します。
以上のような形で、著名人を取り扱うネットニュースにて、日ごろからこのような形で「共感できる/できない」論調が繰り広げられているのではないでしょうか。
では、このような文脈で使われる「共感できる」とはどのようなことを表し/指しているのでしょうか。
私は共感するためには「共感する出来事を、自分が(似たような)経験をしたことがある必要」があると考えています。
つまり、「共感をするためには、他者の感情を注入できる土台/入れ物が、自分の中にある必要がある」とイメージとして捉えています。
その土台/入れ物が「自己の経験」によって育まれると考えています。
いくつか具体例を踏まえて、見ていきましょう。
以上の会話から、Oさんは俳優のSさんが「映画監督からパワハラ」を受けたことを、自身の「上司からのパワハラ」を受けた「経験」から読み取っています。
Oさんが俳優のSさんの話を聞いた時、Oさんの心内には自身の「上司からのパワハラ」を受けた経験が、幾分か想起されている可能性があります。
つまり、Oさんは自身の経験という「土台」を元にしてSさんの経験を見て、Sさんが感じたであろう苦痛な感情を、Oさん自身の経験を元にした「入れ物」で受け取ったと解釈することができます。
そのため、「①自己の経験による土台がある」→「②他者の感情の注入」→「③自己の経験による入れ物への受容」というプロセスを経て、Oさんは「共感している」と判断することができると考えました。
一方、Aさんはこれまでの人生で他者からひどいストレス/プレッシャーを受けたことがないようです。(もちろん、例題のための仮定です)
その場合、Aさんが俳優のSさんに「共感をする」ということは可能でしょうか?
仮に「共感すること」を「①自己の経験による土台がある」→「②他者の感情の注入」→「③自己の経験による入れ物への受容」という過程を経るものだと、モデル化して考えてみましょう。
その場合、①の「自己の経験による土台」がないこととなります。
そのため、俳優のSさんの感情を自己に注入しようとしても、受容する場所/術がないように思われます。
もちろん、AさんはSさんが受けた経験は、苦しいものであることは理解/承知/読み取ることはできています。
しかし、「共感できたか」というと、「そうだ」とは言えないように見えます。
例を変えて、深掘りしていきます。
これは筆者aosiの個人的な話となりますが、経験したことを記させていただきます。
まず、私が「共感できるな」と感じたことと「共感できないな」と感じたことを列挙します。
簡単ではありますが、パッと思いつくものを記しました。
私は中学校時代、学校に行けず不登校の期間が2年半ありました。
その経験は、同じ「不登校である/であった」人たちの気持ちを理解するための、強力な「ツール」であると自認しています。
私が通信制高校に教員として勤めていた際、この不登校の経験がとても役に立ちました。
不登校である状況の人と会話をする中で、「共通言語」と言えるような不思議な感覚がありました。
つまり、彼ら彼女らの「学校に行けない」「学校に行っていない」という自己嫌悪の苦しみや劣等感が、理屈ではなく肌感覚で分かるのです。
しかし、もちろん私は彼ら彼女らとは他人ですので、家族環境も住んでいる地域も経験した出来事も、全く同一ということにはいきません。
それでも、彼ら彼女らの「感情」を理解し、この身で引き受けることができたという経験は、どこか私の中で確信めいたものを覚えさせました。
あれはまさに「共感」というものに近いのではないかと。
もちろん、彼ら彼女らが苦しんでいる時に「辛いですよね。分かりますよ」ということは、(理論的には誰であっても)可能であると思います。
しかし、非常に感覚的になってしまいますが、「理解しているよというポーズ」や「感情を推測した上で理解すること」とは一線を画した感覚であることは、よく覚えています。
話は変わりますが、いわゆる「性的マイノリティ」や「発達障害」を持つ方とも関わったことがあります。
しかし、彼ら彼女らと話す上では、「どこか、ほんとうに」気持ちを理解することはできませんでした。
表現を整えるなら、「理解が上滑り」するのです。
つまり、「上っ面だけさ/軽薄さ」がどこか拭えない感覚がありました。
私は不登校のお子さんを持つ親御さんの気持ちには寄り添うことができるような感覚がありましたが、発達障害を持つ親御さんの気持ちには、「どこか、ほんとうに」は理解できていなかったと思います。
もう少し一般的な例となれば、上記で列挙したように
「戦争へ行く人の気持ち」はドラマを見ても、慰霊碑を見ても、伝記を読んでも、現地に赴いても、理解と推察はできるような気はしますが、「共感した」と言える自信は全くありません。
つまり、「共感できないもの」は想像、推察、イメージすることしかできないのではないでしょうか。
話は逸れますが、精神疾患で休職と離職をして無職の時期を過ごしたことは、また私の「共感の幅」を広げたと感じています。
では、話を以下の「共感モデル」に戻します。
「①自己の経験による土台がある」→「②他者の感情の注入」→「③自己の経験による入れ物への受容」
この「共感モデル」と先ほどの私の経験談を照らします。
上記にて「1.不登校の方への共感」と「2.戦争へ行く人への共感」の私自身の心の動きを観察し、言語化しました。
上記の分析から、以下の2つの気づきを得ました。
それでは、上記2つについて触れていきます。
〇「共感」を深掘りする
①(比喩表現としての)共感の土台と、共感の入れ物は経験と知識によって育むことが可能であること。
まず、①について触れていきます。
この項目の目的は、
「自己の経験による土台がある」→「他者の感情の注入」→「自己の経験による入れ物への受容」という「共感モデル」のより詳細な言語化ができればと考えています。
まずは、「共感の土台」と「共感の入れ物」について言語化していきます。
・共感の土台について
私はこの「共感の土台」は、「己が何かを受け入れる」時の準備にあたるとイメージしています。
上記の「戦争」の話を元に話を進めますが、
仮定として、戦争や争いという概念を知らない、Iさんがいるとしてみましょう。
その時に、Iさんは「戦争へ行く人」へ共感することは可能でしょうか。
恐らくは、難しいのではないかと感じるのが一般的でしょう。
上記の仮定は極端でしたが、「戦争へ行く人」が太平洋戦争の時に生きていた方であったとしましょう。
そのとき、Iさんが「第1次世界大戦/第2次世界大戦」についての知識/イメージがなかったとすれば、「戦争へ行く人」がなぜ戦地へ行くのかという状況を理解することは難しいのではないでしょうか。
そのような前提では、Iさんが「どうやらこの人は戦地へ行くようだ。でも、どうして日本は争いをしているのだろうか。もしかしたら、好んで行っているのかしら。」と不思議に思っても、それは当たり前なことだと考えます。
つまり、一般的な慣用表現でいえば、Iさんは「太平洋戦争への解像度」が低いのです。換言すると、知識が不足している状況と言えるでしょう。
ちなみに私は小学生低学年ごろ、祖母から空襲の体験の話を聞きました。
その時、私が脳内に思い描いたイメージは「平成の一般的な一戸建ての天井が、ミサイルで貫通してくる」というものでした。
そこでは、「火垂るの墓」や「はだしのゲン」などで描かれていたような街並みを一切イメージすることはできなかったです。
このような「知識が不足する」ことによる「共感のできなさ」は、日常に潜んでいるように思えます。
例ですが、「不登校」「発達障害」「LGBT」「精神疾患」「認知症」などの概念において、その知識のなさによって、その当事者の事実/状況を把握することができないことはあるのではないでしょうか。
例えば、私自身も「アメリカの人種問題」「中国の民族問題」の当事者について「共感して」と言われても、「難しい」と率直に感想を覚えます。
つまり、私には知識と経験が不足しているのです。
そのため、そのような知識と経験が不足している事象について「共感する」という能力を働かせようと思っても、うまくいかないのは「共感する土台が醸成されていないからだ」と捉えることができます。
①にて、「(比喩表現としての)共感の土台と、共感の入れ物は経験と知識によって育むことが可能であること。」と示したのは、以上のような根拠があることが分かりました。
つまり、簡潔に表すと「知識と経験がないものには共感することができない」と考えています。
この問題への対処法は至ってシンプルです。
1.まずは知ること。
2.そして関わること。
3.その上で学ぶこと。
もちろん仔細に対処法を分類することはできますが、最も簡略化すれば、上記の3つであると考えます。
「教養」とは何であるかを定義するのは難しいですが、この「1.まずは知ること。2.そして関わること。3.その上で学ぶこと。」に取り組むことは、教養を育むと表現しても、違和感を覚えないような気はします。
参考として、コトバンクより「教養」の項目を引用します。
・共感の入れ物について
それでは、次に「共感の入れ物」について触れていきます。
この「共感の入れ物」は「共感モデル」の、
「自己の経験による土台がある」→「他者の感情の注入」→「自己の経験による入れ物への受容」という最後の段階で必要となるものです。
つまり、自分の経験/知識によって、相手の感じたであろう感情を理解することができた。
その上で、その感情をこの身の中で引き受けようと、働きかけた。
では、私はその感情を引き受けることができたのか?ということとなります。
簡潔に申しますと、「感情の入れ物」で取り扱う主題は「他者の感情を引き受けるためには何が必要か?」ということを考えることにあります。
それでは、深掘りしていきます。
まずは、「理解はできるが、分かり合えない/受け入れられない」という状況を考えてみます。
つまり、『自分の経験/知識によって、相手の感じたであろう感情を理解することができた。その上で、その感情をこの身の中で引き受けようと、働きかけた。だが、私はその感情を引き受けない』ということを考えます。
この例を、機動戦士Zガンダム 第47話「宇宙の渦」のカミーユとハマーンの会話から考えていきます。(ガンダム知らない方、申し訳ない…)
ご存じない方が大半だと思いますので、簡単に会話の方を引用します。
物凄い会話のドッジボールです。
この会話の後にハマーンとカミーユは幻影空間のようなところに陥ります。
カミーユは今まで出会った女性の幻影/母への幻影を見て、ハマーンはカリスマ性のある男性の幻影を見ます。
そして、カミーユとハマーンはそれぞれ見た幻影を共有します。
ハマーンとカミーユはお互いの記憶を共有し、人と人が分かり合える可能性ついて示唆します。
その後、ハマーンの対話拒否により、ハマーンとカミーユが現実に戻ることとなります。
ハマーンはカミーユが己の心の中に入ることへの、強い拒否をします。
ハマーンは、許可なく他者が、己の過去や潜在的な心理に触れることを拒んでいます。
その後、ハマーンはカミーユの同僚と幼馴染に、負傷をさせたことで、
カミーユからもハマーンへの対話の拒否が行われます。
そして最後に
という謎の声が聞こえ、会話が終わります。
以上が機動戦士Zガンダム 第47話「宇宙の渦」の引用となります。
ご存じない方には分かりづらいかと思いますが、もしよければこの機にご視聴いただけると嬉しいです。
では、こちらのシーンをアニメ的に分析をするのではなく、私が提示した「共感モデル」に当てはめて分析をしていきます。
以上、「カミーユからハマーンへの共感」「ハマーンからカミーユへの共感」を見てきました。
カミーユ→ハマーンは共感するというプロセスが踏めているのに対して、ハマーン→カミーユの共感プロセスはとても脆いです。
結果として、ハマーンが「ずけずけと人の中に入る。恥を知れ俗物」と対話の拒否で終わったのも、妥当に思えます。
また、一般的な共感の働きかけというのは「一方向」ですが、この場合では「双方向」的な共感のし合いになっているところは面白いポイントです。
それでは、さらにポイントを絞って、さらに考察を進めます。
考察したいポイントは「カミーユがハマーンの内面を見て共感したことに、ハマーンが拒絶をした」という所です。
また、換言すると「ハマーンにカミーユが共感したことを、ハマーンが感じたことによる、ハマーンの拒絶」です。
つまり、ハマーンは「覗きたくない自分の心理や過去を直視する」という経験をしました。
ハマーンによって、「シャアと恋人であった過去」や「カリスマ性のある男性/導きをくれる男性を求めているという心理」はまだ認めたくない/見たくない、事実/経験/価値観であったかもしれません。
また、その事実/経験/価値観を関わりの浅いカミーユと、「共有させられた」という経験が、「拒否」という態度に影響しているように見えます。
『「ずけずけと人の中に入る。恥を知れ俗物」』というセリフがそのことをよく表していると考えます。
また、アニメ的な分析となって恐縮ですが、ガンダムZの続編であるガンダムZZのオープニングソング『サイレント・ヴォイス』に以下のような歌詞があります。
上記の『サイレント・ヴォイス』はハマーン・カーンの心情をテーマにしたという読み解きがあります。
もし仮に、ハマーンが心の底で、孤独感や淋しさを感じていたとすれば、カミーユの「家族に愛されなかった経験/母を失った経験」という「孤独感/淋しさ」はハマーンにとって共感できるに値するでしょう。
つまり、ハマーンはカミーユから己の心を見られるのと「同時」に、カミーユの心の内を見ているわけです。
そのため、ハマーンの対話の拒否には「カミーユの心情を理解ができる故に認めたくない/見たくない」という心理が内在しているように読み取れます。
また、己が許可/意図をしていないのに、自己の内面が他者へ共有されてしまったという事実に耐えられなかったのかもしれません。
しかし、カミーユ→ハマーンの関係においては、カミーユはハマーンに対して理解と共感を示しているわけです。
つまり、理解と共感が示されるとは、カミーユからハマーンに対して「僕とあなたは似ている」というメッセージに他なりません。
しかし、ハマーンにとってはその「理解を示されること」が嫌なのだと、読み取れます。
言い換えると、「同族嫌悪」という言葉が適するでしょうか。
以上が「カミーユがハマーンの内面を見て共感したことに、ハマーンが拒絶をした」という考察内容となります。
この拒絶からは「同族嫌悪」、つまり「己が直視したくないものを直視させられる嫌悪感」が感じ取れました。
では、この話の締めとしてガンダムの産みの親である富野由悠季監督の言葉を引用します。
それでは、アニメのシーンを通じて「理解はできるが、分かり合えない/受け入れられない」ということを見てきました。
では、少しだけ、話を続けますと
私のとって「理解はできるが、分かり合えない/受け入れられない」こと、「覗きたくない自分の心理や過去を直視する」ことは、「不登校であった過去」でした。
間違いなく、私の人生のある一期間において、「不登校」であるという経験は「自己へのレッテル」であり、「劣等感の象徴」でした。
しかし、「仕事」という場を通じて、私は教員/不登校支援の仕事に携わり、不登校という経験は心理学的な昇華をすることができました。
その過程には「自己受容」が行われており、経験の言語化/棚卸しが絶えず行われています。
つまり、不登校であった自己を/現実を受け入れ、それでもいいんだという受容/肯定が心の中で図られたのです。
それは、共感の入れ物という器を創り上げる過程と比喩表現することができます。
いじめを受けた人がすぐにいじめを受けた人を却って受容できなかったり、仕事ができない人が却って能力のない人を見下してみたり、会話に自信がない人が却ってしゃべり下手を軽んじる、精神疾患に苦しむ人が却って精神疾患の人に冷たくする。
その心理の根底は「同族嫌悪」「己が直視したくないものを直視させられる嫌悪感」に起因するのではないでしょうか。
つまり、そのような心理においては、「共感という入れ物」が未完成であり、受け入れるに資しない状態であると言えます。
つまり、私たちは他者を見ているようで、見つめている根底は自己の奥深くなのです。
結局、他者という鏡を通じて、見つめるのは/見つめさせられるのは自己の内面であるということです。
「コミュニケーションとは鏡である」という言葉をそれをよく表しています。
そのため、「共感という入れ物」がより成熟していく、適した形に変化していくほど、
比喩表現としての器の大きさ、深さ、キャパシティが変化していくのだと考えます。
例えば、いじめられた経験に共感できる人がしたとしても(共感できる土台があったとしても)、その人がそのいじめられた経験を受容しきれない場合(共感という入れ物が浅かったりすると)、「共感する」に至るには難しいでしょう。
もし、共感できたとしても「持続」という観点では、本人の心の脆弱性を高めてしまうだけかもしれません。
もしかしたら、私たちが一般的感じる「心が広い人」とは、このように解釈することができるのではないでしょうか。
心の広さ/共感の入れ物とは、「育むこと」ができるのかもしれませんね。
この節の最後に、心理学者アドラーの言葉を引用します。
以上が『(比喩表現としての)共感の土台と、共感の入れ物は経験と知識によって育むことが可能であること。』の考察となります。
今回は「①自己の経験による土台がある」→「②他者の感情の注入」→「③自己の経験による入れ物への受容」という「共感モデル」を設定して考えを進めました。
このよう事象/現象をモデル化することは、潜在的に何かの認識論の影響を受けている可能性は否めません。
それでも、物事を可視化したり、単純化することには、物事を考察しやすくさせたり、問題点の浮彫りが容易になるという効果があると考えております。
②「共感する」という状態/動作には、「高い/低い」共感するが存在していること。
それでは続いて②について触れていきます。
では、先ほどの「不登校」と「戦争」の例を比較しましょう。
「1.不登校の方への共感」に関しては、私自身の中で「共感できている」自負があります。
しかし、「2.戦争へ行く人への共感」に関しては「共感できている」と思えないことは、先ほど述べたとおりです。
しかし、「2.戦争へ行く人への共感」に関して、全く共感できていないかと問われると「0%だ。NOだ。」と断言することも、また何か違った引っ掛かりを覚えます。
なぜなら、「2.戦争へ行く人への共感」であっても、「③empathyについて」の節で見たように『「外(他人の感情)」を「中(己の感情)」へ注入する』という行為を意図的にでき、扱う』ということはできているからです。
つまり、「共感する」とは、他者の感情を己のうちに注入するという「行為」が本質であるように見えます。
しかし、その注入するという行為の「質/レベル/純度/精度」が「低い」というのが「2.戦争へ行く人への共感」であると言えないでしょうか。
一方、「1.不登校の方への共感」に対しては「高い」「質/レベル/純度/精度」で他者感情の注入ができているということができると思います。
従って、「共感」は資質能力を指し、「共感する」はその動作を表すわけですから、その動作に「高い/低い」という幅があることは至って当たり前のことのように思えます。
例を出せば、「走る」という動作をとっても「早い/遅い」「フォームの整った/乱れた」「持続性がある/ない」などのいくつもの要素が含まれることは、容易に考えることができます。
つまり、「高い(高次の)/低い(低次の)」という概念を持ち出すということは、私が共感には「よりよい共感がある」と信じていることを明白にさせます。
また、先ほどの「走る」を例にしても、「公園で子供が走る/オリンピック選手が短距離走を走る/マラソン選手が長距離走を走る/サラリーマンが電車に送れそうになって走る/狩猟民族が狩りのために走る」など、走るというバリエーションを多く考えることができます。
同様に「共感する」にも、一つの固定的なシチュエーションではなく、多様なバリエーションがあるのではないでしょうか?
また、より質が高い「走る」というのも、私たちはイメージすることができるかと思います。
一般的に、公園で子供が走るの「走る」よりも、オリンピック選手が短距離走を走るの「走る」の方が「レベルが高い」と表現するのではないでしょうか。
中学生や高校生一般的な部活動よりも、競技性がより高いレベルの方が記録などのタイムも向上するのが一般的です。
そのような、我々は「よりよい走り/よりレベルの高い走り」をイメージすることができ、そのイメージにはある一定の普遍性(ある程度の人が共有してイメージできる)を持っているように思えます。
では、「共感する」はどうでしょうか。
私たちは一般的な会話の中でも、深い共感/浅い共感のような慣用表現で、共感のレベルを示してはいないでしょうか。
例えば、「走る」において、「より整ったフォーム」、つまり「より完璧な走り」を思い抱いてしまうのと同じように、私たちは「より深い共感」というものを思い抱かずにはいられないのではないでしょうか。
つまりは、「共感の理念性」を感じるということとなります。
この「理念」という概念に安易に立ち入ってしまうことは、いったん避けたいと思います。
それでは、コトバンクより「理念」について引用し、この項目の説明を閉じたいと思います。
以上が「共感(empathy)」の考察となります。
少々、話の内容が長くなってしまったため、これまで明らかになったことを整理していきます。
(4)「sympathy」と「empathy」の相違点の整理
①要点の整理
「sympathy」と「empathy」の単語に注目して考えていきました。
ここまでの内容を整理します。
以上が今までの文章の要約となります。
それでは、同情と共感の相違点について整理していきます。
②同情と共感の相違点
相違点となる要素は、上記の文章や要約に整理をしましたので、簡潔に表すと、
同情は感情
共感は能力/技術
ということが一番の相違点となると考えます。
つまり、
同情は他人と「同じ」感情になるという、感情の状態を表している。
共感は他者の感情を自己に注入する、テクニック。
共感は同情と異なり、同じ感情にならなくていい。
と表すことができます。
結論としては、冒頭で引用したコトバンクの辞書的内容と大きく外れることがないものとなりました。
しかし、海面から漠然と海底を覗くのではなく、
海の底に深く潜った後に、また海面から海底を覗き込むと、よりその深さを実感できるように
表面的な理解だけでなく、潜る(考える)というプロセスを経ることで、表面の見方が変わるというのは、よくある話です。
話は少し逸れますが、
私たちは「読書」という行為を通じて、疑似的に海底へ潜る経験ができます。
「同情は感情。共感は能力/技術で理念性がある」と本文で記しましたが、この論理は苫野一徳さんの《愛》という書籍の論理を援用させていただいたところが多々あります。
自分だけではたどり着けない深みに一時的でも導いてくれる、読書という行為に感謝をしたいものです。
では、本NOTEの主題である「同情(sympathy)と共感(empathy)の違いは何か」に関しては、メインディッシュにあたる箇所は終えたこととなります。
それでは、食後にあたる箇所として、もう2節ほど書かせていただきます。
(5)「sympathy」と「compassion」「pity」と「mercy」について
次は「sympathy」と似ている単語に注目をして、その相違点から「sympathy」という言葉を探る要素を発見していければと思います。
それでは、「sympathy」と似た言葉である「compassion」と「pity」と「mercy」について触れていきます。
まずは上記の3単語の辞書的な意味から引用します。
次に、それぞれの語源について確認します。
以上がそれぞれの語源の引用となります。
無学なため、詳細な分析をすることは避けたいと考えます。
では、簡単でありますが、私が考えたことを記します。
それでは、特にpityについて書きます。
「pity」はsympathyと異なり、見下すというニュアンスを含む動詞で、「他動詞」です。
ここから、「同情する(sympathize)」は自動詞で己だけで完結するのに対して、「哀れみ(pity)」は他動詞で目的語を必要とするという違いが面白く見えます。
その意味において「同情は一方的だが、他者(目的語)を必要とせず」、「哀れみは一方的だが、他者(目的語)を必要とする」と言えるかもしれません。
この「哀れみ」からは他者を見つめる視点の存在を想起しました。
もしかしたら、「哀れみの眼差し」によって「哀れむに値する存在」を生み出しているのかもしれませんね。
また、pityの語源である「pius(信心深い)+-itas(こと)」からはキリスト教学の視点を感じざるを得ません。
mercy(慈悲)に関しては仏教的な側面を大いに感じておりますが、仏教に明るくないため、これ以上の言及は避けます。
(6)「同情」と「哀れみ」について
①ニーチェと「同情」
では、少し題材を変えまして、思想哲学方面からアプローチをします。
私は「同情」と「哀れみ」という言葉からは、「ニーチェ」と「ルソー」が連想されます。
特に、「同情」という言葉からは「ニーチェ」をよく思い出します。
また、「同情」に対する捉え方には、ニーチェの思想が私に強く作用しているように感じています。
では、ニーチェが捉えている「同情」についてですが
まず、ニーチェは「キリスト教的な道徳・価値評価が人を弱くしている」と指摘しています。(筆者の理解です)
彼の思想には「畜群道徳」「ルサンチマン」「僧侶的価値評価」という概念があります。
彼の思想を一からひも解くと、膨大となってしまいます。
そのため、簡単ですが「ルサンチマン」と「畜群」の内容を引用いたします。
上記の引用から分かるように、
ニーチェはキリスト教の道徳観を強く批判し、その根源を「ルサンチマン」という屈折した価値評価にあると分析しています。
その他に、ニーチェの言葉を一部引用していきます。
以下の引用の参考元は『ニーチェ入門(ちくま新書)竹田青嗣』の99ページ~『「道徳」とルサンチマン』からです。
これ以上のニーチェの思想の紹介は避けることとし、入門書などをお勧めいたします。
私が実際に読んだことがある、わかりやすいニーチェ入門書としては、
『ニーチェ入門(ちくま新書)竹田青嗣』
『ゼロからのニーチェ入門(幻冬舎)竹田青嗣 西研 藤野美奈子』
『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた(ダイヤモンド社)原田まりる』
あたりが読みやすいです。一応、後ろに行くほど平易な内容となっております。
漫画形式で纏められているニーチェ入門書もいくつか読んだ記憶はありますが、詳細なタイトルを覚えていません。
ニーチェの入門書は色々あると思いますので、読みやすいと思うものを、ぜひ探してみてください。
話を戻しますと、ニーチェは「同情が苦しみを生み出したり、弱さを生み出したりしている」と指摘しているように考えています。
そのため、ニーチェ的な読み解きで行くと、「同情」は嫌うべきもの・忌むべきものとなりそうですね
ニーチェに関しては、私自身が原著を『ツァラトゥストラ』と『道徳の系譜』しか読んでおりませんので、あまり深入りしないこととします。
②ルソーと「あわれみ」
では、次に「哀れみ」と「ルソー」の話をします。
これは念頭に、ルソーの言う「あわれみ」「憐憫の情」があります。
まず、私のルソー知識は『エミール』を上巻で読み折れてしまい、『社会契約論』と『人間不平等起源論』を本棚に飾っているという有様です。
ルソー関連の書籍で、ちゃんと通読したのは以下のライトな入門書です。
『NHK100分で名著シリーズ エミール(NHK出版)西研』
『NHK100分で名著シリーズ 社会契約論(NHK出版)苫野一徳』
では、『NHK100分で名著シリーズ ルソーエミール』の『第3章「あわれみ」が社会の基盤になる』を参考にしながら、ルソーの捉える「あわれみ」を探ってみます。
『エミール』という書籍の中で、「情念」の概念について中巻(岩波―今野訳―以後同じ)より、以下のように扱っています。
まず、著者(西研さんは)は、「情念」をこう記述しています。
ここの「passion」という単語自体も、かなり面白い分野だと思っています。
具体的には「感情」を表す言葉は「pathos→passion→emotion」と変化してきた歴史があります。
『語源から哲学がわかる事典(日本実業出版社)山口裕之』より、文章を引用します。(良書です。かなりお勧めです。)
上記の引用の通り、「passion」に受動的な側面があるのはデカルトの『情念論』が表しているところで、著者の指摘は適切であると考えます。
また、余談ですがpathosに関しては、「sympathy」「empathy」の項目で確認したところとなります。
ルソーは「自己愛(アムール・ド・ソワ)」と「自尊心(アムール・プロプル)」を分けて考えていました。
更に、エミール中巻12~13ページにおいてルソーは以下のように述べています。
ここは非常に興味深い箇所です。
つまり、「自己愛」は自己のみで完結する概念であるが、「自尊心」は他者を前提とした概念であると指摘をしているわけです。
これは、自尊心は他者への比較によって生まれる情念であることを示唆しており、アドラーの「劣等コンプレックス」に繋がるものを感じます。
以下にアドラーの劣等コンプレックスに関する文章を引用します。
アドラーの解説は避け、話を戻します。
また、以下のルソーの言葉からは、ニーチェの「ルサンチマン」との繋がりを感じます。
そのため、「自尊心」「憎しみ」「比較」という言葉は、
「ルサンチマン」を読み解く上での鍵となるのではないでしょうか。
それでは、「あわれみ」に話を移します。
ルソーは「あわれみ」とは、他者への共感能力だ。と言っています。
個人的な感想として、ニーチェはこういう表現を嫌いそうですね 笑
私がここで面白いと思う点は、「みじめさ」が「社会的」にするということです。
先ほど紹介した、「compassion=同情(com(一緒)-pati(苦しむ))という言葉と照らしても面白いのではないでしょうか。
「com」は「community」「common」という言葉にも使われているように「ともに」という意味があります。
誰かとともに苦しむことが、誰かとの繋がりを生む、その繋がりが社会となる。
その繋がるための共感能力が「あわれみ」なのだ。という解釈となるでしょうか。
つまり、仲間意識とはあわれみや弱さの共有なのでしょうか。
非常に面白いですね。
この発想にはキリスト教学的な観点を感じざるを得ませんが、
私は旧約聖書も新約聖書も専門的に学んでおりませんので、触れないこととします。
それでは最後に「あわれみ=共感能力」に関するルソーの3つの格率を引用します。
詳しい、解説は『NHK100分で名著シリーズ ルソーエミール』に任せるとして割愛します。(こちらも読みやすく面白さに富んでおります。おすすめです)
(7)終わりに
以上が本記事の内容となります。
少々分量が多い記事となってしまいましたが、今現在書きたいと思ったことは書けたと自負しています。
少しだけ、この記事を書くに至った経緯をお話しできればと思います。
本記事の文章骨格となる部分は2021年の7月ごろにはありましたが、ハッキリと人にご紹介できるレベルではありませんでした。
昨年から2022年10月という1年間の期間で、私がした様々な経験、またそれ以前の経験の棚卸しがあっての本記事となりました。
本NOTEを書き上げようと思ったきっかけは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という本を読了したことにあります。
本作では、アンドロイドと人間の違い、人間の共感能力について描かれており、非常に面白さを覚えました。
NOTEに読書感想と分析を書こうかと思い立ったのですが、「共感」という題材を扱う上で、本記事の文章骨格を置き去りにはできない/これを完成させずには書くことができないと感じました。
専門的でない分析、整合性のつかないところなど多々あるかとは思いますが、ご容赦ください。
それでは、最後に、
私は「共感」という言葉は私の人生に不可分であると感じています。
「あなたの人生で大切にしている価値観は何ですか?」と問われれば、
「共感」が間違いなく、五指に入ります。
このような記事の執筆などを経て、「わたしは他者/社会とどう関わるのか」という問いの答えを育んでいければと考えています。
それでは最後に尾崎豊の『優しい陽射し』の歌詞を引用します。
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