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アイスピック【掌編】

「あなたは私を見捨てるのね」
 母は憎しみを込めた目で私を睨むと、アイスピックを手に取った。
 逃げなければいけない、のに、何故か、体中から力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。立ち上がることも出来ない。声を上げることさえも。ただ、目を固く閉じることしか出来なかった。
 悲鳴がした。私の声帯は閉じられたままだったから不思議に思い、目を開けた。
 グレーの絨毯にどす黒い何かが飛び散っている。それは、蝶のような形をしていた。傍にはうずくまる母の姿。うめき声を上げている。嵐の前に空から鳴り響く風の音のように不気味だった。

「腹立つわー」
 ゆりちゃんは帰宅するなり冷凍庫を乱暴に開けた。水を入れて凍らせておいたボオルを取り出す。そして、アイスピックを手にすると、ザクザクと氷に突き刺した。
 ゆりちゃんは母の妹だ。母が入院してから、一緒に暮らすようになった。姉妹だけれど、ゆりちゃんのアイスピックの使い方は、間違っていないと思う。
「何か嫌なことでもあったの?」
 私はソファに腰掛け、スマホで動画を見つつ、ゆりちゃんに訊ねた。
「そうなの。あのクソ上司にまた八つ当たりされてさぁ」
「なるほどね」
 ゆりちゃんは、嫌な思いが蘇ったのか、さらに力強くアイスピックを氷に突き刺していく。細かい氷が雪のように飛び散る。
 私は動画を見るのを止め、スマホのカメラをゆりちゃんに向けた。シャッター音が鳴り、ゆりちゃんはこちらに気付く。
「ちょっと、写真撮らないでよ」
「だって、面白いんだもん」
「面白くないっつーの」
 文句を垂れながらも、ゆりちゃんは動きを止めない。私は写真を撮る代わりに、動画を撮影することにした。スマホを持ちながら、ゆりちゃんに近づく。
「こら、動画もダメだっつーの」
「誰にも見せないから、いいでしょ」
「絶対だよ。拡散すんなよ」
 ゆりちゃんの手元を撮影する。アイスピックで刺されまくった氷。やがて、それは、きれいな球体となる。
「じゃーん」
 ゆりちゃんは得意気に、出来上がった球体の氷を掲げる。そして、ロックグラスに氷を入れ、ウイスキーを注いだ。氷に注がれる黄金色のウイスキー。夕焼けに溺れる満月みたいだ。ゆりちゃんは、ロックグラスを口へ運び、満月と口づけする。
「うめー!」
 歓声を上げるゆりちゃんの姿を見ると、私もそのウイスキーを欲してしまう。だけど、ゆりちゃんは、決してそれを許さない。私はまだ未成年だから。羨ましそうに見つめている私に
「あんたも早く大人になりなよ」
 なんて、ゆりちゃんは笑う。
「そうだね」
 母と二人で暮らしていた時は、大人になんてなりたくなかった。
「死にたい」
 が口癖の母だった。いつも苦しそうだった。子供の世界だって大分苦しいのに、大人になったらもっと苦しくなるのだ、そう思い込まされた。
 だけど、ゆりちゃんは、いつも楽しそうだ。たまには、嫌な事もあったりするみたいだけど、それを、楽しい事へ変える力を持ってる。
 私の前でアイスピックを使うゆりちゃんを、初めはなんて無神経な人だと思ったけれど、今は違う。正しい使い方さえすれば、アイスピックは怖くないんだって、楽しさを作り出すことが出来るんだって、教えてくれた。
「ねぇ、私もそういう氷作れるようになりたいな」
 ウイスキーを飲んでご機嫌なゆりちゃんにおねだりする。
「よっしゃ」
 ゆりちゃんは腕まくりして、冷凍庫から氷を取り出す。そして、バトンを渡す様に、私にアイスピックを手渡した。

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