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唯識説/大乗仏教【仏教の基礎知識18】

サーンキヤ学派の諸原理

現象的存在は多種多様であるが、サーンキヤ学派はそれらに共通する三種の要素を認める。すなわち、純質・激質・闇質である。純質に富むものは明るく、軽快であり、激質のまさったものは刺激的、活動的であり、闇質性のものは暗く、鈍重である。三要素は混合して個々の現象的存在を構成し、いずれの要素が優位を占めるかによって現象的存在は多様になる。多様ではあっても、三要素から成るという点において、すべての現象的存在は共通性をもっているのである。
原因と結果は等質的であり、原因が変化して結果になるのであれば、共通性をもった現象的存在はすべて同一の原因の変化によって生じた結果であると考えられる。そこでサーンキヤ学派は、あらゆる現象的存在の根源に唯一の質料因を想定し、それを原質(prakrti)または第一原因(pradhāna)とよんだ。
原質は純質・激質・闇質の三構成要素から成っている。この三種の構成要素のあいだの均衡がやぶれると、原質から諸原理が順次に開展するのである。最初に思惟機能が生じ、それから自我意識が開展する。自我意識から一方には十一種の器官(思考器官・五種の知覚器官・五種の行為器官)が、他方には五種の素粒子(音・感触・色・味・香)が開展し、素粒子から五種の元素(虚空・風・火・水・地)が生じて対象界を構成する。
サーンキヤ学説における変化とは、右のような諸原理の開展をいうのである。開展したものはすべて三種の構成要素から成り、構成要素の排列のしかたによってさまざまな様相をとっている。変化とは、質料因が本質的には同一性を保ちながら、あらわれ方を異にすることにほかならないのである。(p134-136)

仏教の思想4「認識と超越〈唯識〉」服部正明・上山春平/角川ソフィア文庫

八識とサーンキヤ哲学諸原理対応

チッタ(Citta)⇒アラヤ識(阿頼耶識)
チッタはサンスクリット語で「心」を意味する言葉で、非常に広い意味を持つ。仏教やヨーガでは、心の活動全般を指す。この「チッタ」が仏教の阿頼耶識(あらやしき)に対応するという考え方がある。阿頼耶識は、八識説における最も根本的な意識で、過去の経験や業(カルマ)を蓄える倉庫のようなものであり、すべての意識の根源とされる。
アハンカーラ(Ahaṃkāra)⇒末那識(まなしき)
我執:アハンカーラは、サンスクリット語で「自己意識」や「エゴ」を意味する。自分を「私」と認識する感覚を指し、自己同一性を形成する。このアハンカーラは、仏教の末那識に対応する。末那識は、自己意識としての働きを持ち、自我への執着を生む。常に「自分」という観念を抱いている識(意識)で、根本的な無明(無知)から生じるとされる。
マナス(Manas)⇒意識(いしき)
マナスはサンスクリット語で「思考」や「意識」を意味し、心が思考したり判断したりする働きを指す。このマナスが仏教の意識に対応すると考えられる。意識(第六識)は、外界の情報を受け取り、分析し、判断する心の機能で、私たちが日常的に使う「考える力」に相当する。
五知覚器官(Pañca Jñānendriya)⇒前五識(ぜんごしき)
五知覚器官は、インド哲学で視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの感覚器官を指す。これが仏教の前五識に対応する。前五識とは、眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)の五つの感覚的な意識のことを指し、それぞれが感覚器官に対応している。これらの識は、外界の情報を感覚的に捉える役割を持つ。


唯識論の根本的間違い

唯識論(アラヤ識を中心とした仏教の思想)では、すべてのものはアラヤ識から生み出されるとされる。アラヤ識は、心の深層にある無意識的な層であり、外界の物質的なものや自然界のものも、最終的にはこのアラヤ識から生じていると考える。このような考え方において、仏教は無常(すべてのものが常に変化し続け、恒常的な実体が存在しないこと)を強調する。これにより、仏教では「刹那滅」という考え方が重要となる。刹那滅とは、すべての現象が一瞬一瞬に生起しては消滅するものであり、永続する実体ではないという考え方だ。
一方、サーンキヤ哲学は「自性」という不滅の存在を前提とし、それが質的に変わらないまま展開していくという観点を持っている。しかし、仏教ではこのような不滅の実体を認めず、常に変化し続けることを強調する。そのため、仏教徒は恒常的な実体を認めず、あらゆるものが刹那滅するものであると主張する。
ただし、霊的な世界については、現象世界とは異なる見解が存在する。現象世界は刹那滅であるが、霊的世界はそうではないと考える人もいる。そのため、「唯識論が刹那滅の論理に誤りがある」と批判する立場も存在する。しかし、唯識論におけるアラヤ識は実体ではなく、瞬間的に生じては消えるものであり、この論理は仏教の無常観に基づいている。

仏教は、無我や無自性といった概念を無理に押し進めるあまり、
誤りを次々と重ねてしまったのではないだろうか。
その結果、理論の展開において何度も同じ過ちを繰り返し、
道を踏み外してしまったとも言える。(竹下雅敏)

このようなサーンキヤ学説における変化の概念を、そのまま「識」に適用させることはできない。識は発生した刹那に滅し、次の刹那の識と交替する。現在の瞬間の識と次の瞬間の識とは別々のものであって、前後を通じて存続する同一の識というものはない。「唯識三十頌」の註釈において、スティラマティは、変化を「他の様態になること」であると定義している。それは「識の流れ」が他の様態になることを意味する。彼はさらに続けて、「原因の刹那が消滅すると同時に、原因の刹那とは特質を異にする結果が発生することが変化である」と述べる。唯識説における「識の変化」とは、識という基体がその本質を失うことなしに様相を変えることではなく、「識の流れ」において、ある瞬間の識が直前の瞬間とは別のものとして発生することを意味するのである。(p136-137)

仏教の思想4「認識と超越〈唯識〉」服部正明・上山春平/角川ソフィア文庫

服部 思想的には、「識の変化」の概念の形成に、サーンキヤ学派の影響があるのではないかと思います。「識の変化」の説明には、よく、サーンキヤ学派の「変化」とは違うということが強調されていますが、そのことは、この概念がサーンキヤ説を念頭におきながら形成されたことを示しているように思うのです。
あるものが本質を変えずに、その様相を変えるというのがサーンキヤ学派の「変化」の概念内容です。このサーンキヤの概念を借りながら、変異せずに持続する基体を否定するところに、「識の変化」の概念の、サーンキヤとの相違がでてきます。(p238-240)
上山 サーンキヤのプラクリティ(原質)は、仏教でいうと「自性」としてつかまえられるわけですね。
服部 そうです。
上山 ところが、仏教では基本的に「自性」を否定するわけでしょう。その場合、転変という意味がだいぶ変わってくるんじゃないですか。
服部 「識」が瞬間ごとに前の瞬間とは異なったものとして生じてくることを、サーンキヤ学派の術語を用いて「パリナーマ」というのです。
服部 それから自我意識を一つの原理として取り上げるのもサーンキヤ学派です。仏教でも古くから自我意識を煩悩の一つとしていますが、唯識派がそれを特に独立の識として原理的に取り上げるのは、サーンキヤ学説における自我意識が影響を与えているのではなかろうかと思います。

仏教の思想4「認識と超越〈唯識〉」服部正明・上山春平/角川ソフィア文庫

唯識論の成立過程

解説 渥美泰雄
まず釈尊の教えをまとめた原始仏教が成立し、そのあと、BC三世紀ころから小乗(部派)仏教の哲学であるアビダルマ論がつくられる。紀元一世紀前後から空の思想を説く大乗仏教が起こり、その思想を体系化したナーガールジュナ(龍樹)の中観派が二、三世紀ころに形成されるが、アビダルマ論の流れは廃れることなくヴァスバンドゥ(世親)の「倶舎論」のような重要な著作がつくられた。唯識論は、紀元四、五世紀ころ、マイトレーヤ(彌勒)とヴァスバンドゥによって確立された。つまりアビダルマと中観の二つの流れを統合する形で、唯識の哲学が生まれたのである。(p346-347)
唯識論はアビダルマ論と関係が深い。
アビダルマ論でいうダルマ(法)は、存在するもの(存在者)を構成しているさまざまの要素という意味である。「倶舎論」では全部で七十五のダルマをあげ、五つの種類に分類している。(五位七十五法)。まず第一の種類は、物質的あるいは感覚的存在の要素としてのダルマ(色法)で、これは十一ある。原始仏教では、西洋の近代認識論のように主観と客観を分離しない。しかし、アビダルマ論になると、ダルマを客体的存在として、主観から切り離してとらえるようになる。つまり、心が対象を認識する道具である感覚器官と、その対象を構成する物質を数え上げたのが十一の「色法」のダルマである。(p352-355)
第二の種類は、全体としての「心」というダルマで、これは一つしかあげられていない。「心」は、さまざまの心理作用を統括する中心として、人体の中で活動しているからである。次に三番目のダルマとしては、さまざまの心理作用(心所)があげられている。これは最も多くて、四十六ある。四番目は心に属さないダルマ(心不相応法)で、これには文章や字母とか、遺伝子のようなもの(柴同分)などがあげられている。何でこういうものをダルマに入れたのか、よくわかりかねるが、これは、心でも物でもない存在という意味らしい。
最後のダルマは無為法で、これは三つあげられている。「択滅」は、瞑想が深まってゆくときに現れてくるダルマである。これに対して、現世には起こってくる条件がないために、永遠に現象してこないものがあると考えて、これを「非択滅」のダルマとよぶ。さらに、存在の究極のダルマを想定して、これを「虚空」と名づけたのである。
唯識論は、ダルマの数を百にふやしているが、分類のしかたは基本的に、「倶舎論」の考え方を受け継いでいる。
これらのダルマは、一瞬の中に生まれては消えるもの(剎那生滅)とされている。瞑想の体験に即していうと、こういう考え方は、雑念や妄想が次々に起こっては消える状態から考えたことではないか、と思われる。
さて、アビダルマ論と唯識論は、どこがどうちがうのであろうか。アビダルマから唯識に至る間には、一切皆空の思想に立つ中観派の哲学が生まれている。ヨーガにおける煩悩の分析はそれだけで終わるわけではない。ヨーガの目的は、煩悩を体験的・反省的に認識するとともに、それを乗りこえて行くこと、すなわち超越するところにある。
『倶舎論』では、全体としての「心」(心法)を一つだけおいている。さまざまの心理作用の全体を統括している基本的なダルマである。八識説は、この概念を発展させて、いわば立体的にとらえ直し、誕生から死に至る個体の生命における時間意識の基礎に、個体を越えて持続するより深い生命の時間的流れの領域を設定したのである。

仏教の思想4「認識と超越〈唯識〉」服部正明・上山春平/角川ソフィア文庫

唯識論・唯心論・唯我論

唯識思想は、外界の事物と自己の存在を否定する。たしかに山もあり、花もあり、自己もあるが、しかし、これらすべては自己の心的活動内の現象にすぎないのである。だから、我われが認識するあらゆる現象(精神的および物理的現象)は、それらを精神活動という段階でとらえるならば、それらはすべて存在するのである。つまり精神活動(識)は存在するのである。
「現実に認められる外的現象と内的精神とはすべて、なにか或る根源的なものによって表わされたものにすぎない」というのが「唯識」の根本的定義である。この根源的なもの、つまり究極的存在、根本的心的活動を「阿頼耶識」という。したがって唯識とは「あらゆる存在は阿頼耶識によって表わされたもの、作り出されたものである」という意味になる。
そして、唯識思想の目指すところは、
(1)客観としての対象は精神の領域(=識)の外には存在しないとさとり、
(2)それによって、外界の事物を実在とみる主観の誤った認識およびそれにともなうさまざまな苦悩(=煩悩)を減し、
(3)最終的には、自己の根源体である阿頼耶識をそのあるべき本来的状態に転換(転依=所依すなわち阿頼耶識を転ずること)せしめる、ことである。

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

唯心論と唯識論はどちらも心や意識を重視する考え方だが、その意味合いや哲学的背景には重要な違いがある。
唯心論は、西洋哲学において発展した概念で、現実の根本的な実在を物質ではなく心や意識に求める立場を指す。物質的な世界は心の産物に過ぎず、心や意識が現実を構成するという考え方が中心にある。ジョージ・バークリーのような哲学者が提唱した主観的唯心論では、「存在するとは知覚されること」であり、物質的な実体の存在は否定される。
一方、唯識論は、仏教特に大乗仏教の瑜伽行唯識派ゆがぎょうゆいしきはで展開された思想で、「すべての現象はしきすなわち心の働きに他ならない」とする立場を取る。唯識論では、私たちが経験する現象や世界はすべて心の識によって構成され、外界の独立した実在を否定するが、その背景には、心がもたらす錯覚や執着を乗り越えて真理に至ることを目指す宗教的・修行的な意図がある。
要するに、唯心論は心を実在の基盤とみなし、哲学的に物質の存在を否定することに重点を置くのに対し、唯識論は心の働きを解明し、それによって悟りに至る道を示すことを目的とした仏教的な教えである。このため、唯識論は宗教的・実践的な側面が強く、唯心論は純粋に哲学的な探究に根ざしている点が異なる。


唯我論は、哲学において極端な形の主観主義であり、自己の意識や経験だけが唯一確実なものだとする立場。唯我論を採ると、自分自身の心や意識だけが存在することを確実に知覚でき、それ以外の他者の存在や外界の現実は、自己の意識の中にしか存在しない可能性があると考える。
例えば、自分が見たり感じたりする物や人々は、実際には自分の意識が作り出したものに過ぎず、他の人々が本当に存在しているかどうかは確かめようがない、とする考え方である。このため、唯我論は他者の存在や外部の現実を確信することを否定し、最終的には「私だけが存在する」という結論に至る。
唯我論は哲学的に非常に極端であり、多くの哲学者はこの立場を避けるか、批判している。なぜなら、もし唯我論が正しいとすれば、他者とのコミュニケーションや外界の理解がすべて無意味になってしまうからである。このため、唯我論はしばしば思考実験や批判的な議論の中で扱われるが、実際に採用されることは少ない。


五位説

仏教ではあらゆる存在を総称して法(ダルマ)という。ただ、唯識思想は、外的事物の存在をまったく否定し、あらゆる事物を心的なものに還元してしまうから、その存在論の存在とは、自己の「心」と、およびその心によって作り出された事物ということになる。(p94−95)
説一切有部によって〈五位〉説という新たな存在分裂法が確立された。五位とは次の五つをいう。
(1)色 ……「物質的なもの」。
(2)心 …… 心的作用の主体。
(3)心所 …… さまざまな心理作用。
(4)不相応行 …… 物質(色)でも精神(心)でもない存在。
(5)無為 …… 生滅する現象ではなく、それでいて常住なもの。真如をいう。(p99)
唯識論僧行派も前述した五位説をそのまま取り入れている。「俱舎論」ではふつう「五位七十五法」をたてるといわれるのに対して、唯識では「五位百法」といわれ、合計して百種の存在要素を設定するにいたった。
ところで、阿毘達磨仏教とくらべ説一切有部は、五位に含まれるすべての存在を実体的存在(実有)と考えたが、これに対して唯識論僧行派は、あらゆる存在を識(心・心所)のなかに収めつくし、物質(色)が外界に実在することを強く否定した。また、不相応行を、精神活動の上に仮りに概念設定した第二次的存在にしかすぎないとみなした。さらに、あらゆる存在は精神を離れて存在しないという根本的立場より、無為(真如)さえもが本質的には識の領域に入れられる。なぜなら、「無為は識の実性である」からである。このように、究極的真理(無為)を精神の真実のあり方(実性)と考えるところに、唯識思想の独特の真理観を如実にみることができる。(p100−101)
阿毘達磨思想では、存在を色・心・心所・不相応行・無為の五つに並記的に分類するのに対し、唯識思想は、心・心所という、大きな精神のふろしきの中にあらゆる存在を包みこもうとするのである。

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

善悪の種子しゅうじ

阿頼耶識の基本的特質
阿頼耶識は、あらゆる存在を生み出す根源体である。自己をとりまく自然界(器世間)、自己の肉体(有視身)、感覚・知覚・思考などの主観的認識作用(諸識)はすべて根源体であるこの阿頼耶識から変化して生じたものである。
また阿頼耶識はさまざまな経験の影響が貯えられる場所である。精神的あるいは肉体的活動のすべては、即座にその影響を種子として阿頼耶識の中に植えつける。そしてその植えつけられた種子は阿頼耶識の中である期間貯えられ、成熟し、その結果さらに新たな存在を生み出すにいたるのである。
阿頼耶識は存在と認識の根源体であると同時に、善あるいは悪を成立せしめる基体でもある。仏教でいう悪を一言でいえば、それはむさぼりいかりむちに代表される「煩悩」である。このような悪なる心理状態はすべて、阿頼耶識の中の煩悩種子より生じ、生じ終われば同時に新たな悪の種子を阿頼耶識の中に植えつける。
しかしそれは同時に、我われが悪から善へ移り行く掛け橋でもある。阿頼耶識の中には悪の種子に加え、善の種子も存在する。善の種子とは善を生み出す潜在的力である。この善の種子がなにかの機縁によって芽をふき、次に実を結び、最後に新たな種子を残す。このような善の種子による一連の活動が幾百、幾千と繰り返され、ついに阿頼耶識全体が善の種子だけで満たされる時、阿頼耶識があらゆるものを生み出すのであるから、いわば全存在が善なる状態を完成したことになる。(p108-109)

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

唯識の八識説

原始仏教いらい、識として、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六種類をたててきたが、唯識思想は、これら六識の奥に〈末那識〉という自我意識を、さらにこれら七識を生み出す根源体として〈阿頼耶識〉をたてるにいたった。
合計して八種類の識をたてることから、これを唯識の八識説という。
このうち阿頼耶識は可能態としての種子を自己の中におさめつつ、現実態としての存在、つまり、七識(眼識~末那識)と有根身(肉体)と器世間(自然)とを生み出す。
阿頼耶識は別名「一切種子識」といわれるように、そのなかに、先天的であれ、後天的であれ、我われの体験(業・カルマ)の影響がすべて種子として植えつけられている。(p118-119)

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

輪廻の主体

阿頼耶識はこの一生の間、我われの身心を維持し続ける、いわば生理的有機的基盤であるが、同時に、現世から来世へと引き継がれていく輪廻の担い手でもある。阿頼耶識は輪廻説においても重要な役割を演じている。
では、生死流転する機構を唯識思想はどのように説明するのであろうか。
まず、ある一個人の現在の状態、つまり、人間として生まれたこと、寿命が、たとえば八十歳であることなど、換言すれば、現在世における阿頼耶識の先天的性質は、過去世にその人が行った業(善と悪との行為)によって決定される。(p120-121)
そして、現在世において過去の業の影響力がなくなり、寿命がつきるとき、阿頼耶識は現在世から消滅し、新たに未来世に生まれかわるのである。
現在世において善い行為(善業)を行なうか、あるいは、悪い行為(悪業)を行なうかによって、未来世は、天人や人間に生まれる、あるいは畜生・餓鬼・地獄に生まれるのである。ここに「善因善果、悪因悪果」という仏教の基本的因果律を歴然と認めることができる。
未来を決定する業種子を植えつけるのは六識であり、しかもそのうちで善あるいは悪なるものであるという点が重要である。六識のうち業を起こす主体は意識であるから、とりわけ意識的活動、つまり、あれこれと概念的に思考する意識作用こそが、我われの未来を決定する最も重要な要因である。

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

阿頼耶識縁起

種子としての潜在的エネルギーが具体的に芽をふき、顕在的活動エネルギーに変化したものが日常の諸経験である。物を眺める、思いにふける、泣き笑う……、考える、しゃべる、動く——これらすべての諸活動をまとめて〈現行〉という。あるいは諸識の活動であるから〈現行識〉という。
種子は沈隠・不顕現、現行は顕顕・顕現であるといわれるように、前者は潜在態、後者は顕在態であるから両者はまさに相対立する概念である。しかし両者は相互に因果関係にある。なぜなら、種子より現行が生ずるから、その場合には、種子が原因で現行が結果であり、また、生じた現行は即座に新たな種子を阿頼耶識に植えつけるから、その場合には現行が原因で種子が結果である。
このように深層心理と表層心理との有機的な相互因果関係によって全存在が、まるで荒れ狂う河の流れのように、流動しつづけているのである。これを「阿頼耶識縁起」という。(p125)
前述したように外界に事物の実在を認める実在論者は、たとえばAという事物を見るという認識の成立を次のように説明するであろう。「外界の事物Aの印象すなわちAの表象(影像A')を心が見る」と。
これに対し、唯識思想は、「影像A'は心自身が変化したもの、作り出したものであり、A'に対応する事物Aというようなものが外界にあるのではない」と説明するであろう。
ここで持ち出されるのが有名な〈阿頼耶識縁起説〉(根本的な阿頼耶識より全現象が生起するという理論)である。つまり阿頼耶識の中にあるAという種子が成熟し、芽をふき、A'という影像を作り出し、それを、同じく阿頼耶識中の種子から生じた眼識が眺めるという認識構築である。
そしてこの阿頼耶識縁起説に基づくかぎり、外界に梅の木が実在しなくても、梅の木を眺めるという知覚は成立するわけである。

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

唯識派の哲学的な立場は、認識論と存在論に深く関わっている。
まず、唯識派は「存在とは何か」という問題に対して、外界が独立して存在するという考え方を否定する。通常、私たちは外の世界が存在し、それを私たちの意識が認識していると考える。しかし、唯識派では、外界が実在するという仮定自体が不要だと主張する。外界が存在するかどうかに関わらず、私たちが経験しているものはすべて心の中で作り出された「表象」に過ぎないと考えるからだ。
次に、唯識派の認識論的な立場では、認識のプロセスが重要視される。唯識派によれば、意識は瞬間ごとに消滅し、その瞬間の意識が次の瞬間の意識を生み出す。これが連続的に続くことで、私たちは絶えず世界を認識し続けている。この意識の連続性の中で、過去の経験や記憶が蓄積され、それが「種子」となって新たな認識を生み出すとされる。このように、認識とは過去の意識の蓄積が表象として顕在化したものであり、それが私たちが知覚する世界だというのが唯識派の主張だ。
つまり、唯識派においては、世界の存在や認識はすべて主観的な意識の中に閉じ込められている。外界の独立した存在を否定し、すべてを意識の表象に還元することで、彼らは存在の本質を心の働きそのものに見出そうとする。これが唯識派の哲学的な立場だ。

自己の存在証明は不可能

自己の存在について考察する際、最も厄介なのは、その存在を証明することが本質的に不可能であるという点だ。「私」という概念は直感に属するものであり、論理によって証明することができない。論理的証明は、前提として絶対的に自明なものを仮定し、その仮定の上に演繹的に組み立てられるものである。しかし、「自己の存在」は、そのような仮定を必要としない、直感的に認識されるものであるがゆえに、論理の枠組みでは捉えきれない。
哲学的に考察すれば、絶対的に自明なものとは何か、それは「私の存在」である。これは他のいかなる前提を必要とせず、自らが自明であると感じられるものであり、哲学的思索の出発点として位置づけられる。しかし、唯識論においては「自己」は虚構とされ、その代わりに「識」や「心」が絶対的な基盤として仮定される。「私」という存在は虚構であり、ただ「識」のみが究極的実在として存在するとされる。
この観点から、唯識論は「識」や「心」が世界や自然を構築していると主張するが、その論理を突き詰めると、世界は「私」のアラヤ識によって構築されていることになる。唯識論は「私」という存在を否定するが、アラヤ識が存在する以上、そのアラヤ識が世界のすべてを作り出していると考えるならば、「私」が唯一の実在であるという独我論や唯心論と類似した結論に至る。
アラヤ識が究極的な実在として世界を創造しているのか、それとも「自性」が意識や物質を含むすべてを生み出しているのかは、言葉の違いに過ぎないとも言える。したがって、哲学的な説明としては、よりわかりやすい概念を採用する方が有効である可能性がある。例えば、「アラヤ識」ではなく「自性」がすべてを創造していると説明する方が、より明瞭で説明しやすいという視点も提起される。


末那識

自我執着意識
仏教は、それまでのインド思想界を支配していた我(ātman)の考えを否定して、「あらゆる存在には実体がない」という主張、つまり〈諸法無我〉を旗印とした。
ではなぜ自己は存在しないのか──原始仏教いらい、仏教の理論の大半は、この問いかけの解答を中心として作られてきたといえるであろう。そして、その解答を一言でいえば、「自己存在は縁起であるから」ということになる。
つまり、我われの自己存在は、それを構成する五つの要素(色・受・想・行・識)が、ある縁によって結合し、そこに精神と肉体とをそなえた自己という存在が仮にでき上がったまでのことであり、自己という永遠不滅の実体があるわけではない、というのである(これを五蘊仮和合説という)。(p157−159)
唯識思想も、もちろん根本的には縁起説の上に成り立っている。しかし、精神的なものの存在しか認めない唯識思想は、識相互の認識関係による無我の理論をみごとに築きあげたのである。
そして、五蘊の結合体を自己と考える自我意識に加えて、通常の意識の奥にある、いわば潜在的な自我意識の存在を発見したのである。その自我意識とは、〈末那識〉である。
この末那識の根本的作用は、末那識がそこから生じきたったもとの阿頼耶識を眺めて、それを〈自我〉であると認識し、それに執着することである。
自我意識をまとめてみると次のようになる。
(1) 概念を用いた意識的な自我意識——第六意識の働き。
(2) 意識閑下にある根源的な自我意識——第七末那識の働き。

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

四分説:四種の心的領域

【主観】      【客観】
心 (citta) ───────── 場 (artha)
能縁 (ālambaka) ─ 所縁 (ālambana)
能取 (grāhaka) ─ 所取 (grāhya)
心と塲とは原始仏教いらい用いられている用語である。
能縁と所縁とは阿毘達磨仏教以來の用語であり、西洋でいう主観・客観に相当する最も典型的なことばである。主観と客観との両者は、いずれか一つだけで単独に存在できるものと考えられているのに対し、能縁と所縁とは、その漢訳からしても判るように、両者は、いわば相互依存関係をもつものとして把えられているのである。
能取と所取とは、唯識瑜伽行派の人びとが好んで用いた一切唯識の立場から、存在を認識論的に把えようとした態度の一つのあらわれであろう。(p144-146)
四種の心的領域(四分説)
唯識瑜伽行派の人びとは、客観と主観との背後に、さらに別の心的作用を設定し、最終的には四種類の心的領域を区分するにいたった。
これを《四分説》といい、唯識思想の重要な教理の一つである。
(1) 相分
(2) 見分
(3) 自証分(自体分)
(4) 証自証分
〈相分〉とは客観としての心的部分である。〈見分〉とは、相分を把握し認識する主観としての心的部分である。そして、相分と見分とに二極化する以前の心を〈自体分〉(自証分)という。すなわち「心それ自体」が、見られる側と見る側とに二極化し、その対立の上に、感覚・知覚・思考などのさまざまな認識作用が成立するのである。
さらに、以上の論理からすれば、自証分の奥にこの自証分の働きを確証するもう一つの確証作用が存在することになる。したがってそれを〈証自証分〉(自証を証する分)と名づける。しかし、さらにこの証自証分を確証する作用、さらにそれを確証する作用……と、無限の確証作用を設定する必要に迫られる。この無限遡行という矛盾を救うために、証自証分は前の自証分であるとして、全部で四種の心的部分(四分)をもって、ある一つの認識作用が完成すると考えるのである。(p146-149)

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

因縁変と分別変

あらゆるものは阿頼耶識が変化(転変 pariṇāma)したものであるとみるのが唯識の根本思想である。しかし、その〈変化〉のあり方に次の二種類がある。
(1) 因と縁とによって変化したもの(因縁変)。
(2) 分別の力によって変化したもの(分別変)。
たとえば、庭の木、石、自己の肉体は自己の心が作ろうと思って作り出したものではない。それらは、阿頼耶識の対象(相分)として、たとえ眠っているときでも存在しつづけているのである。(p151ー153)
`我われの肉体と自然界、つまり現代でいう物質的なるものは、意志や感情などの表層的心理作用とは無関係に作り出されたものである。これを専門的には〈因縁変〉のものである、という。これに対し、感情や意志などの力によって作り出された表象、それらはすべて、自己の第六意識が無理に作り出した仮の表象にしかすぎないのである。この意味でこれらを専門的には〈分別変〉のものであるという。
我われは、いつも過去を悔い未来を悩む。このほとんどが、分別が作り出したもの、つまり、我われは、いつも第六意識に翻弄されて、真の認識のあり方から遠く逸脱しているのである。

「唯識思想入門」横山紘一/第三文明社レグルス文庫

種子はコーザル体にある

三性説さんしょうせつ

三性とは、妄想された存在形態(逼計所執性へんげしょしゅうしょう)、他に依 存する存在形態(依他起性えたきしょう)、完全に成就された存在形態(円成実性えんじょうじっしょう) と名付けられる世界の三種のあり方を指す唯識思想の根本真実である。


有形象唯識論・無形象唯識論

無形象唯識論では、アラヤ識が最終的には否定され、最高の実在(光り輝く心)が個体に現れ、見る者と見られる者が分かたれることなく、絶対知に到達すると説いている。
一方、有形象唯識論は、アラヤ識を実在する識体と見なし、その識体が変化して、見る者と見られる者が生じると主張する。この説によれば、たとえ絶対知に達したとしても、アラヤ識そのものが否定されるわけではなく、アラヤ識内に潜んでいる煩悩の力が根絶されるだけである。したがって、悟りを得た後でも見る者と見られる者は存在し続ける。
このような思想の流れを、後に「有形象唯識論」と名付けた。それに対して、アラヤ識を否定することで、最高実在が二元性を離れて絶対知として輝くことを強調する唯識説が「無形象唯識論」と呼ばれるようになり、最終的には中観派および中観学説と結びついていくことになる。

妄想されたもの(遍計所執)、他によるもの(依他起)、および完全に成就されたもの(円成実)、まさしくこれら三つの自性がある。それは剛険なる人々(菩薩)にとって、学問の対象としてきわめて深いものといわれる。(1)
(何かの認識において)あらわれるもの、それが「他によるもの」であり、いかにあらわれるか(という様態)が、「妄想されたもの」である。(前者は、他の原因にもとづいて起こるから「他によるもの」であり、後者は分別のみとしてあるから「妄想されたもの」である)。(2)
そのあらわれる主体(依他起性)にとって、かのあらわれた様態(遍計所執性)が、常に(まったく)存在しなくなった状態、これが「完全に成就されたもの」(円成実性)であると知るべきである。それは(もともと)変化するという性質のないものだからである。(3)
何ものかがあらわれ、見られ、認識されていることが根底となって、その上に分別され、固定され、執着された遍計所執の世界がくりひろげられるが、その分別や執着が払拭されたとき、「あらわれる」ことがそのままに、不変に、円成実である、というものである。
そのばあい、何があらわれるのか。真実ならざる分別が(あらわれられるの)である。いかなる様態であらわれるのか。(主観と客観との)二つのものとして(あらわれられるの)である。それ(真実ならざる分別)に実在性がないとはどういうことか。それ(主観・客観の二つのもの)として(実在するので)はないことである。そのことはまた、かれ(真実ならざる分別)の本来のあり方(法性)、すなわち二つのものがないという(法性)にほかならない。(4)
「真実ならざる分別」が依他起であり、その分別において、所取と能取、すなわち客観と主観の「二つのもの」が実在的に考えられていることが遍計所執であり、その実在性への執着が払拭されて非存在となるとき、円成実性である。この主観・客観の二者対立の無なること、それが法性として円成実なのであるが、その法性は、真実ならざる分別そのものののなかに見出される法性(本来のあり方)である、と述べている。
ここにいう「真実ならざる分別」とは何か。心である。なんとなれば、それ(心)はそれが分別されたり、対象を分別したりするが、そのようには(客観としても主観としても心は)けっして実在しないから、(これが真実ならざる分別、非存在の分別といわれるの)である。[5]その心は、因であることと果であることによって、二種に考えられる。すなわち、(一は)アーラヤ(阿頼耶)と名づけられる識であり、(二は)起こっている(識)(転識)と名づけられる七種のものである。[6]
もろもろの汚染の種子となる(過去の行為の)習慣性(習気)が積み重なっているから、心というのであるが、最初のもの(すなわち、アーラヤという識)は(その意味において心)である。それに対して、第二のもの(すなわち、起こっている識)は、種々の形相をもって起こるから、(心というの)である。[7](p206-207)
アーラヤ識は世界全体の因としてあり、これに対して、その果として現象的な世界において起こり、はたらいている識は七種であり、すなわち「七転識」といわれる。七転識とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の識と、第七にとくに我意識としてのマナス(染汚の末那)を加えた七種である。(p208)
要約していえば、この虚妄なる分別は、次の三種として考えられる。すなわち、異熟的なものと、また原因的なものと、さらに顕現的なものとである。[8]
その第一のものは根本識である。なんとなれば、その本性が異熟だからである。それ以外(の二者)は、現に起こってはたらいている識(転識)である。見られるものと見るものとの認識としてはたらいているからである。[9]
***
「異熟」という語は、「果報」とも訳され、過去の行為・業が変化し(異)、成熟(熟)して、現在が結果として成立していることを意味する。それが同時に未来への原因ともなることは、第[七]頌の「種子」の語からも知られる。このようにあらゆる過去を担い、未来への起点となることが、アーラヤ識が「根本識」と名づけられるゆえんである。第[九]頌の「見られるものと見るものとの認識」は、「客観と主観との対立による認識」と解した。この二者の対立には、アーラヤ識についても考えられないわけではないが、それは意識下に属するから、なお未分明である。それに対して、前七識においては、客観・主観の対立が分明であるから、「顕現的なもの」という。前七識は、意識下の領域から抜け出し、はっきり意識されるものとして現実の世界にはたらく識であるから、「転識」といい、「現行識」という。(p209-210)
「見られるものと見るものとの認識」の語を、山口益教授は「所見を能見する、及び思量」と訳して、「所見を能見する」が六識のこと、「思量」が第七識のこととされる。また、これとは別に、「見られるものと見るものと、およびその認識」というように読むこともできる。このばあい、「認識」は「自己認識」の略とも考えることができよう。もしそうであるならば、相分(見られるもの)・見分(見るもの)・自証分(自己認識)の三分の考え方が、すでにヴァスバンドゥのなかにも見出されることとなって、思想史の上で重要な意味をもつことになる。
言語的表示は、妄想されたもの(遍計所執)の本質であり、言語的に表示する主体が、他のもの(すなわち、他によるもの、依他起性)の本質であり、言語的表示の除去されていることが、もう一つの他の自性(すなわち、完全に成就されたもの、円成実性)であると考えられる。[23](p217)
あたかも、呪文の力によって幻術がつくり出され、象の姿としてあらわれているようなものである。そこには(象の)形相があるだけであって、けっして象が実在するのではない。[27]
(そのばあい、実在するかのように考えられた)象は妄想された自性であり、その形相が他による(依他起性)である。そこに象が非実在であること、これが完全に成就された(円成実性)であるといわれる。[28] それと同じく、根本心(根本識)から、真実ならざる分別が(主観・客観の)二つのものとしてあらわれる。その二つのものはいかなる意味でも実在せず、そこにはただ(この)形相があるだけである。[29](p219)

「大乗仏典〈15〉世親論集 」長尾雅人・梶山雄一・荒牧典俊/中公文庫

三分説

有形象知識論の立場では、認識とは知識がそれ自身の中にある対象をみずから知ること、すなわち知識が知識自身をみずから知る、という知識の自己認識にほかならない。この一つの事実を論理的に分析して説明すると、知識のなかには対象の形象という客観的契機(所取・相分)とそれを知る主観的契機(能取・見分)とその主観的契機を知る自己認識契機(自証分)との三分がある、ということになる。知識は物質と異なって形や大きさをもたない、単一の存在であるから、その中に三つの部分が実在するわけではない。だから三分説というのはあくまで論理的・便宜的な説明にほかならない。
自己認識を省略してその機能を主観的契機に負わせれば二分説が成立し、自己認識をさらに知るもう一つの契機(証自証分)を想定すれば四分説となる。このさい、証自証分を知る第五の契機は必要とされず、証自証分は自証分が知る、という相互作用で代用されるから、認識の五分説というものは存在しない。また、知識は単一な自覚的存在である、という本来の意味に立ち返れば、知識の形象が形象自身を知り、その知覚をも自覚していることが認識である、という一分説も成りたつ。(p222-223)
経量部の有形象知識論では、外界の対象はけっして知覚されないが、推理によってその実在性が証明された。その外界の対象がわれわれの知識の中に投げ入れた形象、つまり知覚像が実はわれわれにとっての全世界である。外界の対象そのものは「何かがある」としかいえないものであるが、それは知識の中では、たとえば壺とか銀貨とかの形象をとって顕われる。 瑜伽行派は、経量部が要請していた外界の対象を無用の存在と考え、それに代えて、直前の心を認識の対象であるという。けだしそれは次の瞬間の心にとって実在する原因であるとともに、その心の知覚像と相似した形象をもっていたはずだからである。ところでこの、直前の心から生じた知覚像をもつ現在の心は、それ自身、全一な実在であるけれども、論理的に分析すれば客観的契機と主観的契機の二つに分けられ、さらにその主観-客観を自覚する自己認識を加えて三分されることはすでに述べたとおりである。(p228-229)

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

形象虚偽派と形象真実派

客観としての形象はあるときには壺であり、あるときには銀貨であり、あるときには見殻である。しかしそれらの形は変わっても、それらはそれぞれいつでも見えている。見えているとは照出され、自覚されていることである。してみれば、心の形象は主観-客観と照出作用としての自己認識との結合であるということができる。
さて私が浜辺を歩いていて銀貨を見つけて拾い上げるとする。ところが一瞬後にその銀貨は実は見殻であったとわかるとする。それは銀貨の形象が一瞬後に拒否されて見殻の形象に訂正されたことである。そのように拒否され、訂正されうる形象は一般的にいって虚偽である。しかし、銀貨を見えせ、見殻を顕わしていた照出性そのもの、いいかえれば自己認識は常に、変わらずにある。だから、主客の形象は虚偽であるが、自己認識は真実である、ということになる。これが形象虚偽論と呼ばれる理論である。
この理論を瑜伽行派の三性説にあてはめて説明するとこうなる。世界とは個人の根源的認識であるアーラヤ識の顕現にほかならない。このアーラヤ識は恒常的実体ではなくて、前々の瞬間から後々の瞬間が因果の連鎖となって、変化しながら継続してゆく認識の流れであり、その存在は常に前刹那に依存するから、「他に依るもの」(依他起性)といわれる。このアーラヤ識の構想作用(虚妄分別)によって、主客の形象が内部と外部との二つの世界に振り分けられた状態を「妄想されたもの」(遍計所執性)という。「他によるもの」が妄想された主客の形象を完全に離れ、解脱した状態を「完全に成就されたもの」(円成実性)と呼ぶ。さきに述べた虚偽なる形象は「妄想されたもの」に属し、純粋な照出作用そのものとしての自己認識は「成就されたもの」に属する。
形象真実論は、しかし、形象が虚偽であることを肯んじない。銀貨の形象が一瞬後に貝殻のそれに拒否訂正されるということはありえないという。二つの形象は時間的に前後して現われるのだから、その間に対立関係はないからである。銀貨の形象の真実性を疑えば、貝殻の形象の真実性を信じる根拠もなんら得られないから、すべての形象が虚偽であることになるのは、形象虚偽論者のいうとおりであるが、しかし、形象を離れた自己認識を独立に認識することは誰にとっても不可能である。だから、形象自体は真実であるが、われわれの構想作用、いいかえれば意識と自我意識の分別が形象を誤って解釈することによって妄想された世界が顕現するだけである。
形象と自己認識は切り離すことのできないものであり、ともに「他に依るもの」の本質をなす。他方、分別こそが「妄想されたもの」の本質である。したがって分別さえ除かれれば、形象は形象としてありながら「他に依るもの」は「完全に成就されたもの」に転換し、解脱は完成される。このようなものが形象真実論の骨子である。いわば、われわれが解脱したその一瞬に、虚偽なる形象は消え失せて、ただ光り輝く自覚のみが残る、というのが形象虚偽論であり、解脱したときにも緑や紅や白の形象は残るが、聖者はそれを柳の緑、花の紅、あるいは銀貨や貝殻の白と構想しないだけである、というのが形象真実論のいい分である。

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

三性と三無自性の対応

アーラヤ識が妄想されたものを離れて完全に成就されたものになることを「根拠の転換」(転依)という。インド的な観念では、実体とはあくまでも自己同一性を保つもので、変化することはない。したがってアーラヤ識が転換するということは、それが実体ではなくて、空性を本性とする実在であることを示している。事実、アーラヤ識の三性は三無自性と裏裏をなしている。「妄想されたもの」は、表象されたものとしての自体をもたないから、相無自性と呼ばれる。「他に依る性質」は自体から生起するのではないから生無自性を真実とする。「完全に成就された性質」は真如にほかならず、最高の真実として言葉や表象を超越しているから勝義無自性といわれる。

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

三性
遍計所執性
(妄想されたもの)
依他起性(他によるもの)
円成実性(完成されたもの)

三無自性
相無自性
(表象された相自体をもたない)
生無自性(自体が生起するものではない)
勝義無自性(言葉や表象を超越する)

三身説と仏の四智

仏陀に法身・受用身・変化身の三種を認める三身説は瑜伽行派(唯識学派)によって完成された。三身の呼称や意味には相違があって、法身に相当するものは自性身とも呼ばれる。受用身は「報身」とも呼ばれるが、例えば阿弥陀仏が安楽国(極楽)をもつように、その仏国土をもち、楽園の荘厳を具えた聖域において法楽を享受(受用)するが、そのばあい、自ら享受(自受用)するだけでなく、他者に享受させる(他受用)ことをも含む。変化身は応身・化身・応化身などいろいろな呼び方がある。これは歴史的な仏陀であるゴータマ・ブッダ(釈尊)を始め、この地上にあらわれる種々の化仏や権化を含む。法身は絶対の真理として常住であるが、受用身と変化身とは、「摂大乗論」に従えば、無常である。中国や日本でもっとも一般的な三身の呼称は法身・報身・化身(応身)である。

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社
  1. 法身 - 自性身(常住)……コーザル体

    • 「法を不滅の真理そのもの。理法としての仏」

  2. 受用身 - 報身……幽体

    • 「過去の願・行が原因で現在無限の力とすぐれた容姿をもって現われている仏」

  3. 変化身 - 応身・化身・応化身……肉体

    • 「世と人を救うために、人の姿を現した仏」

『摂大乗論』は、「法身は転依(根拠の転換)を相となす」といい、雑染分(汚れた部分)の依他起性を転滅し、清浄分の依他起性を転得することが法身の獲得であるという。さらに、法身の五相を述べるうちに、大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の、仏陀の四智をあげている。同論に対するアスヴァバーヴァ(無性 450–530ごろ)の注釈は四智を八識に配当した。さらにスティラマティは『荘厳経論』9・60の注において、大円鏡智を法身に、平等性智と妙観察智を受用身に、成所作智を変化身に配当する(この三身と四智との対応には異説もある)。スティラマティの三身・四智・八識の対応は次のように表される。
法身 = 大円鏡智 - アーラヤ識の転依
受用身 = 平等性智 - 自我意識の転依
     妙観察智 - 第六意識の転依
変化身 = 成所作智 - 前五識の転依

アーラヤ識の雑染分が転換されて、清浄無垢にしてあらゆるものをその真相において、主客の分別なき形で映す、法身の大円鏡智となり、自我意識(染汚末那)が転じて、自と他、涅槃と生死の不二平等を見、大慈悲を生ずる平等性智となる。第六意識(誤った思惟)が転じて、清浄なる思惟・観察・教化の作用をもつ妙観察智となる。この二智は受用身に帰せられる。五官の作用は衆生救済のためにあらゆるなすべきことを成就する成所作智となり、変化身を現ずる。この八識・四智・三身の関係は法性と慈悲・教化のあいだにきわめて具体的な関連をつけたものであって、瑜伽行派の転依の思想なくしては成就されなかったものである。

「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

中辺分別論

中辺分別論の作者は、マイトレーヤ菩薩。彼は霊的な存在であるため、霊能力を持つアサンガ菩薩が、マイトレーヤの教えを伝える役割を果たす。
次に、ヴァスバンドゥ(世親)というが、マイトレーヤの教えを解釈し注釈を加える役割を果たす。マイトレーヤは「無形象唯識派」に属し、ヴァスバンドゥは「有形象唯識派」に属するため、同じ教えであっても解釈が異なる。

オーム。仏陀に帰命す。
【帰敬の詩頌】
菩薩の身体から生まれ出たこの論の作者(すなわちマイトレーヤ菩薩)と、それをわれわれその他のものに伝えた語り手(すなわちアサンガ菩薩)とに礼拝して、この論の意味を明らかにするため、私(ヴァスバンドゥ)は、注釈を施すことに力を傾けよう。(p230)
虚妄なる分別はある。そこに二つのものは存在しない。しかし、そこ(すなわち虚妄なる分別のなか)に空性が存在し、その(空性の)なかにまた、かれ(すなわち虚妄なる分別)が存在する。
ここで「虚妄なる分別」というのは、知られるもの(所取)と知るもの(能取)との(二者の対立)を分別することである。「二つのもの」とは、この知られるものと知るものである。(それら二つのものは究極的には実在しない。したがって)「空性」とは、この虚妄なる分別が、知られるものと知るものの両者を離脱し(両者が否定され)ている状態である。「そのなかにまた、かれが存在する」とは、(空性のなかに)虚妄なる分別が(存在すること)である。(p232−234)
このようにして、“或るものが或る場所にないとき、後者(すなわち或る場所)は、前者(すなわち或るもの)としては空である、というように如実に観察する。他方また、(右のように空であると否定されたのちにも)なお(否定されえないで)なんらかあまったものがここにあるならば、それこそはいまや実在なのであると如実に知る”という(ように述べられている)空性の正しい相が(この詩頌によって)明らかに述べられた。

「大乗仏典〈15〉世親論集 」長尾雅人・梶山雄一・荒牧典俊/中公文庫

ある駐車場を考えてみよう。その駐車場に車が一台も停まっていないとき、その駐車場は「車がない」という意味で「空」と見なされる。しかし、その「空」であるという状態を観察しても、駐車場そのものが消えるわけではない。駐車場は依然として存在し、車を停めるスペースがそこにある。
この状況を通じて、「あるものが特定の場所に存在しないとき、その場所はその『あるもの』に対して『空』である」と認識できる。しかし、「空」であると認識されたとしても、その場所自体、つまり駐車場という存在が消えるわけではない。駐車場という実在そのものは依然としてそこにあり、その存在が否定されることはない。
これが「空」の本質を示すものであり、あるものが欠けている状態を「空」として理解する一方で、その背後にある実在の存在を見極めることが「空性」の正しい理解となる。

それゆえに、すべてのものは空でもなく、空でないのでもないといわれる。それは有であるから、また無であるから、さらにまた有であるからである。そしてそれが中道である。[1・2]
「空でもなく」というのは、空性(がある)という点で、および虚妄なる分別(がある)という点で(空でもないということ)である。「空でないのでもない」とは、知られるものと知るものとの両者については(空であるから)である。「すべてのもの」とは、つくられたもの(有為)——(ここでは)虚妄なる分別と呼ばれているもの——と、つくられることのないもの(無為)——空性と名づけられたもの——と(の両者をふくんで、「すべてのもの」というの)である。「いわれる」とは、説明される(という意味)である。
「有であるから」とは、虚妄なる分別が(有であるから)であり、「また無であるから」とは、(知るものと知られるものとの)二つのものが(無であるから)であり、「さらにまた有であるから」とは、虚妄なる分別のなかに空性が(有であるから)、またその(空性の)なかに虚妄なる分別が(有であるから)である。「そしてそれが中道である」とは、すなわち、すべてのものが一方的に空なのでもなく、一方的に空でないのでもないこと(が中道)である。このようにして(ここに述べられたことは)、『般若波羅蜜多経』などのなかに、“この一切のものは空でもなく、また空でないのでもない”と述べられているこのことに一致するものである。

「大乗仏典〈15〉世親論集 」長尾雅人・梶山雄一・荒牧典俊/中公文庫

空性

識が生起するとき、それは対境として、有情として、自我として、および表識として(四通りに)顕現する。しかし、それの(識の顕現としての四通りの)対象は実在しない。それが存在しないから、かれ(すなわち識)もまた存在しない。
「対境」とは(識が)色形などのあり方をもって顕現することである。「有情」とは、自分や他人の身体(相続)において、(識が)五種の感覚器官(五根)として(顕現すること)である。「自我」とは、(自我の観念を構成する)汚れた意(染汚末那)としての顕現である。「表識」とは、(眼識などの現象面ではたらいている)六種の識(としての顕現)である。この知られるものとしての対象が存在しないから、それに対応する知るものとしての識もまた存在しないのである。
それゆえに、それ(すなわち識)が虚妄なる分別であることが成立した。なんとなれば、(識は)そのままに(真実として)あるのでもなく、またあらゆる点でないというのでもないからである。
(識は虚妄である。)なんとなれば、そのあり方は、顕現が起こっているのと同じように「そのままに(真実として)あるのでもない」からである。かといって、「あらゆる点でないというのでもない」。迷乱といわれるかぎりのものは起こっているからである。
では、それは存在しないとのみ、何ゆえに言わないのか。(そうは言えない。)なんとなれば、それ(すなわち識)が滅尽することによって、解脱のあることが認められるからである。
もしそうでないならば、(迷いに)束縛されること、またそれからの解脱ということ(など、これらの事実)が成り立たないであろう。したがって、汚染の存在と清浄な世界と(の事実)を否定するというあやまちを犯すことにもなるであろう。
妄想されたもの(遍計所執性)、他によるもの(依他起性)、完全に成就されたもの(円成実性)(という三種の自性)が説かれたのは、(順次に)対象であるから、虚妄なる分別であるから、また二つのものが存在しないからである。(p237)
得られることにもとづいて、得られないことが生じ、得られないことにもとづいて、さらにまた得られないことが生じる。[1・6]
唯識(すなわち、実在するものはただ迷乱の虚妄なる分別のみである)ということが「得られる」、その「ことにもとづいて」、(識のみであって外界は存在しないから、)対象の「得られないことが生じる」。すなわち、対象は非存在である。対象が「得られないことにもとづいて」、唯識ということについてもまた、「得られないことが生じる」。このようにして、知るもの(識)と知られるもの(対象)との二者は、無の性質のものであることを理解(し、悟入)するのである。(p238)

「大乗仏典〈15〉世親論集 」長尾雅人・梶山雄一・荒牧典俊/中公文庫


参考文献


仏教の基礎知識シリーズ一覧


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