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掌編小説

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2020年5月の記事一覧

側頭部

側頭部

 彼の側頭部が気になる。
 抑揚のない先生の声。黒板から響くチョークの音。生ぬるい空気が漂う教室で、私はあくびをしながら隣に視線を移した。
 隣の席は真田君。先週席替えをして、隣になったけれど、まだ一言も話をしたことがない。
 重めの前髪から覗く一重の目は、世の中全てを疑っているよう。一見、近寄りがたい印象だけれど、友人と話している時は無邪気に笑っている。話をしたら、意外といい奴なのかもしれない。

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はじまり、はじまり

はじまり、はじまり

 二十六時、ようやく世界が寝静まった。
 ブドウ色の夜空がゼリーのように震え始め、星々が一斉に地上へ降りてきた。僕達が落とした不安や恐れを拾いにやって来たのだ。
 星たちは背中にかごを背負い、手にはトングを持っていて、そこらに散らばった不安や恐れを拾っていく。これらを細かく砕くと光のパウダーになる。星々はそれらを身にまとい輝きを放っているのである。

 僕は眠れない夜、この物語を思い出す。幼い頃に

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スープをつくろう

スープをつくろう

 野菜たっぷりのスープを作ろう。
 まずは、鍋に水を入れ、火の通りにくい人参から入れる。水が沸騰するまでに時間があるので、その間に他の野菜を切って行こう。
 キャベツ、セロリ、ブロッコリー、それからキノコや豆も用意しよう。
 並んだ色鮮やかな食材たち。それらが、次第にぼやけて見える。
 玉ねぎは切っていないのに、私の目からは涙が溢れていた。
「もう、あきらめたんです」
 数時間前に、私が口にした言

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冷蔵庫のプリン

冷蔵庫のプリン

 冷蔵庫にプリンが一つ残っている。僕は妻と二人暮らしなので、三個セットを買うと一つ余ってしまうのだ。
 僕と妻は、プリンが大好きである。だから、買い物にいくと、ついついプリンを買ってしまう。
 日曜日、僕らは買い物に行き、いつものようにプリンを探す。二つ買えばよかったのだけれど、その時は、たまたま三個セットのものしか置いていなかった。夕食の後、それぞれ一個ずつ食べた。
 月曜日、仕事から帰り冷蔵庫

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海の友達

海の友達

 もう何年海を見ていないだろう。僕が生まれ育った街には、当たり前のように海があった。
 こんなにも海が恋しいと感じるのは、海が好きだというわけでもなく、今暮らしているこの街で息苦しさを感じているからかもしれない。
 あの人がそっけないのも、あの人の心が狭いと感じるのも、あの人の言葉に棘があるのも、この街に海がないせいだと思ってしまっている。雄大な海がないから、この街の人々は心が狭いだなんて、根拠も

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月とココア

月とココア

 眠れない夜は、温かいココアを入れる。窓を開け、夜空を見上げながら飲むと気持ちが落ち着く。
 きっと、悪意なんてないのだ。ただ、あの人は正直なだけだ。
 どんなに努力しても手に入らないものがあった。それをあの人は持っている。羨ましかった。羨ましいと口にしたら楽だったのかもしれない。けれど、くだらないプライドが邪魔をしていた。
 あの人は、私がどんなに願っても叶わなかった夢を手にしているのに、私の事

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かじりたい

かじりたい

 口の中に飴玉がある。レモン味の飴玉だ。
 私は今、かじりたい衝動に駆られている。
「ほら、私って、天然だからぁ」
 かじりたい。
「私って、よく変わってるって言われるしぃ」
 かじりたい。
「ほら、私って、こう見えて男っぽいからぁ」
 かじりたい。
「ふーん。でも、私はぁ」
 かじりたい。
「でもでも、私はぁ」
 かじりたい。
 鼻に着く相手を目の前にしながら、私は舌の上に置かれた飴玉をかじりた

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ガトーショコラを焼きましょう

ガトーショコラを焼きましょう

 私が作るガトーショコラの材料は、チョコレートと卵だけ。小麦粉は使いません。とってもシンプルですし、簡単なんですよ。
 夫も、とても気に入ってくれていました。彼は甘いものは普段あまり口にしないのですが、私の作ったガトーショコラだけは食べてくれたんです。夫婦ふたりきりでしたので、食べきれない分は冷凍保存しておいたのですが、気づいたらなくなっている事がよくありました。
 夫が、こっそり食べていたんです

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後れ毛

後れ毛

 前髪が伸びた。放っておいたら後れ毛になっていた。
 あの日、あの人に心にもない言葉を投げつけた。あの人は今までに見たことがないほど悲しい表情を浮かべた。傷つけたのは私の方なのに、私の方が傷つけられた気がした。
 前髪が伸びても気づかなくなってしまったのは、あの日からだ。
 ようやく、伸びたのだと認識を得たものの、前髪はもう前髪ではなく、後れ毛に変わっている。私も違う何かに変わっていたらいいのにと

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