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後れ毛

 前髪が伸びた。放っておいたら後れ毛になっていた。
 あの日、あの人に心にもない言葉を投げつけた。あの人は今までに見たことがないほど悲しい表情を浮かべた。傷つけたのは私の方なのに、私の方が傷つけられた気がした。
 前髪が伸びても気づかなくなってしまったのは、あの日からだ。
 ようやく、伸びたのだと認識を得たものの、前髪はもう前髪ではなく、後れ毛に変わっている。私も違う何かに変わっていたらいいのにと思う。
 後れ毛は生活するうえで実に邪魔な存在だと気づいた。特にご飯を食べる時は注意が必要だ。そのたびに、ピンで留めるのは面倒である。いい加減、切ってしまおうか。
 ハサミを手にして、ふと思いとどまる。切ってしまうのは簡単だ。けれど、せっかく出来た後れ毛である。何か、有効活用できないものだろうか。
 私は、散歩をしながら、後れ毛の有効活用について考えを巡らせることにした。
 穏やかな風が後れ毛をなびかせる。ゆらりと触覚のような動きをする後れ毛。私は去年水族館で見たくらげの姿を思い出した。美しい光でライトアップされた水槽の中を漂うクラゲである。その姿を頭に思い描いていたからだろうか。私の足は水際に引き寄せられ、到着したのは湖であった。
 クラゲがいるのは海なのだが、散歩できる距離に海はないので仕方がない。海と比べたら水たまりほどの湖である。私は湖岸に腰を下ろした。
 風がほとんど吹かないせいで湖の水面は波もなく、鏡のように青空を映し出していた。時折波紋が広がるのは、湖で暮らす小魚が顔を出しているからだろうか。
 私はそれとなく湖面に顔を近づけ、後れ毛を垂らしてみた。青空を映し出した水面に吸い込まれて行く後れ毛。まるで空に吸い込まれるようだった。
 水面にゆっくりと波紋が広がる。波紋の上を無邪気に転がっていく陽の光。さざ波のように聞こえるのは、風にゆれる草木の音だろう。愛らしい鳥の声が、徐々に大きくなって行く。
 手ごたえを感じ、とっさに私は湖面から顔を引き上げる。
 後れ毛の先を咥えていたのは小魚だった。小指ほどの小ささで、銀色の胴体は光の加減で七色の輝きを放つ。
 後れ毛で魚が釣れた。

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