古代ギリシャ語の帯気音φ, θ, χの話(1) 音にもファンタジーの炎や水のような属性があるという話について
帯気音
古代ギリシャ語のφ, θ, χ
古代ギリシャ語には文字φ, θ, χで表される「帯気音」という音がある。
簡単にいえばφは/p+h/、θは/t+h/、χは/k+h/を切れ目なく続けたような音で、息の勢いが強く、国際音声記号では/pʰ, tʰ, kʰ/と記される。
対してπ, τ, κは普通の/p, t, k/を、β, δ, γは/b, d, g/を表す。
今日執筆を始めるのはこの帯気音φ, θ, χの性質をわかりやすく学び効果的に習得するための連載記事である。
今回と次回はφ, θ, χや音の概要を示し、第3話では実践方法の解説を行う。
以降の第4話、第5話、第6話も読み進めれば古代ギリシャ語や音声の世界がもっと深く身近に感じられることだろう。
なおこのシリーズで単に古代ギリシャ語というときは特に前5-前4世紀頃のアテーナイを中心に使われていたアッティカ方言を指し、他の方言に重要な違いがあれば必要に応じて補足を行うものとする。
ラテン文字への反映
ラテン語の通常の音韻体系には/p, t, k/と/pʰ, tʰ, kʰ/の区別はない。
ローマ人はギリシャ語系のφ, θ, χを古くは/p, t, k/と同じp, t, cで(ラテン語の文字cは/k/音)、次いで通例ph, th, chという特別な綴りで書き写した。
双方の言語の事情もあって一部語尾も変わっているが、古代ギリシャ系の神名、人名、地名、専門用語などのラテン文字表記にph, th, chがよく現れるのはこのためである(上述の固有名詞の読みは共通)。
詳細はラテン語における帯気音の反映の記事も参照してほしい。
(χάος→chaosは普通名詞としての用法のほうが多い)。
ギリシャ文字やラテン文字の小文字は筆記体から徐々に分化していったもので、古代にはまだ明確には確立されていなかったのだが、ここでは一般の慣例に倣って併用する。
英語での綴りと発音
英語でも/p, t, k/と/pʰ, tʰ, kʰ/が語句の意味の違いを担うことはない。
英語古来の語のthunderのthやchooseのchは音種が異なり、語の起源的にも繋がりはなく、phは元々本来語には現れない。shもまた帯気音ではない。
ギリシャ語起源のphoto, theater, chaosなどのphはfoamのf、thはthingのth、chはcakeのcの音で代用されるが、そのためギリシャ系のchaos, chorus, schoolなどと本来語のchooseや古フランス語系のcharmなどとの間でchの読みに違いが生じている。
より後のフランス語から入ったchefなどはshootのshのように読まれる。
帯気音を知るために
日本語にも/p, t, k/と/pʰ, tʰ, kʰ/の対立はなく、その使い分けは古代ギリシャ語習得の鍵となる。
中国語や韓国語にもこれに類する区別があるためそこから関心を持った人もいるかもしれない。
しかし帯気音(有気音)とはいったいどのような存在なのだろうか。
太古の人々はこれらの音をどのように感じていたのだろうか。
そして日本語話者にとって効果的な習得方法はあるのだろうか。
それらの手がかりは音声学、比較言語学、言語類型論、さらに古代の著作や地域碑文の中に見出だせる。
さらにそうした知識の泉からは「日本語話者が簡単に出せる音の応用」が習得に結びつく可能性までもが見えてくるのである。
今日はそんな帯気音の話をしていこう。
神話や古代史が好きな人のためになることを願って筆を執りたい。
始めに
簡易的な習得法
帯気音の習得に効果的なのは日本語の「ツ」の子音[ts](破擦音)を出発点にする方法だと私は考える。
この音は古代ギリシャ語の文字θが表す帯気音[tʰ]によく似ており、その特性を活用することが発音の感覚を掴む道標になる。
簡易的には[ts]を[tʰ]に変え、次いでそれを応用していく――という形を提案したい。
詳細は第3話(帯気音習得法の回)で解説する。
そしてその基盤となるのが言語音の体系的な知識である。
(中国語や韓国語などには[tsʰ]のような帯気と破擦を併せ持った音もあるが、それも[ts]と[tʰ]の区別というステップを前提とした上で習得したほうが簡単だろう)。
いずれ古代言語Vtuberアニマによる音の分類、ギリシャ文字の歴史、帯気音の発音の解説機会も作りたい。
(私の執筆活動とアニマの活動継続のためにアニマの部屋のチャンネル登録、FANBOX等での支援などにも協力をもらえれば幸いである)。
音の相関的解釈
大切なこと
帯気音に限らず、言語音の理解にはひとつ大切な基本がある。
それは個々の音をバラバラに見るのではなく、音同士の関係を対比的・相関的に捉えることである。
これは「他の音とどこが似ていてどこが似ていないのか」を分析する営みで、そのためには「音の属性と分類」という概念が欠かせない。
たとえば直感的に/t/と/d/、/m/と/n/、/b/と/m/などが互いに「似ている」と思ったことのある人は珍しくないだろうが、実はそれは理由のないことではない。
なぜならこれらのペアは音の出し方や音波としての性質の多くが共通しているからである(後述の国際音声記号解説を参照)。
そしてその「似ている理由」に思いを馳せて確かな答えを探す過程はやがて「違いを知ること」にも繋がっていく。
それこそが信頼性の高い知識への第一歩であり、音声学の始まりである。
なおこのシリーズでの音声学全般については主にLadefoged & Maddieson (1996)及びLadefoged & Disner (2021)などに、古代ギリシャ語の発音については主にAllen (1987)などに基づく(参考文献は第3話参照)。
感覚を支える知識
音声学というと内容がイメージしにくかったり、日常からは縁遠いものと思ったりする人も多いかもしれない。
だが「なぜこの音とあの音が似ていると感じられるのか、何が似ていて何が異なるのか」の答えを求め、感覚の背景や解釈の妥当性を考え、直感の世界に安定した知識体系の基礎を作っていくのもこの分野の役割である。
(直接誰かが言っているのを聞いたわけではないがそうした発想が通底していることを私の実感として語っておきたい)。
たとえば日本語話者にとって「[t]と[d]は似た音同士であり、少しだけ違いがある」という感覚はある意味当たり前だが、その客観的な裏付けを知ることも新しい知識のためには欠かせない。
両者の差が「喉奥にある声帯の振動の有無」にあるとわかればその特徴が浮き彫りになり、それが「振動しない[t]と[s](無声音)、振動する[d]と[n](有声音)」といった別の分類法にも結びついていくからである。
そして日本語話者にとって[p, t, k]と同じ音のように感じられる[pʰ, tʰ, kʰ]の性質もまさにその[p, t, k]や[b, d, g]などと対照することで初めて深く理解できるといえるだろう。
語学的にも「π, τ, κとφ, θ, χを自在に使い分けること」を目標とする以上、共通点と相違点を併せて意識することの意義は大きい。
対比による分析
ではこうした古代ギリシャ語のπ, τ, κ; β, δ, γ; φ, θ, χの音は互いに何が似ていて何が似ていないのだろうか?
――それは調音位置、調音方法、声門状態という子音の属性によって説明される。
これらはすべて「口の中の特定箇所を完全に閉じ、内部の気圧を高める」といった動きで作られるため、調音方法的には「閉鎖音」と呼ばれる。
調音動作の位置を基準にすれば、π, β, φは上下の唇を使う両唇音、τ, δ, θは舌先と上前歯裏付近の歯茎を使う歯茎音、κ, γ, χは後舌面と軟口蓋を使う軟口蓋音に分類される。
軟口蓋は口腔のドーム状になった天井部分(口蓋)の後方1/3ほどの柔らかい部分を指す。
この図については後で再び解説する。
そしてこれから語っていくように「喉奥にある左右の声帯の動き」(声門状態)を軸とすれば、π, τ, κは調音時に声帯が開いて振動しない無声音、β, δ, γは振動する有声音、φ, θ, χは普通の無声音のときよりも広くまたは長く開いて強い息が起こり[h]が付随する帯気音に含まれる。
ギリシャ語の閉鎖音はこうして「3×3」の整然とした体系を成す。
つまり[t]と[d]が共通性の高い音でありながら少しだけ異なる特性を持っているのと同じく、[t]と[tʰ]などの関係も多数の共通点と少数の相違点に支えられているのである。
しかし声帯は喉の奥深くにあり唇のような感覚で自在に開閉できるわけではないため、直接的な動きの認識は難しい。
よって段階的・総合的な分析が不可欠となる。
国際音声記号
音の表記のために
発音の表記には国際音声記号を使う。
読み方は注釈がない限りローマ字読みで、詳細解説は第4話で行う。
音素と音声
発音表記の/ /は「個々の言語の中で区別する必要がある音の単位」(音素)を、[ ]は「さらに詳細な音の実体」(音声)を表すために使う。
現代日本語の「ザ」の子音の例がわかりやすい。
この子音は実は[dz]のようにも[z]のようにも発音され、一般に語の先頭では[dz]に、母音の間では[z]に近くなることが知られている。
しかし日本語ではその違いに意味はなく、「/z/音という1つの単位の範囲内の揺れ」として扱われる。
[dz]と[z]の違いだけで意味が区別される例がないからである。
(中世日本語や一部の方言にはある)。
このようなとき、/z/のような「個別言語内で区別に必要な単位」(概念上の音の区切り基準)を音素、[dz]~[z]のような「詳細な実体」を音声という。
帯気に関していうと、実は日本語のカ行子音/k/の音価も通常の[k]から帯気音[kʰ]にやや近い状態(呼気の勢いが強い状態)まで揺れがあるのだが、区別はないため共に1単位の/k/として扱われる。
また第4話で語るように実は英語のpin, tub, kinなどの/p, t, k/は帯気音[pʰ, tʰ, kʰ]に近くなる(spin, stub, skinなどの/p, t, k/はそうならない)。
しかし最初はそこまで気にしなくてもよい。
基本的には「音素/s/、音声的実体[s]」のように同じ表記になることが多く、違いのある箇所で補足するのが効率的だからである。
音声
子音と母音
よく知られているように言語音は子音と母音に分けられる。
では両者は何が違うのだろうか?
簡単にいって子音は通常「肺から吐く息(呼気)の流れを妨げて作る音」を、母音は「呼気流を妨げることなく(妨げが一定以下の状態で)作る音」を指す。
また母音には一定の持続時間も必要だが子音には瞬間的な音も多い。
音声の発生プロセス
言語音の大半は呼吸の過程で生じる呼気で作られている。
肺で生まれた呼気は気管を通って上昇し、喉頭(喉奥)の声帯に至り、さらに喉や口のような声帯上空間の中を流れて音声となる。
このとき喉頭に始まり咽頭腔や口腔に及び、時に鼻腔にも至る呼気の通り道(主に口腔を中心とした空間)をまとめて声道という。
声帯は左右一対の薄い襞のような器官で、呼吸や発音に合わせて様々な形に動く。左右の声帯の間の切れ目を声門という。
基本的にはこの声帯上空間で呼気の流れに抵抗が加われば子音が、気流がほぼ抵抗なく流れれば母音が生まれることになる。
この気流の妨げに使われているのが「上下の唇」や「舌先と歯茎(上前歯裏付近)」などに代表される各種の調音器官である。
子音の属性
子音の3要素
そして話者の調音動作の面から見ると、それぞれの子音の個性は
といった音の属性の組み合わせで決まる。
子音の大半はこうした要素を中心に分類され、必要に応じて追加特徴も加味して分析されているのである。
ポケモンの攻撃技の性質が「タイプ」「威力」「物理/特殊の分類」「追加効果」の組み合わせで決まるようなもの、といえばわかりやすい人も多いだろうか。
最初に挙げた国際音声記号の子音表も調音位置の違いを左右軸で、調音方法の違いを上下軸で表現し、位置が共通の音を縦に、方法が共通の音を横に配列したものである。
無声と有声の違いは同じ枠内で表現され、単独で右寄りに置かれた[m, n, l, r]や母音はすべて有声である。帯気は[ʰ]で表現される(詳細は第4回を参照)。
[p]の記述
たとえば[p]音は気流の妨げに上下の唇を使うことから両唇音、そこを完全に閉鎖し内圧を高めて作ることから閉鎖音(破裂音)、左右の声帯が開いた状態に保たれ呼気通過時にも振動が起きないことから無声音に分類される。
音声学で使われる無声両唇閉鎖音という分類名はこれらを合わせたものに他ならない。
位置→方法→声門状態の順に解説しよう。
調音器官
子音の調音位置(部位)は下顎側の能動調音器官(舌先など)と上顎側の受動調音器官(上前歯裏付近の歯茎など)の対からなる(α→β)。
簡略化のため受動側の名が冠されている箇所が多い。
音を作る部位
(2)の唇歯(下唇→上歯)は英語のfiveのf [f]やvineのv [v]に、(3)の歯間(舌先→上下の歯の間)は表には未記載だが歯の前進形態で時々英語のthunderのth [θ]やthatのth [ð]に、(5)の歯茎硬口蓋(舌先+前舌面→歯茎+硬口蓋)は日本語のシャの子音[ɕ]やジャの子音[ʑ]などに使われる。
(6)の硬口蓋(口腔の天井前側の硬い部分)は前舌母音[i, e]などの、(7)の軟口蓋(口腔の天井後ろ側の柔らかい部分)は後舌母音[u, o]などの調音運動にも関与する。
母音の舌の前後関係(すなわち[i, e]類と[u, o]類の区別)は前舌面が盛り上がるか後舌面が盛り上がるかで決まるからである。
[a]などは盛り上がり幅自体が小さいので通常実質的にはあまり関係ない。
(詳細は英語の/l/音の記事を参照)。
(7)の軟口蓋後部にある口腔と鼻腔を区切る器官は口蓋帆といい、鼻腔を使わない大半の音(口音)の調音時には点線位置まで上がり、鼻腔を使う[m, n]などの調音時には下がる。[b, d]と[m, n]の違いはこの調整で生まれる。
(8)の声門(左右の声帯の間)は声門状態の調整箇所である。
[h]はこの位置で作られる音とされることもあるが、実際には特定の位置でなく声道全体で摩擦を起こす音である(次回解説)。
この中で特に重要なのが(1)の両唇、(4)の歯茎、(7)の軟口蓋である。
そうした前提の上で、次は音の属性の詳細について見ていきたい。
第3話は実践編となるだろう。
参考文献(第3話参照)
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