マガジンのカバー画像

掌編小説

83
掌編小説です
運営しているクリエイター

2023年1月の記事一覧

アイスピック【掌編】

アイスピック【掌編】

「あなたは私を見捨てるのね」
 母は憎しみを込めた目で私を睨むと、アイスピックを手に取った。
 逃げなければいけない、のに、何故か、体中から力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。立ち上がることも出来ない。声を上げることさえも。ただ、目を固く閉じることしか出来なかった。
 悲鳴がした。私の声帯は閉じられたままだったから不思議に思い、目を開けた。
 グレーの絨毯にどす黒い何かが飛び散っている。それ

もっとみる
靴紐【掌編】

靴紐【掌編】

 靴紐がほどけた。僕はしゃがみこんで靴紐を結び直す。きれいに結んだ靴紐。今朝磨いたばかりの靴の爪先には、憂鬱な僕の顔が映し出されている。
立ち上がり、爪先を軽くノックする。すると、その音を合図に風が吹いた。街路樹の枝が揺れ、葉が小波のような音を鳴らす。
 今日も僕は会社へ向かう。行きたくないのに向かう。本当は、会社へ向かう道とは逆方向の道を選びたい。しかし、選べない。
 自転車に乗った学生達が僕を

もっとみる
蜜柑空【掌編】

蜜柑空【掌編】

 蜜柑の皮に爪を当てると甘酸っぱい果汁が飛んだ。テーブルに雫が一粒。その一粒の水面に僕の顔が映る。感情のない顔。僕はそれほど悲しくはないんだ。
 同級生の高村からメッセージが届いた。
「明けましておめでとう」
 高村とは三年以上会っていない。故郷に帰るたびに一緒に食事をする仲。だけど、三年以上故郷に帰れていないから。こうやって、正月にメッセージを送り合うだけ。
「明けましておめでとう。今年こそそっ

もっとみる
夜明け【掌編】

夜明け【掌編】

 薄紫色の縁に橙色の滴がひとつ。小さな雫は次第に大きくなり、やがては獣のように牙を剥き口を開け夜を飲み込んでいく。夜の叫び声が星々に響き渡る。怯えた星は震えあがり姿を隠した。朝だ。朝がやって来たのだ。
 雲にまとわりついていた闇は朝が奪い去った。漂白された雲に朝陽が滲む。甘酸っぱい果汁の色をした雲に吸い寄せられ、鳥たちが空へ飛び立つ。鳥の囀りと羽ばたきが地上へと降り注いだ。
 朝の光は正しい。僕は

もっとみる
走る人【掌編】

走る人【掌編】

 口から吐き出される蒸気は空に昇る。朝陽の果汁に浸され桃色に染まり、横切った小鳥の羽根を撫でた。僕の足音に小鳥の囀りが交ざる。ドラム音のように鳴り響くのは僕の鼓動。
 仕事を辞めた僕は、早朝にランニングをするのが日課になった。通勤する大人も通学する学生もいない。世界に一人きりになった気分だ。冬の早朝はとても寒いけれど、走って十分ほどすれば、身体が温まり気にならなくなる。むしろ、冷たい風が眠気を吹き

もっとみる