【ディスレクシアと共感覚】ビジュアライゼーションが起こす活字恐怖②ー映像化を武器に
前回の続き記事です。ビジュアライジング=共感覚と意識する前に書いている記事なので引き続きそう呼んでいます。
私はその後、本だけでなく自分の今までを思い返すと記憶を映像にして、
かなり詳細に思い出すことができていたことに気づいた。
ひとつのシーンに記憶を貼り付け、
そのシーンの写真を脳内で取り出す感じだ。
のちに、「映像記憶」というらしいことを知った。
これは一度Quoraでも書いたことがある。
■映像記憶
引用 : 映像記憶 - Wikipedia
この回答を書いたのは最近だが、つまり私の「映像記憶」という覚え方は、言語の発達していないチンパンジーと同じということらしいのだ。
共感覚との関連性は、あまりないようには思うが。
以下過去記事より。
映像記憶、それは便利なようで不自由に感じることもある。
何かをしているときに、何か強く考え事をしてしまうと、
そのシーンになるたびに何年も思い出してしまうこと。
例えば卵焼きを焼きながらとある友人の話を家族としていたら、そこからもう、10年近く経つのにいまだに卵焼きを焼くとその友人の、その時の家族との会話を思い出してしまう。
日常のシーンに無意識に付箋を貼ってしまうようなイメージと言えばわかりやすいだろうか、とにかく一度つくとそれはなかなか消えない。
生活にはさほど支障はないが、なんだか鬱陶しいから嫌だった。
なのであまり「何かをするときに別のことを考えないように」意識して過ごしている。一回何か考えてしまうと本当にずっと思い浮かぶのだ。
なぜこのような記憶の仕方を私がしているのかは定かではないが、私の脳にとって映像化することは、とても重要なことなんだろう。
これまではちょっと覚えたい時のメモがわりにしか使われていなかったこの映像記憶を、何かに活かせないだろうか。
そう考えるようになった。
自分で作ったフォトスタジオを閉め、カメラを置いてしばらくが過ぎた頃だった。
その頃、自分以外の人に対しても無意識にビジュアライジングを行なっていることを友人からの指摘で知ることになった。人だけではない。
言葉にも強烈なイメージをくっきりとしたカラーで持っている。
「人」と「言葉」に私の脳内は共鳴する。
だから私は活字で書かれる物語を読むことが苦痛で、また人の痛みを必要以上に脳内に映像化するために感情移入してしまっていたのだろうか。
言葉は私の脳内に、雨のように降ってくる。
そして人に感じるイメージングもそうだ。
強烈なイメージは、脳を疲れさせてしまう。
だけどそれをアウトプット出来たらどうだろう?
この頭にはっきり浮かぶビジョンを何かを通して出してこれないだろうか?
握ることを渋ってしまっていたカメラに、私はビジュアライジングのアウトプットを託してみたいと、そう考えた。
ここから追記
フォトスタジオを運営していた私はそれを閉め、カメラを置いて随分と経っていた。もう一度握ることはもうないだろうと思っていた頃に、プロフィール写真の依頼があった。
プロフィール写真とは、証明写真のように顔がわかればいいというものではない。その人の魅力を引き出し内面も映るように撮らないといけないのだ。
この過去記事のあたりで私はまた、カメラを握り少しずつこのプロフィールフォトブランディングの仕事を、友人と初めていた頃だった。
ただコロナがひどくなり、仕事がなくなったため今はあまりすることがない。その友人とは色々あり、縁を切ることにもなってしまった。
今はこのビジュアライジング=共感覚からくるものを絵や文字で表現したりとアウトプットをする方法を見いだせているが、写真でも表現していけたらいいな。
また、魅力を映すブランディングプロフィール、撮りたいなと思う。
山口葵
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