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ガトーショコラを焼きましょう

 私が作るガトーショコラの材料は、チョコレートと卵だけ。小麦粉は使いません。とってもシンプルですし、簡単なんですよ。
 夫も、とても気に入ってくれていました。彼は甘いものは普段あまり口にしないのですが、私の作ったガトーショコラだけは食べてくれたんです。夫婦ふたりきりでしたので、食べきれない分は冷凍保存しておいたのですが、気づいたらなくなっている事がよくありました。
 夫が、こっそり食べていたんですよね。面と向かって、美味しいとは言わないくせに、気に入ってるんだなぁと、嬉しくなったものです。
 そんな彼も、昨年、亡くなりました。ガトーショコラを焼いても、食べるのは、私ひとり。余って冷凍保存しておいても、いつの間にか、なくなってしまうこともない。冷凍庫を開けるたびに、昨日の数と、今日の数が同じ事に、寂しさを感じます。
 でも、まぁ、ひとりで食べるガトーショコラもいいものですよ。口の中で甘さが溶けていくたびに、夫を思い出して、気持ちがあたたかくなりますから。
 彼は、いつも無口で無愛想なのに、ガトーショコラを頬張っている時だけは、柔らかく優しい表情になるんです。それを見たくて、いつもガトーショコラを焼いていました。
 今日は、とても晴れていますね。陽の光が蜂蜜のようにまろやかで、穏やかな気持ちになる日です。
 こんな日は、ガトーショコラを焼かなくちゃって、思うんです。

──工程一
オーブンを百七十度に余熱します。型にバターを塗りましょう。

 夫との馴れ初めですか?
 夫と出会ったのは、高校生の頃ですね。同じクラスでした。
 その当時、私達は、会話をしたことがなかったんです。彼は無口で無愛想でしたので、近寄りがたいイメージがありました。体も大きくて、威圧感があって、すれ違うだけで、びくびくしたものです。
 初めて会話をしたのは、美術の時間です。美術室で、彼は、私の前の席に座っていました。課題は、尊敬する人物のイメージを水彩絵の具で描く、というもので。私は、優しいおじいちゃんを、夕焼け空をイメージして描いていました。
 両翼を大きく広げたような黄金色の中に、優しげな桃色を落とし、地表からは威厳のある濃紺を滲ませます。それらの色彩を、たゆたう雲に含み、浮かばせます。沈みゆく太陽の吐く息が泡になるのを、白色で弾いて飛ばしました。その間を潜り抜けていく鳥の群れと冬木立の影。
「……きれいな絵だな」
 画用紙の上に筆を滑らせていると、突然低い声が頭の上から響いて、顔をあげました。
 彼が後ろを振り向いて、私の絵を、じっと見つめていました。
「えっ……」
 驚いて、それ以上、言葉が出ませんでした。ただ、彼の目をじっと見ることしか出来なくて。
 窓から、冬の陽がふんわりと流れてきて、彼の前髪を、すっと透き通らせました。それが、あまりにきれいで、ぼんやり眺めていると、彼は照れくさそうに、頭を掻いて、また前を向きました。その大きな背中を、優しく冬の陽が包みました。

──工程二
卵を卵黄と白身に分けます。チョコレートを包丁で細かく刻み、湯せんにかけ溶かします。

 高校生の時、彼と話したのは、それきりでした。
 その後、私達はお互いに違う大学へ進学し、社会人になりました。私は、地元の小さな歯科医院で、受付の仕事をしていました。
 ある日、彼が患者さんとして、私の働いている歯科医院を訪れたのです。私の顔を見て、ひどく驚いた表情をしていました。スリッパを履いて受付まで来たのに、私の顔を見るなり、急にくるりと背を向けて、帰ろうとしたんです。思わず
「待って!」
と呼びとめてしまいました。
 彼は、びくっと背中を震わせて振り向き、困った表情で私を見ていました。ずっと黙っているので、歯がゆくて、
「……どこか、悪いんでしょう?」
と、尋ねます。
 すると、彼は、無言で頷きました。
「じゃあ、この問診票に記入してください。それから、保険証もお願いします」
 事務的に話をすると、彼は頷いて、おとなしく言われた通りにしました。
診察が終わり、お会計をして、領収書を渡し、次の診察日を決めます。
「お大事にどうぞ」
 送り出そうとすると、彼は財布から、一枚の名刺を差し出しました。その裏に、自分の携帯電話の番号を走り書きして、
「連絡して」
 そう言い残して、逃げるようにして、帰って行きました。

──工程三
チョコを湯せんで溶かしている間に、白身を泡立てメレンゲをつくります。

 その後ですか?連絡しましたよ。だって、あの行為は、不器用な彼の精一杯の勇気のような気がして、なんだか可愛らしく思えてしまったから。
 電話をしたのはいいんですが、彼は元々無口ですし、私もあまりおしゃべりな方ではないので、あまり会話が続かなかったんです。無言でしんとした時間が続いて、意味のない気がしたので、
「じゃあ、これで」
 電話を切ろうとすると、
「待って!」
 彼が止めました。
「はい?」
「今度の休み、食事に行こう。夕方の六時に駅で待ち合わせ」
 こちらの予定も聞かず、勝手に決めるので、思わず笑いながら
「わかった。行こう」
と答えました。
 そんな感じで、私達は、何度か食事をするようになりました。お互い無口なので、それほど会話は弾みません。文字通り、ただ、食事をするだけ。彼は、美味しいも、まずいも、言わないんです。お店のBGMの中で、フォークとナイフがぶつかる金属音だけが響く、そんな感じです。
 だけど、それが、苦痛じゃなかったんですよね。不思議と心地よかったのです。
 それで思ったんです。私、この人となら、一生添い遂げられそうだって。

──工程四
卵黄に、溶かしたチョコを加えて、素早く混ぜ合わせます。

 実は、プロポーズをしたのは、私の方からなんです。
 場所は、ずっと気になっていた山間にある、隠れ家的なレストラン。凍てついた冬の日でした。
 私達が前菜を食べ終わった頃、窓から太陽が飲み込まれていく姿が見えました。ゆっくり沈んでいく太陽は、辺りに黄金色の光を垂れ流し、冬木立の影を浮かばせます。ピンク色のため息が、煙となって雲に絡まりました。空の淵が徐々に薄紫色に染まり始めた時、鳥の影が通り過ぎ、あの絵を思い出しました。
 初めて会話をしたあの日、美術室で描いていた絵に似ていたのです。
「結婚しない?」
 私は口にしていました。まだ、付き合ってもいないのにです。
 彼は、驚きのあまり、急に咳き込んで、顔を真っ赤にし、グラスの水を一気飲みしました。水を飲み終わると、
「……今、なんて?」
と聞き返しました。
「だから、結婚しないかって」
「け、けっこん!」
 彼の声が裏返っていました。おかしくて、笑ってしまいました。
 彼は、店員さんを呼んで、お水をくださいと、お願いし、グラスに新しい水が注がれます。それをもう一度ごくりと飲むと、ようやく落ち着いたのか
「それって、プロポーズ?」
と私に尋ねます。
「そうだよ」
「そ、そういうのはなぁ、順序を追って……」
「嫌ならいいよ」
 すると、彼は顔を赤らめ、しかたねーなという風な表情を浮かべながら、
「わかったよ。結婚してやるよ」
と、答えたのでした。

──工程五
全体が混ざったら、メレンゲを半量加え、ざっくり混ぜ合わせます。それから、残りのメレンゲを加え、泡を潰さないように、少しだけ混ぜます。

 私達は結婚をして夫婦になりました。思った通り、彼との生活は心地のよいものでした。
 夫は寡黙でしたが、そこにいるだけで、圧倒的な穏やかさを持っていたからです。疲れた時も、彼が近くにいる、それだけで、気持ちが落ち着くのです。不思議な不思議な人でした。
 しばらくして、私は、赤ちゃんを授かりました。なかなか出来なかったものですから、半ば諦めていたんです。ふたりきりの人生もいいよねって。
だけど、その時、夫は嬉しさのあまり、私を抱き上げて、
「やった!ありがとう!」
と、子供のように喜んでくれたんです。
 ああ、やっぱり、夫は子供が欲しかったんだなと気づきました。そして、その時は、大学受験に受かった時より、就職が決まった時より、今まで経験してきたどんな瞬間よりも、幸せでした。
 この子が産まれてきたら、これ以上の幸せが待っているのだ。そう思うと、もう、世の中の何もかもが眩しく見えました。
 家から一歩出ると、靴の踵からは、軽快なメロディーが奏でられ、飛び交う鳥達の声はどこまでも澄み渡り、足元の影はそれに合わせて踊り出します。空から注がれる陽のシロップは甘く濃厚で、花や緑の香りを、風が香ばしいものへと変えていくのです。
 だけど、そんな幸せな時間も、長くは続くませんでした。
 ある日、お腹の中の赤ちゃんが、いなくなってしまったから。
 
──工程六
型に生地を流し込み、オーブンへ入れて、約三十五分焼きます。

 平気なふりをしました。本当は、どこまでも深い谷底に落とされたようで、全ての不幸で出来た鉛を背負っているようで、それでいて身体は抜け殻みたいに空っぽで。でも、夫は心配するだろうから、気付かれないようにしました。
 それに、あの時、あんなに喜んでいた夫です。私よりも、残念で、悲しくて、悔しくて、仕方ないでしょう。それなのに、夫は、何も言いませんでした。安っぽい慰めの言葉さえも。
 私は努めて明るく過ごしました。仕事も、今まで以上に頑張りました。だけど、頑張り過ぎたせいなのか、ある日、仕事中に倒れてしまいました。
 病院のベッドで、天井を眺めていると、白く果てしない雪の平原に見えてきて、今まで我慢していた涙が、とめどなく溢れました。悲しみの波が、私を飲み込み、深い海へ引きずり込もうとします。両手足をじたばたして、もがいても、浮き上がる事はできないのです。苦しくて、息ができませんでした。水面に浮かぶ一筋の光に手を伸ばしても、掴むことは出来ず、ただ身体が海底へ沈んでいくのです。
 そんな時、夫が病室に現れ、私を迎えにきました。彼の顔を見た瞬間、私は、
「離婚しよう」
と、発作的に告げました。
 夫は何も言いませんでした。ただ、私の手を優しく握るだけでした。
「何か言ってよ」
 責めるように、彼の胸を叩きました。それでも何も言いません。悲しくなって、また、涙が溢れました。嗚咽が出て、子供みたいにみっともなく泣きました。すると夫は、大きくあたたかい手で、私の肩を優しく抱いてくれました。
「……一緒に生きて行こう」
 そう言った夫の声は掠れて涙声。初めて、彼の泣き顔を見ました。深海へ沈みゆく私の身体を、彼がざぶんと引き上げてくれました。

──工程七
粗熱がとれたら、型から取り外します。そのままでも美味しいですが、冷蔵庫で一晩寝かせます。

 夫と生きていく。ただそれだけで、充分幸せなんだって、わかっていたはずなのに、喪失感がそれを忘れさせてしまっていたようです。
 しばらくは、不意に、悲しみの波に飲み込まれることもありました。そんなとき、夫はすぐに察知してくれて、優しく手を握ってくれます。海底へ沈んで行きそうになると、いつも夫が手を引いて、引き上げてくれるのです。
 それから、私達は、ふたりで穏やかに生きて行きました。時間が流れるのは、あっと言う間で、気づいたら、お互いに、おじいちゃんとおばあちゃん。
 だんだんと体の自由はきかなくなってきましたが、朝、目覚めて「おはよう」の挨拶をして、一緒に、ご飯を食べて、お散歩をして、読書をして、「おやすみ」を言い合って眠りに就く。
 そんな穏やかな毎日の繰り返しは、幸せでした。
 相変わらず、無口なふたりの会話は味気ないものですが、彼が一緒にいてくれるだけで、大きな翼に包まれている気持ちになり、私はいつも、にこやかに過ごせました。
 年老いた私には、ひとつだけ、目標がありました。それは、夫より一日でも長生きをする、というもの。
 無口で無愛想な夫ですが、私の事を何よりも大切にしている気持ちは、いつも伝わっていました。家族は私ひとりきりですから、私が先に逝ってしまったら、彼は一人ぼっちになってしまいます。そんな寂しい思いをさせたくないから、頑張って、夫よりも、一日でも長生きしよう、そう心に誓いました。
 先立つ彼を見送る時は、とても辛かったです。だけど、どこかほっとしました。これで、夫に寂しい思いをさせる事はない。何もしてあげられなかったけれど、それだけでもよかったんじゃないかと。

──工程八
一晩寝かせたガトーショコラはしっとりと仕上がっています。美味しくいただきましょう。

 夫のいない毎日は、やはり、寂しいですよ。だけど、彼に寂しい思いをさせるくらいなら、私自身の寂しさなんて、平気です。
 それでも、寂しくて辛くなったら、冷凍庫にストックしてあるガトーショコラを取り出して、美味しい紅茶と一緒にいただきます。
 晴れた日は、窓を全開にして、陽の光を招き入れ、風が運んでくる小鳥たちの鳴き声に耳を澄ましながら。雨の日は、窓に打ち付ける、ぽつぽつとしたリズムに合わせ、音楽を聴きながら。
 最近は、ひとりでも楽しく生きていけるコツを、なんとなくですが、掴んできた気がします。
 夫と出会って、夫婦になって、一緒に生きた事。何にも代えがたい宝物です。この宝物がある私は、これからも、生きて行ける気がします。
 ほら、一歩家を出ると、靴の踵が音楽を奏でます。それに合わせて、鳥たちは歌い、影も踊りだし、風もくるりと宙返りしながら、葉を震わせ、花弁を躍らせます。陽の光が粉砂糖のように、あたりにぱらぱら降り注ぐ。甘く香しい日です。
 こんな日は、ガトーショコラを焼きましょう。

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