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深過ぎる宮台真司を求めて……

 筆者は、社会学者の宮台真司先生がメディアを通して語ってきた話に度々感心して、Twitterもフォローしているが、尊敬していながら宮台真司先生の著書を一切読んだことが無かった。同じ東京大学の養老孟司先生をその著書『バカの壁』から知っていったのとは対照的である。

 この記事では、筆者が読んだ宮台先生の著書を書評としてまとめます。
 宮台先生の社会分析が普及されていけば、日本社会が少しでも良くなると思うからです。

※文中の「筆者」は本の著者ではなく、あくまでも私個人(黒羽翔)を指すので注意してお読み頂きたい。

終わりなき日常を生きろ(1995年7月)

『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』
発行は筑摩書房。文庫本もちくま文庫から出版されている。

 宮台真司先生のWikipediaに載る項目の中に「特筆すべき概念」が並ぶが、その一番上に書かれているのが『終わりなき日常』である。
 筆者がこの概念を初めて知った切っ掛けはTBSラジオで放送されていた『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』2008年8月9日放送分で、押井守監督の『スカイ・クロラ The Sky Crawlers(2008)』を、ライムスター宇多丸氏が評論していた際に耳にしたことである。
 宇多丸氏の当時のコメントを一部引用する。
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「まずね、さっき言った特殊な設定、年を取らない若者達、戦争を代行しているところがあるという、この二つの設定を通じて、何を言おうとしているか、この送り手(作り手)達はって云うと、押井監督のインタビューとかも確認したんで間違ってないんですけど、まず年を取らない若者達の「のっぺりした灰色の日常」みたいなものは何を表現しているかと云うと、これは要するに、宮台真司さん風に言えば所謂「終わりなき日常」「終わりなき日常を生きる若者達」永遠とも思える繰り返しの日常、そういう人生に生きる閉塞感みたいなものを描こうとしているってことなんでしょ?」
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 その後、宇多丸氏は「老いて死んでいくことに対する恨みだったりウンザリだったりを持つのが若者だろ」「もし年取らないで死なないっつたら大抵の人はイェーイ!って思いますよ」「それが大変だって云うなら『火の鳥(手塚治虫)』ぐらいの話にしてよ」「青春的な、普遍的な悩みじゃない」「死を目前にするからこそ大人になるんだろ」「存在しない問題を創り上げて問題だと言い立てているように見える」「戦争ナメてんだろ」などと酷評して、筆者は宇多丸氏の意見に心底納得して聴いたものである。

 だから、宮台先生の『終わりなき日常』を先に知ってから実際にこの本を手に取った身からすると、副題に『オウム完全克服マニュアル』と書かれていたことには意外な印象を禁じ得なかった。
 オウム真理教事件を語ったのではなく、それこそ「変化の乏しい日常」に現代人が感じる不安や不満などを汲み上げることで生まれた言葉だと思っていたからである。

【目次】
・はじめに
・第一章:「オタク論・連赤論・二重組織論・邪宗論」はデタラメ
[宇宙の闇・白い光―❶]オウム・ここだけの私的年表
[宇宙の闇・白い光―❷]故・村井、青山、林に贈る悲しきディストピアへの招待状
・第二章:「さまよえる良心」がアブナイ
[宇宙の闇・白い光―❸]新興宗教の渡り鳥が、最後にたどり着いた究極の宗教
[宇宙の闇・白い光―❹]マンジュリー・ミトラ村井との架空インタビュー
[宇宙の闇・白い光―❺]元自衛官の語る「宗教より仁義が好き」の世界
[宇宙の闇・白い光―❻]井上がサリン実行部隊に選ばれた理由の、ほんの小さな日陰の芽
・第三章:「終わらない日常」はキツイ
[宇宙の闇・白い光―❼]双子の女子高生、ユミとユカがぜったい洗脳されないわけ
[宇宙の闇・白い光―❽]サナギの中の少女
・第四章:コミュニケーション・スキルという知恵
[宇宙の闇・白い光―❾]自分を愛しすぎる自分に窒息して、自我を捨てるパラドックス
[宇宙の闇・白い光―❿]マルクスもヒッピーもウッドストックも、何もなかった世代の恨み節

・はじめに
 実際の本で5ページしか書かれていない項目だが、筆者のオウム真理教についての認識や見解なども書くので、ちょっと多めに文章を書かせて頂く。

 この本では地下鉄サリン事件が発生した1995年3月20日の朝、宮台先生は女子高生から電話でたたき起されて、半信半疑で事務所下の線路を確かめて電車が来ない様子を見て、初めて本当にテロが起きたことを実感したことを書いている。
 筆者の年齢は当時まだ8歳。地下鉄サリン事件の報道は朝のテレビのニュースで知った。宮台先生に電話を掛けて知らせた当時女子高生の女性と同じように、テレビ報道で事件を知った身である。
 宮台先生が『終わりなき日常』を想起する切っ掛けは、有毒ガスで多数の死傷者が出ている模様だと報じるテレビの喧騒が、なぜか遠くの国の出来事のように感じられてしまったことに起因していることを示唆している。
 云わば『非日常』の中に『日常と変わらない』反応しかしていない自分に宮台先生は気付いて『終わりなき日常』の概念に確信を持ったのである。
 勿論、宮台先生に「具体的にいつごろ『終わりなき日常』の概念を思い付きましたか?」と訊いたら違う答えが返ってくるだろうが、この本を読む限りだと、そのような印象を受ける。

 午後になるとサリンの名前が登場しはじめて、宮台先生はオウム真理教を連想したことを書いている。宮台先生は1994年6月27日に起きた松本サリン事件も知っているから当然の反応である。
 一方、当時弱冠8歳の筆者は、オウム真理教がそれまで行ってきた活動やオウム真理教がそれまでどのような印象を持たれていたかについてを詳しく知っていたわけではない。松本サリン事件発生時に当時7歳(小学2年生)の筆者は、報道をリアルタイムで視た記憶が残っていない。1995年3月22日に強制捜査が行われるまで、誰もオウム真理教の名前を出さなかったことに違和感を覚えたことを宮台先生は語っているが、筆者は3月22日にオウム真理教に強制捜査が入ったことも知らなかったし、麻原彰晃が逮捕された1995年5月22日までオウム真理教の名前まで知らなかった。
 昭和61年(1986年)生まれの筆者の世代だと、オウム真理教の認識も既にバラバラになってきていた。例えば「ショーコ―♪ ショーコ―♪ アサハラショーコ―♪」の歌も、筆者は中学生頃に視聴したオウム真理教の特集番組でこのようなバカげた活動が当時行われていたことを初めて知ったが、翌日この件を学校の友達に話したら、友達の一人が「幼い時に真似して歌ったら親に怒られた」と語った。昭和末期生まれになると、オウム真理教や事件の記憶も曖昧で見解も人によって異なるに違いない。実際、筆者にも平成元年生まれの友人が居るが、同じ1995年に起きた阪神淡路大震災とか「がんばろうKOBE」を合言葉に優勝したオリックス・ブルーウェーブやイチローの活躍を覚えていないと語っていた。

 宮台先生は女子高生達とお茶して、地震は天災、サリンのばらまきは人災(犯罪)、なのに、両方とも、まるで自分に無関係な場所から降って沸いたように受け止められているのは何なのだろうと書いている。
 これは、宮台先生の独特な感性に思えた。
 もし当時の宮台先生の年齢とも近くなった筆者が1995年にタイムスリップして、女子高生達とお茶している宮台先生に会いに行ったら、
「どっちもテレビ(自分に無関係な場所)で報道されて知るからですよ」
 などと当時の宮台先生でも分かり切っている戯言を抜かすだろう。
 いや、分かり切っていると言い切るのもどうだろう。宮台先生はこの頃は既にメディアによく登場していて、テレビにも頻繁に出るような存在にまで成り上がっていた。自分が出演しているテレビメディアを「自分に無関係な場所」と見做すのは、筆者のような無名の一般人には簡単に出来る発想だが出演者の立場である宮台先生には難しいのではないのか?
 しかし宮台先生はそんなことも分からないほど浅い人間だろうか?
 そんなことはない。
 宮台先生もそのことをよく分かっている。第四章に次のようなことが書かれているからだ。
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 当たり前のことだが、何ごとかを不特定の人々に向かって語りかけることに動機づけられる人間は――たとえば論壇に登場するような人々は――それだけで既にかなり特殊な前提で生きている。
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 つまり、宮台先生自身が自分は既にかなり特殊な前提で生きていることを自覚しているのである。
 阪神淡路大震災にしても、オウム真理教の事件にしても、実際に被災したり、事件に巻き込まれたりでもしなければ、自分に無関係な場所から降って沸いたものに違いないのは事実だから、女子高生達がそう思ってしまうのも仕方ないだろ、と筆者なら見過ごしてしまう。
 要するに、筆者なら宮台先生と違ってそこに疑問を持てない。
 宮台先生が凄いのは女子高生達の反応から、もし事件がオウム真理教によるものだとすれば(当時まだ犯人が確定していたわけではなかった)、20年前の連合赤軍事件との類似が話題になると先読みし、しかし両者が本質的にまったく違う意味を持つことを暗示していると考えつけることである。
 こうした発想は高度な知識に裏打ちされていなければ出来ないし、「違う意味を持つこと」に意義を見出す発想も面白い。
 筆者ならば逆に「共通点」や「同じ意味」を探そうとしてしまうだろう。
 連合赤軍とオウム真理教どころか、当時宮台先生も出演していた『朝まで生テレビ!』の田原総一朗氏が、戦時中の日本の神風特攻隊とアメリカ同時多発テロまで結び付けていたのとは対照的である。筆者もどちらかと云うと田原総一朗氏のような考え方をしていたし、現在でもしている。

 こうして宮台先生はその高度な知識、フィールドワークによって得られた数多くの人々の出会い、そして本人がその稀有な人生の中で体得した独特な感性から、『終わりなき日常』と『さまよえる良心』の二つのキーワードを生み出した。この二つを軸に宮台先生はオウム真理教の分析を試みる。

・第一章:「オタク論・連赤論・二重組織論・邪宗論」はデタラメ
「オタク文化の悪しき影響」ではないのはその通りで、こうした言説は何もオウム真理教の事件だけではなくて、何か凶悪事件が起きる度にマスコミが必ずと言ってよいほど扱うワードである。最近でも、週刊文春が相変わらず愛知中3刺殺事件を報道する際、「SF好き」を異常性のアイコンのように取り扱っていて、相変わらずメディアは差別的な連中だと思ったものだ。

 宮台先生は指摘していなかったが、このようなメディアの「オタク文化」や「SF」への差別は意外と歴史が古い。これは引き合いに出した週刊文春=文藝春秋社とも実は大きく関わりがあることである。
 日本の文学史は純文学や私小説を中心に偏って記述されており、読者の側からのアプローチが欠けており、文壇は売れる本を通俗的と片付けたことを猪瀬直樹先生が『作家の誕生』で書いている。

 筆者が書いた「新説『ユリシーズ』は『オデュッセイア』の順番通りにも読める!」でも紹介したが、三島由紀夫の『美しい星』に解説を書いている奥野健男(多摩美術大学名誉教授)はSFに対する無理解と差別を標榜していた。『美しい星』は昭和の作品だから、「SF差別」が明治⇒大正⇒昭和と連綿と続いてきたことを如実に証明している。そんなジャンル差別をしてきた人間が多摩美術大学の名誉教授になれてしまうのも問題かもしれない。まぁ、時代の違いだから仕方がないが。

 そもそも「純文学」というジャンルは、海外から入ってきた『ガリヴァー旅行記』などのファンタジー小説やH・G・ウエルズなどのSF小説などを差別的に排他して、自分達の書いた小説を「読者の娯楽的興味に媚びない」「芸術」などと謳ったことで成立した概念である。夏目漱石などはこうした国内の「純文学を良し」としてその他のジャンルを「通俗的」「子供向け」と見下す文化に嫌気が差して、文壇と距離を取り続けたのは有名だ。
 こうした「SF」や「ファンタジー」を下位として扱って、自分達が書く「純文学」を上位とするジャンル差別が明治時代には確実に存在していた。「純文学」のこじんまりとした話のほとんどが「SF」や「ファンタジー」の壮大な世界観やスケールに太刀打ち出来ない。だから自分達のつまらない小説の優位性を認めさせるために「純文学」と云う概念を生み出すことで、「SF」や「ファンタジー」を軽んじる必要性に迫られていたのだ。漫画と共にこのようなオタク文化を「ガキ向け」と切り捨てたのも、自分達の小説こそ価値があることを訴えるために必要な誹謗中傷だったのだ。
 そして、こうしたジャンル差別を持っている菊池寛によって文芸春秋社が設立され、純文学新人賞に「芥川賞」、娯楽作の新人賞に「直木賞」を制定したのだ。このような明治時代の作家達の手前勝手な偏見と論理で生まれたのが我が国の「純文学」の正体であり、事実「直木賞」の小説は大衆小説に送られる賞だから面白いことが多いが、「芥川賞」は受賞作でもレベルが低いことが多いのはこのせいである。
 しかし「純文学」から距離を置こうとした夏目漱石の弟子の芥川龍之介が「純文学新人賞」の名前に刻まれたのはなんとも皮肉な事態である。
 芥川賞や直木賞はメディアで大きく扱われているから、他社のメディアもそういった影響を受けて、「SF」や「オタク文化」に対する差別や偏見は長い時間を掛け、会社やメディアの垣根も越えて醸成されていったわけだ。
 こうして文壇から始まった「ジャンル差別」はやがてテレビや漫画雑誌の時代になっても残り続けた。自分達が好きなジャンルの世間一般の無理解に苦しんでいる、特撮や漫画、アニメ、ゲームなどのファンは多いだろうが、実はこうした歴史的背景があったからである。岡田斗司夫さんが「アートや芸術に価値が無い」と訴えたくなるのも凄くよく分かる。

 どうして「オタク文化」や「SF」を犯罪者になる原因であるかのようにメディアが扱うのかは、SFやオタク文化を差別した作家達によって「純文学」と云ったジャンルや文芸春秋社と云ったメディアが創られたのだから、「ジャンル差別してきた連中が創ったメディアがジャンル差別をするのは、そりゃ歴史的に必然でしょ」としか言いようがない。文藝春秋社の社員達は文藝春秋社がそういった「文学」の差別的な土壌から生まれた会社だとは、たぶん分かっていないだろう。分かる必要も無いが。

 次に、宮台先生は『「連合赤軍事件と同じ」ではない』と銘打って、連合赤軍事件とオウム真理教との事件が本質的に何が違うのかを具体的に書いている。高度な分析であり、『違う点』そのものについての異論反論は無い。
 ただ、やはり筆者と宮台先生は違う人間なんだなぁと思ってしまうのは、『違う点』に対する物の見方や考え方、価値の置き方である。
 宮台先生は連合赤軍事件とオウム事件が『違うこと』を非常に重視した。
 ところが筆者は『違うこと』について軽視してしまう癖がある。
 理由は単純だ。二つの事件は、片や共産主義(連合赤軍事件)、片や宗教(オウム事件)、学生運動の集まりと宗教団体とでは主従関係も異なるし、事件が起きた時期も1970年代と90年代で違うし、両者が本質的に異なるのは当たり前であって、互いの思想性、失敗の経緯、事件が発生した背景の差異などを比べてもあまり意味が無いような気がしてしまうのだ。
「違う」と言うのは確かに正しいのだが、「違う」の発想のままでは戦時中の神風特攻隊とアメリカ同時多発テロの自爆テロの共通点を分析することも出来なくなる。

 1988年の初放送から23年間映像ソフト化されなかったので、さすがの宮台先生でもご存知なかっただろうが、例えば昭和最後のスーパー戦隊シリーズ『超獣戦隊ライブマン』は連合赤軍事件を下敷きにした話である。脚本家は大学時代、新左翼の活動家だった曽田博久先生。悪が仲間に手を下していく展開は「総括」だし、敵組織『武装頭脳軍ボルト』の首領・大教授ビアスの野望が12人の1000点頭脳を集めることなのも「山岳ベース事件」での犠牲者が12人だったことに起因している。
 しかし現代の視点から見ると、連赤事件ではなく、オウム真理教の事件を予言したように見えるのである。これは大教授ビアスが連合赤軍の森恒夫と云うよりもオウム真理教の麻原彰晃の方が部下達との人間関係が近いからであり(麻原=宗教団体の教祖、ビアス=敵組織の指導者)、12人の1000点頭脳を集めた大教授ビアスは、地球全人類の頭脳を操ることで一時的に地球征服を達成してしまうからである。他人を操ろうとする展開は森恒夫と云うよりも自分の信徒達を操る麻原彰晃に近い悪党と云える。
 勿論、東映はオウム事件を予言したわけではないが、こうした物の見方が出来るのは「異種」のものを「同じ」と見做せるからに他ならない。
 筆者は養老孟司先生の話なんかも好きで、「同じ」と「違う」についての講演を聞きに行ったことがある(下がその時の記念写真)。

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「1+1が2になるって計算はチンパンジーでも出来る。だが1+1“=”2のイコールがチンパンジーには分からない。人だけがA=Bみたいな話を理解できる」
 なんて話を聞くと、『同じ点』を見出すことにこそ、人間としての意義を感じてしまい、「『違う』についての分析は、宮台先生にお任せしよう」と筆者は考えてしまう。おそらく、ここが宮台先生が社会学者として生き残って、飯を食べてきた実績にも繋がるのかもしれない。
 太平洋戦争も、連合赤軍事件も、オウム真理教事件も、優秀な大学を出た秀才(現在と違って大学全入時代ではなかった)が、無謀にも出来るはずもない「戦争での勝利」とか「革命」とか「国家転覆」とかが出来ると本気で一度は信じて、無意味な犠牲を出し、失敗していったのかなんて、そりゃ、理由はそれぞれ「違う」に決まっているんだが、「失敗」だとか「不可能を求めた」とか「尊い命が奪われた」とか考えれば、それぞれが「同じ点」を持っていることも事実ではないかと思う。だって「同じ日本人」だったのだし。「違う」の中に「同じ」を探したくなるのは、決して筆者だけではないだろう。
 宮台先生がそれを指摘しないのは、おそらく大半の人間がそんなことには気付けることを分かっているからであり、俯瞰した視点の大切さを宮台先生本人が肝に銘じていたからなのかもしれない。
 本の最後の方に載っている[宇宙の闇・白い光―❿]マルクスもヒッピーもウッドストックも、何もなかった世代の恨み節でも、「異質な部分の方が重要だとは思うけど、」と前置きしてから対談を始めている。
 あとがきを読むと『違うこと』『異質な部分』を指摘することこそ、社会学者としての責務と宮台先生は考えているのが分かる。
 それを読んで筆者も思った。筆者は社会学者になれないと。

 その後、本では『「オウムは二重組織」論のくだらなさ』『醜態をさらした宗教学者たち』『日本の知識人の宗教バージンぶり』と続け、当時オウム真理教にまんまと利用され騙される形となった宗教学者の島田裕巳氏や中沢新一氏を痛罵しているが、宮台先生がアベマTVに出た際「朝生(朝まで生テレビ)確かに宮台vs全員になったじゃない? 僕程度のねディベートやディスカッション能力で他の人間が太刀打ち出来ないってどういうこと? やっぱり無能だからでしょ」「出演する人間の無能さが悪い」などと語っていたのを想起する。
 筆者はオウム真理教の頃、まだティーンエイジャーにもなっていないから、当時の「朝まで生テレビ」をリアルタイムで視たことが無い。
 なんとなく1995年頃から宮台先生もあんまり変わっていないんだなと再確認出来たのが、本を読んでいて嬉しかったことである。

[宇宙の闇・白い光―❶]オウム・ここだけの私的年表
 麻原彰晃誕生から逮捕までの流れを簡易な年表にしている。
 また、筆者は2018年10月4日に放送された『直撃!シンソウ坂上SP 独占スクープ!サリン事件極秘資料 ―オウム“天才”信者VS伝説の刑事―』を視て初めてその存在や事件を知った、刺殺された村井秀夫氏の年表も載せている。
 教団の歴史や同時期に起こった事件は簡易的に載せられているが、単行本初版第一刷発行分には記述に不備が見られる。1989年に起きた「坂本弁護士一家殺害事件」が「坂本弁護士一家失踪事件」と書かれているのは時代的に仕方ないが、1994年の「松本サリン事件」について記載されていないのは、第一章でオウムとサリンについての結びつきが噂されていたと書かれていたのだから年表に書いておくべきだと思えた。
 しかし「松本サリン事件」は単にオウム真理教が行ったテロというだけでなく、全く無実の人に罪を被せてしまった冤罪未遂事件や報道被害事件でもあり、この時期にはまだ真相が解明されていなかったことも言及しておく。

[宇宙の闇・白い光―❷]故・村井、青山、林に贈る悲しきディストピアへの招待状
 かつてオウム真理教の関連会社である株式会社マハーポーシャが運営していたとされる「うまかろう安かろう亭」の写真を最後に載せて、亡くなったオウム真理教幹部の村井秀夫、オウム真理教の顧問弁護士だった青山吉伸、地下鉄サリン事件の実行犯になった林郁夫の三人を名指しして、セラピー・レストランが「ささやかな晩餐」と称して、料理を処方したり、逆洗脳をかけたりと云った皮肉を小説風に書いている。
 村井秀夫は刺殺されているが、青山吉伸は2009年に刑期満了で出所しているし、林郁夫に至っては地下鉄サリン事件の散布役を担ったのに無期懲役に終わってしまい、実行犯の中でただ一人死刑を免れている。

 現在はインターネットの発達で情報化社会になったので、オウムのような宗教に騙される人は減ったが、政治的右翼、或いは左翼のデマや言説などに騙されてしまうようなケースは増えた。また、自分の身体と向き合う経験はこの頃の日本以上にしなくなったことも危険性として指摘出来る。
 オウム真理教のような最終的にテロにまで奔ったような新しいカルト宗教団体が登場する可能性は極めて低いが、何らかの違った形でテロリズムへと発展する集団や共同体が登場する可能性そのものは消えていないと考える。それが何なのかは筆者には分からない。
 筆者は「同じ」から、宮台先生は「違う」の視点から、社会分析をされていくんじゃないかと思っている。
 数年後か数十年後、集団が凶悪な事件を起こしたのを見て、筆者のように「同じ」と考える人達は「連合赤軍事件やオウム真理教の事件を想起した」と言うだろうし、宮台先生のような人は「両者は本質的に違うものです」と言って論戦を繰り広げるに違いない。

 ところで、レストランで飯を喰わせるだけで洗脳が解ける(逆洗脳)とは思えない。宮台先生は「教祖があなた方をあやつった手口は、使いたくない」と書いている。宮台先生がよく言及するアウェアネス・トレーニングの一歩手前で寸止めした印象を受けて、若干物足りなさは覚えるが、実はこの挿話は第二章の究極の前振りであった。

・第二章:「さまよえる良心」がアブナイ
 筆者も宮台先生と同じく「末端の信者はいい人」幻想が大嫌いである。
 しかし、そんなことよりも宮台先生の恐るべき姿が露わになる章としての側面を紹介したくなる。

 養老孟司先生は著書『バカの壁』の中で、竹岡春季氏の『「オウム真理教事件」完全解読』を読み、あんな見るからにインチキな教祖に学生たちが惹かれていく理由が分かったと述べている。麻原はヨガの修業だけをある程度きちんとやって来たから、修行によって弟子たちの身体に起こる現象について「予言」も出来たし、ある種の「神秘体験」を追体験させることが出来たため、自らの身体と向かい合ったことのない若者にとって、麻原の「予言」は脅威だったのだと結論付けている。

 しかしこの養老孟司先生の結論は、麻原彰晃が逮捕されてから2か月後に出されたこの本を読むと、宮台先生がとっくの昔に辿り着いていた同じ結論であることが明らかとなる。
 何故ならば宮台先生もオウム真理教で使われたマインド・コントロールの技術を習得していたからである。一定のテクニックを習得した人間ならば、神秘体験を引き起こすことなど容易い。実際に本では「僕のところに良心のカタマリであるような連中を三〇人集めてくれ。一〇人にはサリンをバラ撒かせてみせよう。」と豪語している。
『「オウム真理教事件」完全解読』は、麻原彰晃逮捕の4年後に出版されている。宮台先生が麻原が逮捕されて僅か2か月後「彼ら(信者)の確信は、麻原が教養として述べている神秘体験を彼らがそのまま追体験できることから来ている」ことを見抜いていたのは、驚異的としか言いようがない。
 だからこそ、「体験の神秘性」が「体験メカニズムの神秘性」を必ずしも意味しないことをキチンと述べてこなかった宗教学者達の責任を厳しく追及している。
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今日的な状況下でそれがどのような「選択」であるのかを、ありとあらゆる可能性を含めて提示することこそが、「学者」を名乗る者の責務だろう。
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 重い言葉である。

 さて、宮台先生はもう一つのキーワード「さまよえる良心」から、「大いなる救済のために犠牲はいとわない」とする金剛乗的思想(タントラ・ヴァジラヤーナ)は、何も宗教に限定されず、たとえば革命をめざしたかつての前衛党(プロレタリアートや大衆運動、革命などを指導する政党)も、例外なく「救われるべき人間」と「救われる必要のない人間」とを明確に選別し、「大いなる革命のための犠牲」を是とする思想を掲げたことが想起出来ることを宮台先生は否定していない。
 前衛党は、連合赤軍のような連中も含めて良い。
 ならば第一章の『「連合赤軍事件と同じ」ではない』と銘打っているのは宮台先生と云うより、編集が悪い。「同じではない」のは分かるが、「同じ部分もある」ことを言っているのだから、これだと章の前後で矛盾しているようにも読めてしまうので、少し不親切な気がした。

『倫理なき社会で道徳が失われるとき』から、1950年代後半の団地ブームと並行して急速に進んだ郊外化と人口流動性の高まりから、伝統的なムラの共同性を急速に踏み散らかしていった歴史について触れている。
「さまよえる良心」を抱えた人々が、善悪の判断を麻原教祖やゴーマニズム宣言の小林よしのり氏などに委ねていく精神構造を解説している。
 連合赤軍もリーダーの森恒夫や永田洋子に判断を委ねて自滅していったのは間違いなく、麻原が神政国家を目指したことと「マルクス主義国家は一つの例外もなく神政政治だった。」ことも共通している点である。
 宮台先生が指摘するように、確かに両者(連合赤軍事件とオウム事件)は似て非なる部分の方が大きいのは事実だ。

 しかし宮台先生が「非なる部分」にこそ、今回の事件を読み解く鍵があると思われて言説を述べるほど、筆者には「同じ部分」ばかりが悪目立ちして見えてしまうのは一体何故だろうか?

 ナルシズムかもしれないが、「筆者の良心はさまよっていない」からだと思われる。いや「良心」自体が無いのかも分からない。
 筆者には「何が良きことなのか分からない」と云った感覚を持ったことが人生で一度も無い。そんなことは映画やテレビドラマ、特撮番組やアニメや漫画などの娯楽作品ではよく見聞きするのだが、自分から「何が正義か?」「何が良きことなのか?」なんて考えた試しさえ無い。フィクションだと、よく見るって感じだ。
 しかし、逆ならある。
「何故悪なのか?」「何が悪いことなのか?」なら、筆者はよく考える。
 例えば「どうして薬物はいけないのだろう?」を考える。この時「法律で禁止されているから」では結論としてダメだと考える。何故なら「法律で禁止されているからいけない」のではなくて、「いけないから法律で禁止する」からだ。そこから自分で情報を調べたり勉強したりすることで、自分の中で理由を創っていく。この理由の中に「法律を破ったら親や兄弟、友人知人を悲しませる」「社会的信用を著しく損なう」などは、一般論に過ぎないので特別に書かないことにする。

<黒羽翔が考える、何故薬物(ドラッグ)はいけないのか? 理由一覧>
その1
「薬物売買によって反社会的勢力(暴力団)などに資金が入り、また別の犯罪に使われる」
その2
「通常の売買なら消費税が掛けられるが、違法薬物の売買に消費税収は発生しない。さらに通常の物品の売買ならば、所得税・住民税・法人税・社会保険・年金などを商品が賄うことで社会全体が支えられるが、違法薬物の売買はその人個人が儲かるだけで社会的には何の利益も無い」(筆者はこれを、『脱税効果』『脱税作用』と名付けた)
その3
「過去に数十万人以上の薬物中毒者が出て社会問題になった歴史がある」
その4
「ダイオキシンやアスベストのように有毒なものを人体に入れないために法規制が求められるから」

 などと云った「何故悪なのか?」「何が悪いことなのか」の理由を自分で考えることなら多い。「殺人」にしても「飲酒運転」にしても同じことだ。
 でも「何が正義か」「何が良きことなのか」を考えたことは無い。
 そういう意味で、筆者と宮台先生は感性があまりに違い過ぎる。
 冒頭の女子高生達から話を聞いた宮台先生の反応を知って驚いたように、宮台先生が「疑問を持つ」ことに「疑問を持った」くらいである。

 勿論、「さまよえる良心」を抱えた連中が連合赤軍事件やオウム真理教に加担していったこと自体は否定しない。

 しかし忘れがちだが、オウム真理教の信徒数を最盛期の11,400人と多めに見積もって、日本の総人口を計算しやすくするために114,000,000人(1億1400万人)とする。すると、オウム真理教の信徒数は、日本人全体の僅か約0.01%しか居なかったことが分かる。実際の日本の総人口はもっと多いに対して、宗教団体の信徒数の公称(自称)は多めに発表されるのは常識だ。ならば、オウム真理教の信徒達など実際には0.01%未満のごく僅かな例外でしかなかったことが分かるだろう。
 日本共産党の党員は最近30万人を切ったが、いくら一番多かった時期でも全国民の過半を占めていた時期は無い。共産主義者が日本の総人口の半分を占めていたら、朝鮮半島やドイツのように西日本と東日本で分裂が起きてもおかしくない。
 当たり前だが、大半の人間は犯罪者ではないし、1年間に発生する犯罪の半分は再犯である。つまり、一部の粗野な連中の蛮行でしかないという面は否定出来ないのである。
 宮台先生は80年代後半、自己改造セミナーや超能力セミナーなどに転々と潜入して、昭和30年代生まれの人々が「新しい宗教」に入信して、はまり込むのかを目撃してきたことを語っている。そのフィールドワークの凄さにはいつも感服させられるのだが、日本は東京のような都会ばかりではなく北は北海道、南は沖縄のような田舎で暮らす若者だって少なからず居るし、愛知県の自動車工場に就職して工場の中で働いている労働者達も大勢居る。そうなると、実際にその現場に行ったことによって、自己啓発セミナーや超能力セミナーに通ったり、新しい宗教にのめり込んだりした人々が悪目立ちしていた可能性は否定出来ないような気がする。
 何が言いたいのかと云うと実際には自己啓発セミナーや超能力セミナー、新しい宗教などに入信せず、仕事をして働いたり、仲間と遊んだり、趣味に興じたりしているような人々が大半であって、「さまよえる良心」を抱えるような人々は実際には少数なんじゃないかと云うことだ。
 フィールドワークの弱点は、近視眼的に「木を見て森を見ず」って状態に陥りがちなことである。メディアがまさに「木を見て森を見ず」だ。凶悪な殺人事件が報道されても、それが多いか少ないのか、増えたか減ったのかは全く別の話である。冷静に統計的に全体を見たら、大半の日本人にとっては「オウム真理教なんて関係無いこと」だったのである。
 メディアは拡声器である。元々、小さかったり、少なかったりすることを巨大化して伝えることが可能だ。しかし、その拡声器を取り外してしまえば発言者や取り扱われた話題が実に小さく取るに足らないものに過ぎなかったことが分かってしまうのは、後世の人間の後知恵だろうか。

 筆者が宮台先生と違って、女子高生達の反応を見ても疑問を持てなかった理由を弁明(言い訳)させてもらったが、宮台先生のような感性を持たない筆者では、オウム真理教の事件の真相を探ろうとする試み自体が出来ない。
 なんだか筆者自身の「内発性」の無さも痛感して、読んでいて宮台先生を尊敬したり、自省したり、反論したくなったり、色々思ったものである。

[宇宙の闇・白い光―❸]新興宗教の渡り鳥が、最後にたどり着いた究極の宗教
 新興宗教を渡り鳥のように廻った青年のエピソードが書かれている。このような人は実際に多いと聞く。
 現実の社会こそが社会教と云う究極の宗教だと考えたそうである。
 本人は幸せそうなんだから別に構わないが、そもそも自分の幸福を宗教に託そうっていう前提自体を疑って欲しい。

[宇宙の闇・白い光―❹]マンジュリー・ミトラ村井との架空インタビュー
 刺殺された村井秀夫氏に宮台先生が架空インタビューするフィクションである。
 インタビューとは書かれているが、宮台先生が村井秀夫氏に自分の言説を一方的に述べているだけであまり面白くない。
 どうせインタビューと称するなら、村井秀夫氏がたくさん話す設定にした方が読み物としては面白くなったに違いない。
 ただ、それだと幸福の科学のインチキインタビュー本に成り下がるが。

[宇宙の闇・白い光―❺]元自衛官の語る「宗教より仁義が好き」の世界
 元自衛官にインタビューする設定のフィクションである。
「オウム事件はマンガチックな出来事だよ」が元自衛官の最後の台詞だが、マンガだったらもっと派手で奇天烈な展開にするだろう。

[宇宙の闇・白い光―❻]井上がサリン実行部隊に選ばれた理由の、ほんの小さな日陰の芽
 地下鉄サリン事件実行班の最年少・井上嘉浩が中学三年の時に作った絵本の「願望」と題された詩を載せている。
 この詩から宮台先生は「終わらない日常」との関連を探っている。

 あんまり書くことが無いので、ちょっとパロディにしてみる。

[世界の翔・黒い羽―①]黒羽翔が彼女から選ばれなかった理由の、本当に大きな日向の穴
 筆者は中3だった時、クラスで一番可愛いマドンナに恋をしていた。
 中2の時に一目惚れして以来、1年以上片思いし続けてきた。
 席替えで隣の席に来た時、僕は彼女に積極的に話し掛けて、兎に角彼女を楽しませて笑わせることだけに必死になった。
 すると、いつの間にか僕はクラスの中で人気者になっていた。
 でも僕は彼女の笑顔が見たかっただけだったんだ。
 中学を卒業すると、僕が恋したマドンナとは離れ離れになってしまう。
 僕はあの過ぎ去った「終わらない日常」が終わって欲しくなかった。
 フラれても良いから言うべきだったんだ。
「好きです。僕と付き合ってください」って。
 傷付くのが怖かっただけの愚かで無垢な童貞だった自分に伝えたい。
 甘酸っぱい初恋が「終わらない日常」だと勘違いしていたのか!?
 ふざけるな! いいか? 日常は終わるんだよ!

・第三章:「終わらない日常」はキツイ
 宮台先生は高橋留美子先生の『うる星やつら』を例に挙げて、「終わらない日常」はユートピアでもあり、ディストピアでもあると語っていた。
 確かに筆者が恋していた、今はもうおばさんになったクラスのマドンナが永遠に若いまま、彼女と「終わらない日常」を暮らし続けられるのは幸せな反面、未来が来ないのだから不幸なことでもある。
 その後、「核戦争後の共同性」が80年代後半に主流になったことを解説している。この解説自体は正しいが、80年代週刊少年ジャンプを代表する『北斗の拳』が入っていなかったのは意外だった。

 私と10年以上付き合いのあるクロサキ・ヒュウガさんが90年代の週刊少年ジャンプの傾向をまとめてくれたが、80年代は高度経済成長の末期にプラザ合意が起こり、やがてバブル経済へと発展していく流れの中、漫画の主人公が強さをインフレさせていくことに疑問を持たなかった時代である。1979年から連載が始まった『キン肉マン』を皮切りに、『北斗の拳』でケンシロウは無類の強さを発揮して、『シティーハンター』の冴羽獠は強さだけではなく自分の性欲まで堂々と開放して魅せた。この流れを受け継いだ『ドラゴンボール』の孫悟空が、90年代中盤のバブル崩壊までその強さのインフレにひたすらに専念していった。
 そしてバブル崩壊が起きると、ヒーロー達は急に強さのインフレをやめるのだが、そんな時期に阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が発生した。

 その辺りの宮台先生の分析は非常に面白いし、筆者も度々引き合いに出す養老孟司先生が『筑紫哲也ニュース23』に出演した際の話を語っていたのも面白かった。そして宮台先生は養老先生の分析を否定せずに、「永遠に続く脳化社会の中で」サリンをばらまかないで生きる道なのではないか――このように宮台先生も同じ番組で主張したことを挙げていた。
 ただ、この章では「ノストラダムスブーム」について触れていないので、分析に少々詰めの甘さを感じたのも事実である。
 1973年に五島勉が著書『ノストラダムスの大予言』を、核戦争や環境汚染などから囁かれた「終末ブーム」に便乗する形で刊行。200万部以上のベストセラーになり、オカルトブームの先駆けとなった。「1999年7月」に「恐怖の大王」によって人類が滅亡すると予言すると、テレビ番組は挙ってこの本に沿った内容で大予言を取り扱ったため非常に有名になったのだ。当時、素朴にこの予言を信じた人達も決して少なくなく、オウム真理教では信者獲得のためにノストラダムスの予言を解読したとした本を出版していたことがWikipediaにも紹介されている。
 筆者も実は当時テレビで特集されていた「ノストラダムスの大予言」には興味があり、(1999年7月に本当に世界が終わるのだろうか?)なんて小学生で半信半疑ながら怖かった覚えがある。この辺りは宮台先生よりも、「と学会」の方が俎上に載せていて、本当に何も起こらなかった1999年7月(せいぜい事件らしい事件と云えば全日空61便ハイジャック事件)までテレビが無責任に人類滅亡を煽っていた騒動を詳しく紹介している。
 1995年と云ったら「ノストラダムスブーム」の真っ最中だから、この辺りのメディアの無責任さも宮台先生に言及して欲しかったところだ。
 まぁ、この時の宮台先生は弱冠36歳。インターネットも普及していない時代なので仕方が無いのだが、それ以前に筋金入りの「SFマニア」だからオウム真理教に引っ掛かるような人達とは精神構造が根本的に異なることも指摘出来るかもしれない。当たり前だが、ほとんどの人は宮台先生のように良質なSF作品を読んでいないからである。
 これは宮台先生が「特殊な人物である」と言っているわけではない。
 第二章でも筆者は書いたが、オウム真理教の信徒数は、日本人全体の僅か0.01%未満に過ぎない。その中でサリンをばら撒いた実行犯となれば、その数はさらに少なくなっていく。
 私達が必要としているのは、むしろ、そうした「永遠に続く脳化社会の中で」サリンをばらまかないで生きる道なのではないか――
 この主張自体は間違っていない。
 しかし、立件された一連の事件に関与して逮捕された者の人数は403名(1996年1月18日時点)、起訴192名である(Wiki情報)。
 計算しやすくするために、日本の総人口を1億人と少なく見積もっても、逮捕された者の割合は0.000403%、起訴された者は0.000192%に過ぎない。日本の総人口はもっと多いから、実際にはこのパーセンテージ未満である。
 宮台先生が提示する処方箋『「永遠に続く脳化社会の中で」サリンをばらまかないで生きる道』が必要なのは、日本人全体の0.000403%未満の連中に対してでしかない。残りの約99.999597%の日本人はそんなものが無くてもサリンをばらまかないで済んでいるとも云える。オウム事件に限らず、犯罪全般と考えても犯罪者の総数が国民の過半数を超えることは無い。
 勿論、『「永遠に続く脳化社会の中で」サリンをばらまかないで生きる道』を処方したからこそこの数字で済んだのだって考え方も出来るのだが、一方で「メディアは世間ではない」と主張したくもなる。
 そうなると、宮台先生が取り扱っていた問題それ自体が、一般論と程遠いかなり限定的な人達を対象にしていたと指摘出来る。
 宮台先生はそんな物珍しい人達とフィールドワークを介して交わってきたわけだから、世間一般の認識とはズレてくるのかも分からない。
 要するに、オウム真理教の一連の事件は確かに大きく取り沙汰されたが、ほとんどの人にとっては関係の無い他人事だったのではないかと反駁出来てしまえる。

 しかし、幼くて未熟だった筆者は、確かに今のようには思えなかった。
 小学校3年生頃に観に行った東京ドームの「巨人対ヤクルト戦」の帰り、地下鉄に乗って帰っている時、「ソファの下の通気口からサリンが噴き出してくるんじゃないか」と本気で恐怖に震えていたのを覚えている。その前に「ウルトラマンA」の第5話「大蟻超獣対ウルトラ兄弟」をVHSで見て、地下鉄に乗る人々が白骨化するシーンが軽いトラウマになっていた。

「そんな恐怖、メディアが創り出した幻想でしかないよ」

 現在の筆者だったらそう考えられるが、8歳の筆者にはまだ難しかった。

[宇宙の闇・白い光―❼]双子の女子高生、ユミとユカがぜったい洗脳されないわけ
 双子の女子高生に宮台先生が話し掛けてインタビューした様子が書かれる。
 筆者もフィクションを書いたが、下ネタになってしまったので削除した。

[宇宙の闇・白い光―❽]サナギの中の少女
 麻原の逮捕から数日後、未だに白いサマナ服を着て、「オウムはサリンに関して潔白!」と主張しながらビラを配り続けた少女に会ったことを、宮台先生が書いている。
 当時23歳だった女性は、もう50歳である。
『終わらない日常』されど人は年を取っていく。

・第四章:コミュニケーション・スキルという知恵
 一番笑った章である。
 筆者は養老孟司先生が好きだが、一方で「参勤交代を導入したらどうか」と冗談半分で語られる言説を現実的な提案に思えたことは一度も無い。

 宮台先生は、世代によって記憶が違うことを指摘して「記憶を持つ者」と「持たざる者」の対立があったことを挙げている。
 宮台先生が、戸塚宏や井上ひさしや養老孟司をまとめて、
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「失われてゆく母なる自然」を目の当たりにした人々から繰り出される世代的代表の、「さまざまな意匠」である。正しいとか正しくないとかいうよりも、それがその程度のものに過ぎないことは、すべての記憶がメディアに媒介されている私たちよりも下の世代にとっては自明のことである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 と切り捨てているのを読んで、筆者は爆笑してしまった。

 しかし宮台先生は同じ世代の中でも、好きなものが細分化して別れていく理由を、コミュニケーションスキルの多寡の差であることを指摘する。
 今で云う「リア充」はリア充が好きになるものを趣味にすることが多く、「リア充」になれない連中はリア充ではない者達が好きになるようなものを趣味にしていくと云う風に分岐すると語っている。
 確かに、如何にも女の子にモテそうなイケメンの男の子が特撮ヒーローになることはあっても、特撮オタクになっていると云うのはあまり聞かない。筆者も特撮が好きだが、多くの特撮オタクの連中らの実態に嫌気が差して、「なぜオタクは無駄な知識でマウントを取るのか?」を書いたことがある。

 さらに、宗教と恋愛が似ていることを挙げる。
 もしかしたら筆者が宗教を嫌うようになったのって、あのマドンナに恋をしていた若き青春のように、女の子を楽しませて笑顔にすることの方がずっと幸せなことだってあの時に気付いていたからなのかもしれない。
 そう云えば、創価学会の家に生まれた筆者が、将来、創価学会を脱会することを決意した時期が、ちょうどクラスのマドンナに恋をしていた中2から中3の時期だった。これは宮台先生の主張と一致する。
 そうか、俺って「恋愛」の処方箋を飲んだ後だったのか……。
 そんなに恋愛経験は無いはずなのに、恋愛を題材にした小説や脚本が意外とスラスラ書けてしまうのはそういうことだったのかもしれない。

 宮台先生は最終的に「まったり」生きることを挙げているが、この一言があったおかげで、筆者はようやく宮台先生の一連の主張に納得がいった。

 そうか、俺って既に「まったり」生きていたから、オウム真理教にハマる連中の動機がまるで分からなかったり、宮台先生の話がどうも分かり切っていることを言い聞かせられているように感じたりしていたのか……。
 何だか途中ケンカ腰になって書いた部分も有ったけど、宮台先生の主張とそんなに変わらなかったのである。

 でも宮台先生に逆らって「将来にわたって輝くことのない自分」に抗ってみたいな……って、筆者は思うかな。
「まったり」で満足できるほど、筆者の中の〈内発性〉は、未だ弱くなっていないから……。

[宇宙の闇・白い光―❾]自分を愛しすぎる自分に窒息して、自我を捨てるパラドックス
 筆者も嫌悪している「自分探し」をしてしまう若者の心理を、宮台先生が丹念に分析している。
 宮台先生がフィクションを書かれると、どうも文句を付けたくなる反面、宮台先生が実際に取材して得てきた言葉を読むのは大好きである。

[宇宙の闇・白い光―❿]マルクスもヒッピーもウッドストックも、何もなかった世代の恨み節
 宮台先生が速水なる人物と対談している。
 あとがきの謝辞で、この人物がジャーナリストで宮台先生とも共著を多数出している速水由紀子さんであることが分かる。
 此処でも宮台先生は、連合赤軍事件とオウム事件を比べて、「異質な部分の方が重要だとは思うけど、」と書いていて、非凡さを感じさせる。

・あとがき
「私達自身を映し出す鏡」で、宮台先生は「条件分析」「文脈分析」「分析コスト」「評価の相対性」など、多数のキーワードを挙げている。
 言ってしまえば、何故宮台先生が「異質な部分の方が重要だとは思うけど、」と書く理由が分かった箇所である。

 執筆期間が実質的に一週間も無い非常に短期間で書かれた本であること、正規の著作と云うより緊急声明、とは宮台先生自身も書かれていることだ。
 また、宮台先生自身がまだ若かったり、インターネットが発達していない時期だったので、所々に分析の詰めの甘さを感じるところも見られた。
 また速水さんが書いた10個のコラムが[宇宙の闇・白い光]だろうか。フィクションが含まれると、未熟な部分も見受けられた。
 
 しかし、社会学者・宮台真司を知る上で必読の書と云える本であることは間違いない。
 オウム真理教の事件が起きていた頃を生きた宮台真司の青春物語としても筆者は読めた。
 当時ティーンエイジャー未満の筆者も、この当時の宮台真司先生と年齢が近くなっている。自分と年齢の近い友達が書いた本のように思えて、高度な分析だなぁと感心する反面、みずみずしさも感じ取ることが出来た。
(2022年1月11日)

世紀末の作法(1997年7月)

『世紀末の作法 終ワリナキ日常ヲ生キル知恵』
[発行](株)メディアファクトリー

 本書は21世紀以降(2001年以降)、インターネット文明に急速に置き換えられる前の最後の時代(90年代)を分析した評論集である。
 数多くの雑誌で書いたインタビューや連載をまとめたものとなっている。そのため、内容の重複もあるため、その辺は注意して読む必要がある。
 単行本はメディアファクトリーから、文庫本は角川から出ている。
 当たり前だが、単行本の方が文字も大きく、グラフやアンケートデータも1ページに多く載せることが出来るので圧倒的に読み易い。また、気のせいだろうか、単行本よりも写真が減った印象も何故か受けてしまう。
 ただ、文庫本は文庫版あとがきが追記され、『リング』の鈴木光二先生が解説を書いている。
 文庫本の裏表紙に「社会学者・宮台真司の行動の源泉を知る一冊」と書かれているが、『終わりなき日常を生きろ』も併せて読む必要があるだろう。

【目次】
第一章 現象編 彼女の日常、彼らの風景
第二章 背景編 殺したい物語
第三章 提言編 世界と自分のリセット

第一章 現象編 彼女の日常、彼らの風景
 この本が書かれた時代は出会い系サイトなどが出て来る以前、テレクラやデートクラブが全盛だったので時代性は感じられるが、アナログである分、本人達の生の声を聞くことが出来たのも事実で、それらを拾い集めてくれた宮台先生のフィールドワークの確かさには敬服せざるを得ない。

 コギャルやガングロ系のメイクをしていた女の子達より、見た目が清楚な女の子の方が実は援助交際をよくやっていたと云う事実は、宮台先生の『終わりなき日常を生きろ』でも読んだ。
 21世紀に入ってAV女優のルックスのレベルが格段に向上した後、週刊プレイボーイか何かでAV女優のインタビューを読んだことがある。彼女の話によればAVでもギャル系より清楚な雰囲気の女優の方が人気のようで、ギャル系の彼女自身はあまり売れていないことを嘆いていた。
『水曜日のダウンタウン』でドッキリの仕掛け人でAV女優の天使あまつかもえが出演した際、「全国の寂しい男性の味方」「如何にも童貞が好みそうな清純派ルックスの彼女」などと紹介されていたが、ギャル系の女性は客層である男性から敬遠されがちだ。
 本人達は気が強く、男達から身体を買われない(売らない)ことを誇りにしていたのだろうが、実際問題、渋谷を屯していたようなコギャルやガングロの女子高生達は、少なくとも男性側からは性的な価値が無かった。

 しかし2000年代に入ると、こうしたコギャルやガングロの女子高生は徐々に消えていった。筆者が高校生だった頃にはルーズソックスは廃り始めていて、代わりにニーハイの女子高生が増えた。
 現在は底辺校でも、ヤンキーやギャルは減って、見た目は清楚な高校生が増えたようだが、裏を返せば自分の性を金で売る女性が増える醸成が出来てきている証左かもしれない。
 そして、今回のコロナ禍で満足な教育を受けられなかった子供達の学力の低下が2000兆円の損失を招くと世界銀行が警鐘を鳴らしているが、女の子が10代20代と年齢を重ねるにつれて、結局出来るのは自分の性を切り売りするだけになったら悲しいことである。

 ところで、渋谷から消えたギャルはガングロを辞めて何処に行ったのか。
  この本が書かれた10年後、宮台先生と同職の社会学者の山田昌弘さんが、『AERA』2007年11月5日で『「婚活」』と云う言葉を初めて創ったが、言葉が先に出来ると云うことは少ないので、現象としての「婚活」は2007年以前より起こっていたことを意味する。
 筆者がこの本を読んで真っ先に思い浮かべたのは、90年代に女子中学生や女子高生として親父相手に援助交際をしていた世代が2000年代に入って結婚適齢期を迎え、「婚活」を始めたのではないか? と云う推論である。
 2010年代になると「パパ活」と云った言葉まで出来たが、女が自分の性を男達に売る構造は何も変わっていない。
 そして、現在の10代~20代前半の若者は、援助交際世代や婚活世代の子供であり、パパ活世代と云うことになる。
 そうなると自分の若い肉体の対価として金を受け取ったり、相手の収入や年齢の数字に応じて売買婚したりして、親が金で結ばれていったのだから、今の若い世代がなかなか恋愛出来ないのも致し方無い気がする。
 何故って、自分達の親も金で結ばれた仲でしかないからだ。

第二章 背景編 殺したい物語

  ミュージシャンのGacktさんが2017年8月に書いたブログで「最近、若い子の身の丈に合っていないブランド志向に気分が悪い」「『一体どうやったらそんな300万もするバッグを自分で買えるか?』と声を大にして言いたい。まったく身の丈に合っていないバッグを20代前半の子達が、持ち歩いているのを見かけるとその子達の稼ぎ方に疑問を覚える」などと書いていたことが、『飛んで埼玉』と云う映画が公開されていた頃に少しだけ話題になったことがある。

 Gacktさんが発表したCDアルバムを全てパソコンに保存して、映画『MOON CHILD』を観ただけでなく小説版まで読破していた筆者は「Gacktさん、また同じこと言っているよ」と思ったものである。
『MOON CHILD』の初版が出たのは2003年だが、本の中でも、次のように日本が言及されている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 相次ぐ中小企業の倒産の裏には銀行の融資の貸し渋りが見られたこと、その他多くの政策の失敗とその理由が記載されたレポートは、何十枚にもわたる内容だった。
 十代の経済影響という項目を読んでいて、その内容にため息が出た。
 簡単に説明すると、女子高生は小遣い欲しさに売春し、ブランド物を買いあさる。仕事をしない若者が街に溢れ、少年達のギャング化が急増、少年犯罪件数の異常増加、異常殺人…日本各地では派手な合同が多発し、外国人と少年達の共同犯罪が大きな溢問題に発展…と、まあこんな感じだ。

 世界各地で売春行為は確かに多く見られる。だが、ブランド物を買う為に売春をする連中であふ(原文では、さんずいに益)れかえる国はどこにもない。
 ……一体なぜ、そんな現象が起こったのか? 私には、理解できない。
         『MOON CHILD』「日本」196ページより引用
――――――――――――――――――――――――――――――――――
『MOON CHILD』は、ヴァンパイアが出てくる近未来SF映画でもあるが、世界設定はポリティカルフィクションである。
 アジアの片隅に架空の移民都市マレッパが出来ていて(場所的に台湾かと思われるがよく分からない)、経済崩壊した日本からも数多く移民が集まった“人種のるつぼ”と化した、欲望と暴力の支配する街が舞台なのだ。
 その意味でGacktさんの書いた作品はあくまでもフィクションだから日本を完全にこのようには思っていないのは確かだが、『ブランド物を買う為に売春をする連中』と云う日本の女子高生に対する認識は、おそらく90年代から変わっていないはずである。

 しかしGacktさんのような発想をする日本人は多かったのも事実だ。
 一方、宮台先生は「コギャルの物欲主義」を笑う愚か者たちと題した項目で次のように紹介している。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「売春女子高生=コギャル」という“馬鹿民放”の図式で前提にされているのが、「売春する子は、消費社会の退廃がもたらした物欲主義に侵されている」という先入観だ。確かに彼女たちは売春理由を聞かれると「お金」と答える。だが番組でも紹介した通り、たいていは他人に内面に踏み込まれたくなかったり、自分の心を覗き込まれたくなかったりして、「馬鹿オヤジにはこんな答えで十分さ」というふうに見切って答えているだけなのだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 そして宮台先生はそんな彼女達を分析して、
①多くの男性と知り合いたい、社会を知りたいという「コミュニケーション願望」型、
②自分がただの劣等生やダサい優等生じゃないことを確かめたい「変身願望」型、
③厳しすぎる両親や構ってくれない彼氏に対して、“ざまぁ見ろ”的にあてこする「心理的犯行」型、
④街に居場所を確保するために必要なクラブ代やカラオケボックス代、はたまたストリートの仲間に溶け込むのに必要なシャネラーグッズに代表されるコスチューム代などを稼ぐための「居場所代」型、
⑤家や学校のムシャクシャや心の隙間を、継続する衝動買いで埋め合わせするための「気晴らし代」型、
⑥「お金が人生の全て」と思うような「純粋物欲」型は、一部に過ぎない。
 などと、彼女達にも実際には色々な人が居ることを指摘する。

 さて、ブランド物のバッグを持っている女子高生達を見て、「まったく身の丈に合っていないバッグを20代前半の子達が、持ち歩いているのを見かけるとその子達の稼ぎ方に疑問を覚える」と考えるGacktさんと、実際に彼女達に取材して言葉を引き出していった宮台先生とでは、どちらの分析の方が緻密だろうか?

 宮台先生は「テレクラ誕生のあとにくるもの」と題して、この章を結んでいるが、それが出会い系サイトだったりSNSだったりしたことは言うまでもない。

第三章 提言編 世界と自分のリセット
 この章は提言編と銘打たれてはいるが、90年代にヒットした『エヴァンゲリオン』を解説したり、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の書評を載せたりするなど、どちらかと云うと90年代文化の記録の側面が強い。
 90年代に話題になった、オウム真理教の地下鉄サリン事件や、安楽死、脳死や臓器移植法の議論、『たまごっち』ブームなど、さまざまなことを取り上げて語っている。

『終わりなき日常を生きろ』を読んでも思うが、90年代は『激動の時代』だったと改めて痛感させられる。

 しかし、あれから30年。時代は2020年代に突入している。
 宮台先生は「第一フェイズの郊外化」や「第二フェイズの郊外化」が発生した結果、第一空間(家)、第二空間(学校)、第三空間(地元)を失い、第四空間である「街」に繰り出していったことを指摘している。
 ところが現在、これがコロナ禍によって第四空間であった「街」まで破壊されてしまい、都会に住む意味を失った人々が地価の安い地方へと移住する「第三フェイズの郊外化」が図らずも発生している。
 その意味でこの当時の宮台先生が第四空間に区分していたネット社会に、今までネット社会に積極的に入って来なかった人達が、第四空間だった街がコロナ禍によって崩壊して入って来たので、『第五空間』としての「インターネット」や「メタバース」の到来が間近に迫っているのかもしれない。(2022年2月7日)

これが答えだ!(1998年12月)

『これが答えだ! 新世紀を生きるための100問100答』
編著:ライターズ・デン
発行:飛鳥新社

 宮台先生が100問の質問に答えていく形式の本。宮台先生もあとがきに書いているが、おそらく一番読み易い本であり、入門書には良い。

 宮台先生の本には、よく中森明夫先生の名前が登場する。
『世紀末の作法 終ワリナキ日常ヲ生キル知恵』でも中森明夫先生がテレビ番組に登場した女子高生に「ウチラー」と名付けたエピソードが紹介されていたが、この本でも先生の名前が頻繁に登場する。
 前回の追記で『総特集 寺山修司 増補新版 いまこそ、新たな読者のために(文藝別冊)』を紹介した際、Twitterで中森先生が寺山修司がアイドルグループをプロデュースする「TRY48」を書いている点にも触れてツイートし、宮台先生と中森先生の両方からリツイートを頂けたのは光栄だった。
 さて、どうして宮台先生の本にはよく中森先生の名前が出てくるのかなぁと思ったら、そもそもこの本の企画と編集を担当していたのが中森明夫先生だったと知って納得がいった。

 Amazonレビューには、現在の宮台先生なら書かないことも書いているのではないかと指摘する声があって、筆者も共感したが、宮台先生本人はどう思っているのかは定かではない。

 100問全てについて筆者の感想を述べても良いが、長文になってしまうので気になった点があったところだけ書評を書いていく。

Q12:有森裕子ガブリエル問題
 アトランタオリンピックで有森裕子さんが銅メダルを獲得したのをリアルタイムで視た記憶は、筆者にも残っている。
 しかし、結婚したアメリカ人男性:ガブリエル・ウィルソン氏が実はゲイだったことが発覚していたのはこの本で初めて知った。
 宮台先生は有森裕子氏が置かれた特殊な状況を配慮して解説している。
 なお、二人は2011年に離婚した。

Q15:顔はキレイなのに、ナンパしても彼女が出来ないのは何故?
「お前が人間としてつまらないからモテないのだ!」と切り捨てている。
 宮台先生の本を読んでいると、時々自分(筆者)のことを批判しているかのように読めてしまうのがキツい。
 この本の他の設問で、宮台先生の本を読んだ若い男が暗い顔になることを紹介していたのには、筆者も心を見透かされたような思いがした。
 俺、人間としてつまらないんだろうなぁ……(苦笑)

Q22:家庭内暴力問題
 家庭内暴力は依存型暴力で、子供に自己決定させずに育てた親の責任だと宮台先生は厳しく指摘している。
 筆者も自分の両親を殺す夢を時々見るので、胸がすく思いがしてしまう。

Q25:近親相姦問題
 妹に真剣に恋をした男性が悩みを打ち明けている。
 筆者にも妹が居るが、絶対に考えられないことなのでビックリした。
 宮台先生も一生懸命答えているが、紙数が足りていない気がした。

Q26:結婚届出してくれない問題
 質問に対する答えは本を手に取って読んで欲しいが、それより宮台先生が過去に小説家の桜井亜美氏と事実婚状態にあったことを筆者はこの本を読んで初めて知った。
 他の女性と結婚して産まれた、はびるちゃん、まうにちゃん、うりく君が将来大人になって、お父様の過去を知ったらどう思うのだろう……
 何とも思わない気がする(笑)

Q34:14歳前後の犯罪多い問題
 14歳が一番危険なんだと宮台先生は指摘している。
 宮台先生を尊敬している筆者だが、この説には否定的だ。
 確かに中2の時を振り返ると、同じクラスの男子達とはあまり良い関係を築けなかったが、筆者は地元の知り合いが減った高2の方がつらかった。
 新しい環境の真新しさ(中1)、受験目標(中3)がない「中2=14歳」は危険だと指摘しているが、筆者は「高2=17歳」の方が重要な気がしている。振り返っても、良い思い出が少ない、つらい時期だった。

Q47:なんで人を殺してはいけないのか問題
「人を殺してはいけない」というルールが共有されたことは人類史上一度もないと指摘していて面白い。
 筆者がどうようの質問をされたら「くだらねぇ」の一言で切り捨てる。

Q48:死刑存廃問題
 宮台先生は死刑に対して、かなり中立的な立場であることが分かる設問。
 ちなみに筆者は、死刑必須論者である。

Q51:事件が起きるとサブカルチャーのせいにされる問題
「オタク」と云う言葉は、中森明夫氏が『漫画ブリッコ』というロリコン誌の連載で使ったのが最初と云うのは、この本を読んで初めて知った。
 世代が近いこともあってか、宮台先生の本には中森先生の名前が時々出てくる。

Q52:占い問題
Q53:おまじない問題

 内容が似ているので、まとめて書くが、宮台先生が占いを否定せずむしろ利用していると云うのは面白かった。
「そうやって一喜一憂しているうちに人生が終わる。それもいいんじゃないでしょうか。」と切り捨てている箇所には思わず笑ってしまった。

Q59:ドラッグ禁止問題
 宮台先生は「ドラッグがいけないとされるのは近代社会の複雑なシステムを保つためだ」と解説していて、なるほどと唸らされた。
 なお、筆者がドラッグがいけないと考える理由を「脱税作用」及び「反社会的勢力への課金」と考えている。
『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』の書評で詳しく書いています。

Q62:環境保護問題
 この項目はあくまで環境問題についてだけ論じているのだが、宮台先生が「中国を説得できるロジックを提供できるか、あるいは中国に行動を変えさせるに足る報酬を彼らに約束できるか、ということにかかってきます。」と書いている。
 環境問題では中国側もそれなりに頑張っていて、宮台先生の指摘は杞憂に終わったが、それ以外の分野で宮台先生の言葉が当てはまってしまうところが奇妙である。

Q70:日本経済問題
「経済的国力の低下はこれまでの振る舞い方を変える大きなチャンスだ」と肯定しているが、この本が出てから20年以上経った現在でも、宮台先生は「加速主義」を唱えて、この論理をより先鋭化させている。

Q73:官僚問題
 政治が論じられる場合、官僚の権限が強過ぎる点を批判する人は多いが、教育に携わる宮台先生は「実は日本の官僚はまとも」で、現場の教員や親が害悪になっている点を指摘しているのが面白い。

Q74:指導者問題
 指導者よりもシステムの方が重要であることを指摘する際、北朝鮮を引き合いに出していたのが非常に分かり易かった。

Q75:犯罪件数問題
 社会学では、犯罪者が発生してそれを警察が取り締まるのが正常な状態と考えられているという教えは非常に参考になった。

Q97:小林よしのり問題
『戦争論妄想論』で宮台先生は小林よしのりにやり返しているが、この本の文章の方が表現がエグい。
 筆者にとって小林よしのり氏は右翼のおじいちゃん漫画家のイメージしかないが、当時は影響力が強かったことが見受けられる。

Q99:ニヒリスト問題
『世紀末の作法 終ワリナキ日常ヲ生キル知恵』で、宮台先生は村上春樹が書いた『ねじまき鳥クロニクル』を酷評していたが、宮台先生が村上春樹をあまり評価していない理由が、ニヒリストを肥大した自我の裏返しとしての村上春樹的「やれやれ」と紹介していることから何となく察せられる。
 また、中森明夫氏に「宮台が頑張るほど世の中悪くなるんだよ!」と言われていたことを紹介していて笑ってしまった。

 非常に楽しんで読める本なので、宮台先生初心者の方にはお勧めの一冊である。そう云えば筆者も、養老孟司先生は簡素な『バカなおとなにならない脳』から徐々に読んでいったのを思い出した。(2022年3月7日)

居場所なき時代を生きる子どもたち(1999年5月)

『居場所なき時代を生きる子どもたち』
[発行]子ども劇場全国センター出版局
[発売]学陽書房

 1998年7月21日、子ども劇場全国大会において開催されたシンポジウムをもとに作成された本であり、三沢直子先生、保坂展人先生との共著である。
 このブログは、宮台先生の書籍について詳しく書いていくページなので、他の先生達への分析や書評は若干詰めが甘くなるのはご容赦願いたい。宮台先生については多くの著作を読みたいと考えているが、他の先生達に対してまで著作物や論文を読了し、研究発表や講演の内容まで全部追えと云うのは流石に物理的に不可能だからである。

【目次】
・居場所なき子どもたちがえがく心の現実 三沢直子
・自己決定能力を育てる社会システムとは 宮台真司
・いま、子どもの声を受けとめるために  保坂展人


・居場所なき子どもたちがえがく心の現実 三沢直子
 心理カウンセラーとして各地域の母親講座などで母親のサポートを行ってきた三沢直子さんの講演を文章化した項目である。
 この本には1999年4月に「コミュニティ・カウンセリング・センター」を開設したことまでは書かれているが、その後、臨床心理学で明治大学教授を務めた。三沢先生が設立した「コミュニティ・カウンセリング・センター」の公式サイトを見ると、平成25年6月21日に総会での決議を経て、理事長が三沢直子から神村富美子に交代したと書かれている。現在でも理事に名前を連ねているが、この本が書かれた当時は48歳でも、現在は70歳を超えているので流石に体力的な面で講演活動などをやっていくのは難しいのか、近頃の目立った活動は確認することが出来なかった。
https://ccc-npnc.org/ccc/

 三沢先生は子供達に「描画テスト」を行い、1981年に書かれた絵と1997年頃に書かれた絵とでは傾向が明らかに変化していることを指摘している。
 如何せん情報が古く、2022年現在の子供達がどのような絵を描くのかは、筆者には知りようが無い。上記の「コミュニティ・カウンセリング・センター」を通じれば有益な情報が掴めるかもしれない。
 神戸連続児童殺傷事件(本文中は「神戸小学生殺人事件」)が起きた時は「あっ、やっぱり起きてしまった」と語っているが、長年研究してきた身としては当然の反応なのだろう。
 印象に残ったのは、「自己肯定で他者否定」の母親が非常に増えたことを語っていたことである。教育者の向山洋一が「モンスター・ペアレント」と名付けたのは2007年頃だから、10年のタイムラグがあるが、状況はあんまり変わらなかったようだ。「今、下手にお父さんが親をしようとすると、口うるさい母親が二人になっちゃう」と嘆いていたが、実際にその通りの現象が10年後に起こったと言えるだろう。
 また昔の母親より現在の母親の方が大変なんだと訴えるのは凄く意外で、筆者としては三沢先生の姿勢には好感を持てた。
「家庭だけでなく社会で子育てを」は、宮台先生が非難している「金の切れ目が縁の切れ目社会」を変えたいと云うのと何となくだが似ている。

 しかし宮台先生が「終わりなき日常を生きろ」で、戸塚宏や井上ひさしや養老孟司をまとめて、
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「失われてゆく母なる自然」を目の当たりにした人々から繰り出される世代的代表の、「さまざまな意匠」である。正しいとか正しくないとかいうよりも、それがその程度のものに過ぎないことは、すべての記憶がメディアに媒介されている私たちよりも下の世代にとっては自明のことである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 と切り捨てていたのを読んで筆者は爆笑してしまったのだが、三沢先生や宮台先生が求めているのも「失われてゆくコミュニティ」を目の辺りにした人々から繰り出される世代的代表の、「さまざまな意匠」なのではないかと意地悪なことを言ってしまいたくもなった。
 だが何もしないで批判ばかりしている筆者のような無能な連中が多い中、実際に自分の手でNPOを設立して活動したと云うだけで三沢先生は十分に称賛に値すると断言出来る。
 先生達は昔の日本にあった井戸端会議や村社会を復活させようとしているわけではなく、自分達で出来る違う手段で代替しようと試みているからだ。
 宮台先生もそうだが、学校で教えるだけでなく、自分から積極的に活動を行ったり、メディアに出たりしている様は本当に頭が下がる。

 そうなると、単に偉い学者の先生が書いた本を読むだけでなく、その人が如何なる活動を行ったのかも見て、総合的な判断をする必要がある。

・自己決定能力を育てる社会システムとは 宮台真司
「子供が承認される社会システム」を考えていく上で、日本社会が子どもに対してどんなとらえ方をしているのか、次に子どもをというイメージでとらえればいいのかについて語り出す。
 その手段として早くも「個人カリキュラム制の導入」を提案するのだが、これは後の方で語る通り、「競争にさらされていない教員問題」や抵抗する教職員組合の存在で、実現不能であることが容易に伺える。
 日本の自殺者の人数は「男性が女性の2倍」なのに対し、未遂を含めると逆に「女性の方が男性の2倍居る」と云う情報は、筆者も高校時代に「現代社会」で『女性の自殺者が少ないと云うのは間違い』と教えられたのをうろ覚えだが記憶していて、具体的な数字で示されて分かり易かった。
 一方、「自殺」や「自殺未遂」で検索してみると、「自殺者は男性が女性の2倍」と云うのはすぐにソースが見つかったが、「自殺未遂を含めると、女性の方が男性の2倍」と云う情報は見つけられなかった。女性の方が自殺未遂者は多いのは事実なので、講演では分かり易く伝えるために「2倍」と書いたのかもしれない。

 それよりも宮台先生の唱える「専業主婦害悪論(文中では専業主婦廃止論)」は心底賛成であり、間違いない事実を言ってくれた。
 筆者の母親も専業主婦であった。そして筆者に選択権を与えずに、筆者の着る服から何からまで何でもコントロールした。それが10代までの子供時代までなら分かるが、筆者が20代を超えても、母親は自分で選んだ服を買って筆者に着せようとした。正気の沙汰とは思えないが、まさにそのことを言い現わしていて、胸のすく思いがした。
 17歳前後(1982年〈昭和57年〉度から1986年〈昭和61年〉度生まれ)、特に1982年(昭和57年)生れと1983年(昭和58年)生れの少年凶悪犯、これと同世代の者達を「キレる17歳世代」「理由なき犯罪世代」「酒鬼薔薇世代」などと呼んだが(筆者も1986年12月31日生まれだから、超ギリギリだが酒鬼薔薇世代に含まれる)、そういう凶悪犯罪者を生み出した理由が戦後に激増した「専業主婦」が諸悪の根源だったことを指摘してくれるのは、
「宮台先生、よく言ってくれた!」
 と拍手喝采したものだ。
 ただ、惜しいのは何故「キレる17歳世代」「理由なき犯罪世代」などと誹謗中傷されてしまったのかまで言及していないことである。
 理由は簡単で、テレビは専業主婦のようなバカな女達の視聴者層を最大の顧客として重視したために非難することが出来なかったので「理由なき」と称せざるを得なかったわけだ。
 ちなみに、筆者の母親は「テレビ離れ」が言われている昨今でもテレビが未だに大好きである。
 その理由は「現実逃避したいから」だそうである。
 ところで、数年前に「わたし、専業主婦になりたい!」って考えを訴えた女性の意見が話題になったことがあった。昔はフェミニストが男女同権論や女権主義の立場から「専業主婦廃止論」を唱えたのに、働くのが嫌になって専業主婦になりたいと女の側から言い出すようになったのだから、「日本の女性も終わったな」と呆れたものだが、宮台先生はどう思っているだろう。

 ところで、宮台先生は後の本で自分達が導入した「ゆとり教育」が、何故失敗してしまったのかについても詳細に書いているが、挑戦して失敗しても戻って来られることを「ゆとり」と云ったのであって、世間一般が受け取る「甘やかし」とは随分意味が違っていることが分かる。
 当たり前だが「政治」と同じく、大半の人間にとって「教育」は、他人が行うものである。よって、この時の宮台先生が注意すべきだったことは「自分の理念が自分の意図した通りに伝わることは絶対に無い」ことだったのだと今思えば助言したくなるが、それは酷と云うものだろう。
 宮台先生の「ホームベース思想」は現在でも変わっていないが、この頃はまだ素朴に自分の理想とする教育システムが社会実装出来るんじゃないかと信じていたような気がする。
 堀江貴文さんとnewspicsで共演した時、話題にしていたのは教育システムのことではなかったが、堀江貴文さんが「でもそれを社会実装するのは」と訊いた瞬間、間髪入れずに宮台先生が「日本はもう無理だね」と即答していたが、これって宮台先生が唱えた「個人カリキュラム制の導入」が、日本の教職員組合の既得権によってつぶされた経験もあったからなんだろうなぁと知っていると違った意味合いを帯びて聴こえてくる。

・いま、子どもの声を受けとめるために  保坂展人
 保坂展人氏は現在東京都世田谷区長を務めている政治家である。この時は衆議院議員だった。世田谷区と云ったら宮台先生も住んでいる場所だと記憶しているが、それなりに頑張っているということなのだろう。
 筆者は保坂区政や衆議院議員時代に詳しくないので、保坂氏本人への言及は控えることにする。
「システムモンスター」と云うのは保坂氏と言う通りだとは思うが、その後「構造改革」と称した小泉純一郎などによって、格差社会が顕在化してますます既得権益に縋ろうとする人間が増えたことも知った状況で読んでいると「間違ってはいないんだが、能天気じゃねぇ?」とも思ってしまった。
 保坂氏はイギリスの「チャイルドライン」を紹介していて、サッチャー政権の時に日本の教育システムをイギリスに導入したら、成績不振の子どもが自殺したなんてエピソードも語っている。筆者も『治公営正の資本論』で、日本とイギリスの「逆転史観」を紹介したが、良い意味でも悪い意味でも、日英と云うのは比較し易い。

 保坂氏は学者ではないので、文章も平易で分析力の高さなどは感じられないが、現場を取材したり国会で論戦したりといった経験を実際にやってきた身だから、その情熱や行動力は本物だと思われた。

 1999年に出された本だが、コロナ以前の2020年までの学校の状況と結局はあまり変わることはなかったような気がする。
 教育を変えるってのは本当に大変なんだなぁと痛感するばかりで、あまり良い読後感ではないことは書いておく。(2022年1月15日)

戦争論妄想論(1999年7月)

『戦争論妄想論』
発行:教育資料出版会

 この本を読むには、まず小林よしのり氏の『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』を読んでおく必要がある。
 宮台先生以外の論客も多数参加しているが、この記事の「深過ぎる宮台真司を求めて……」のタイトルと乖離してしまうので、今回は宮台先生の文章だけの書評になることをご了承ください。
【目次】
はじめに――「戦争論現象」とは何だったのか
宮台真司「情の論理」を捨て、「真の論理」を構築せよ
姜尚中『戦争論』の虚妄
水木しげる[随筆コミック]カランコロン漂泊記「戦争論」
中西新太郎 現代日本の「戦争」感覚――「ゴーマニズム」に揺れるこころ
若桑みどり『ゴーマニズム宣言』を若者はどう読むか
石坂啓[漫画]ある日あの記憶を消しに(辺見庸原作『もの食う人びと』より)
沢田竜夫 人は如何にして兵士となり英雄となるか(同時代的戦争映画論)
梅野正信 戦争論言説を超えて

『戦争論妄想論』は、小林よしのり氏の『戦争論』の否定本である。
 小林よしのり氏の『戦争論』は当初凄まじい反響があったと言われているが、当時小6か中1だった筆者は、実はこの本の存在自体を知らなかった。
 幼い頃に『おぼっちゃまくん』のアニメがやっていて、それを見たことはあったが、その作者が同じ小林よしのり氏であることを知るのはかなり後になってからである。
 筆者が『戦争論』を初めて知ったのは『トンデモ本の世界R』を読んだ時である。小林よしのり氏が事実を歪曲し、多くの間違いや自分の主張に有利な説だけを採用して書かれていると紹介していた。

 筆者の場合は『トンデモ本の世界R』を読んだ後に、小林よしのり氏の『戦争論』を読んだので、小林氏の口車には乗らなかった。
 本と云うのは読んだ順番が重要で、小林よしのり氏の『戦争論』を最初に是としてしまった人は、その後どんな批判本を読もうと態度を変えることは出来ない。実際、『戦争論妄想論』も『トンデモ本の世界R』も小林よしのり氏の信者達が低評価と悪意のあるレビューを数多く載せている。
「歴史認識は宗教である」と筆者は思っている。筆者も小林よしのり氏と同様に、中国の南京大虐殺の犠牲者数水増し問題はふざけんじゃねぇってのは同じ意見なのだが、だからと云って「戦争が良かった」と云うのは全く別の話であり、この辺の歴史認識に関する議論に巻き込まれたくないと云うのが本音である。
 よって、筆者は出来る限り、公正公平中立に論じるつもりだが、小林よしのり氏の信者達には、小林よしのり氏への人格攻撃や誹謗中傷にしか読めないに違いない。何故なら洗脳されているので何を言っても無駄だからだ。

 これはと学会の山本弘氏も語っているが、『戦争論』の第一章に出てくる「自衛隊に入れば戦争の時に真っ先に戦闘機で逃げられる」と語ったタクシー運転手を「まさにこれが今の若者の平均的な意識なのだ」と決めつける、小林よしのり氏の一方的な偏見は許し難い。
 確かに小林よしのり氏にとっても印象に残る出来事だったのは分かるが、それを「若者の平均的な意識」と決め付けるのは偏見にも程がある。
 しかし「37万人の自衛官に対する侮辱だ」と『トンデモ本の世界R』で憤っている山本弘氏も、自衛隊の中で自衛官の人数が22万5000人しか居ないのに、根拠無き「37万人」の数字を持ち出している始末である。
 自衛官の人数の推移をネットで調べても、90年代に遡っても25万人を下回る人数の自衛官しか居ないことが分かる。
 退役した方や予備自衛官、防衛省(防衛庁)の職員全員の人数も足すと、もしかしたら「37万人」の数字も出て来るのかもしれないが、『トンデモ本の世界R』には「37万人の自衛官」とはっきり書かれているため、正直Amazonレビューの『と学会・山本弘会長こそナンバーワンのトンデモさんだった!』と云うのも間違いではない気がする。
「自衛官が全員、戦争がはじまったら逃げ出すつもりだとでも思っているのか?」と小林よしのり氏を批判するのは正しいが、山本弘も自衛官の人数を間違えているので、小林よしのり氏も大概だが、小林氏を批判している奴もろくな連中が居ないと云う出版業界の体たらくを感じざるを得ない。
(ちなみに、自衛官の人数22万5000人の根拠は防衛省の公式ホームページのQ&Aに載っていたので、こちらを参考にしました)

 これは宮台真司先生も本の中で書いているし、筆者も『終わりなき日常を生きろ』の中での書評でも書いたが、小林よしのり氏の『戦争論』は実際はほとんどの日本人から相手にされなかったのが真実だと思っている。
 Amazonレビューには『戦争論』を絶賛する言説が多く書かれているが、所詮「井の中の蛙大海を知らず」に過ぎない。
 最終的に90万部の売上があったとされているが、90万は日本の人口を1億人と概算すると0.9%でしかない。1億2000万で計算すると0.75%。
 要するに0.75%のこの漫画を買った稀有な人間だが大騒ぎしていただけに過ぎないと云うのが実態だと思うが、この否定本が出版されるに当たって、コーディネーターの梅野正信氏と沢田竜夫氏には相当な危機感があったのをはしがきだけで感じられる。
 宮台氏以外にこれだけの論客を揃えて反論しなければいけなかった辺り、小林よしのり氏の影響力に相当な危機感を抱いていたことは間違いないが、筆者の小林よしのり氏のイメージは「過去の右翼(笑)漫画家」でしかない。
 そういう意味で、筆者自身はかなり冷めた見方をしている。
 それは小林よしのり氏だけでなく、その信者、また小林よしのり氏を批判している連中全員に対してもだ。

宮台真司「情の論理」を捨て、「真の論理」を構築せよ

 宮台先生の記事は、1999年2月22日、渋谷ルノアールにて口述したものであることが記事の最後に書かれている。

 宮台先生は「小林よしのり氏達の戦争正当化の議論は、はっきり申し上げて、ニーチェが言う意味でのニヒリズム、あるいはたんなる無知の表れにすぎません」とバッサリ切り捨てて、「思想的に数十年以上もまえに決着した問題なので、論争に値しません」とまで言い切っている。
 この『戦争論妄想論』の問題点だと思うのだが、「論争にも値しない」と考えている宮台先生を論争に参加させていることである。
 筆者も宮台先生と同意見なのだが、「論争に値しない」と考える人を無理矢理「論争に参加させた」せいで、宮台先生の文章からテンションの高さを感じない。当時どんな気持ちでインタビューを受けていたのか、宮台先生に直接聞いてみたい。
『ツゥラトゥストラ』『善悪の彼岸』『道徳の系譜』『キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』』など、ニーチェの哲学を読み込んできた筆者の場合、ニーチェを引き合いに出す宮台先生の言説はニーチェ思想の復習と云った感じで親しみやすかったが、インタビューを受けている当人は「何を今更……」と言った感じだったかもしれない。
 宮台先生は小林よしのり氏の過去の著作やテレビ出演での発言などを引用して、小林よしのり氏の発言が矛盾に満ちていることを「コインの表裏」に例えているが、『アンチクリスト』を書いたニーチェを引き合いに出す宮台真司先生が、結婚を機にクリスチャンになったのも奇妙な話にも感じるが、宮台先生はあくまでもニーチェ思想の正しいと思った部分だけを引用して、ニーチェの信奉者というわけではないのだろう。現に宮台先生は小室直樹先生が師匠だったことを公言するが、小室先生の主義主張に全て同意しているわけではないことも明かしている。
 小林よしのり氏の主張が、元陸軍軍人の高村武人の影響に由るものが凄く大きいことからも分かるように、師と仰ぐ者が何者なのかが、本人の言説に凄く影響するのがよく分かる。

 しかし、小林よしのり氏の「『戦争論』が天皇に言及しないのは無知」と云うのは、かなり痛烈な批判だったと思われる。『戦争論』のWikipediaには「作者一流の圧倒的な迫力と説得力もあり」と書かれているが、「迫力」は否定しないが「説得力」は皆無である。その意味では、Wikipediaの紹介文は明らかに中立的ではない。「説得力の有無」は読者の判断に由るものだ。

 また、「なぜ日の丸・君が代は無内容なのか」に至っては、ネット右翼は精神衛生上読まないことをおススメする項目である。
「日の丸」は世界中の何処にでも存在する太陽神信仰の産物に過ぎず、国民意識とは無関係の産物に過ぎなかった。
「君が代」は作曲者が林廣守、奥好義と紹介されているが、初代「君が代」は、イギリス陸軍軍楽隊長J. W. フェントン (John William Fenton, 1831-1890) に作曲されたことが防衛省の公式ホームページに書かれている。何故なら日本に国歌が無いことを嘆いて作曲されたからである。
 またドイツ人のF. エッケルト (Franz Eckert, 1852-1916) によって吹奏楽用に編曲されたことも史実であり、外国人が創った国歌を「日本の伝統」だと右翼は有難がっているというお始末なのだ。
 日本の国旗や国歌も明治以降に整備されたものに過ぎず、「愛国心」って概念自体が明治以降の新しいものでしかない。
 そのことも知らずに「アメリカには歴史が無い」などと宣うネット右翼が何と多いことか。
 しかし左翼も頭がおかしい連中なのは間違いないので、普通の人間は結局政治的に「右」にも「左」にもならないんじゃないだろうか。その辺は宮台先生より、堀江貴文氏の動画に出演した佐々木俊尚氏が「左派メディアを叩いているのは右翼ではない」「左派vsリアリズムのメディア対立構造」の分析が鋭い。

 小林よしのり氏の『戦争論』が「たかがマンガ」だったからこそ成功したと云う宮台先生の分析も鋭く、ほとんど結論を出してしまった印象だ。
 難しい文章を読めない、マンガぐらいしか読めない知性の低い人達が小林よしのり氏に洗脳されてしまった、つまり「たかがマンガ」だったからこそ『戦争論』は支持されたと結んでいる。
 ならば本当に小林よしのり氏の『戦争論』を否定したいのであれば、文章ではなく同じマンガで対抗すべきだったのかもしれない。
 そういう意味で石坂啓氏がマンガを載せて対抗しているのだが、『戦争論妄想論』も全編マンガで押し通して対抗する必要があったのかもしれない。その意味で小林よしのり氏の『戦争論』には勝てなかったのである。だってマンガしか読めないような知性の低い連中しか『戦争論』を支持していないのに、そこに「知性」で勝利しようとするのは話が違うからである。

「戦争論の議論を見ると「右」も「左」も、情緒が論理の代替物として幅を利かせています」と語り、豊かな知性と結びついた「真の論理」を構築せよと語っているが、これは「戦争論の議論」に限らずインターネットでも度々起こり得る、さまざまな論争に言い得て妙である。
 しかし、情緒に支配されている『戦争論』や小林よしのり氏の信者達を、「真の論理」を以って説得することは不可能である。
「バカ」と断じて見捨てるのが一番良い処方箋のような気がする。たぶん、筆者が宮台先生と違って社会学者ではないからだろう。
(2022年2月16日)

総特集 寺山修司 増補新版(2003年3月)

『総特集 寺山修司 増補新版 いまこそ、新たな読者のために(文藝別冊)』
 発行は河出書房新社。

 厳密には宮台真司先生の書籍ではないが、宮台先生が寺山修司について、『自由になりたければ、不自由になれ』のタイトルで解説している。
 また、増補新版初版は2019年6月30日発行だが、初版は2003年3月30日発行と書かれている。
 増補ではない初版本が手に入らなかったので推測で書くしかないが、宮台先生の解説は内容から時期を察して2003年版に載っていたと思われるので、日付の方は2003年3月として記事を書かせてもらった。

 若かりし日の作家志望の筆者にとって、寺山修司のイメージはあまり良くなかった。
 何故なら、筆者が寺山修司を理解していなかったからである。
 有名な『書を捨てよ、町へ出よう』を書いたことなら知っていて、「書を書いている人間が、どうして書を捨てよと説くんだ?」と疑問を感じざるを得なかった。
 また、同じ理由で「現実は小説より奇なり」を言い出したイギリスの詩人バイロンも好きではなかった。

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 筆者が寺山修司に触れようと思った切っ掛けは、2018年10月に満を持して発売した電子書籍『ライトニングヴァンパイア』が全く売れず(計算したら発売から2年で162円しか印税が入らなかった)、作品、そして何より筆者の筆力そのものをレベルアップさせる必要があると判断したからである。
『オデュッセイア』だけでなくてジョイスの『ユリシーズ』を読破したり、バイロンの「現実は小説より奇なり」の出典元である『ドン・ジュアン』を読むに至ったのも、筆者がプロとして通用するために必要な蓄積が圧倒的に足りないことを痛感したからに他ならない。

 自分では大傑作を書いたと思い上がっていた筆者が『ドン・ジュアン』を読んで、「現実は小説より奇なり」は「事実はフィクションより奇なり」の変遷であり、本来はフィクションである自分の詩を現実と称し、「俺の詩が一番面白いんだ」と云う自負が書かせた台詞だと知った時、広く一般に使われる「現実は小説より奇なり」とは随分異なる文脈であることを知った時、自分の思い込みや第一印象を疑うことの大切さに気付かされたものである。

 そういう中、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』も本当にそのままの意味なのか、それとも違う意図が込められているのかを確認する必要があると考えて、筆者は『書を捨てよ、町へ出よう』を買って読んだ。
 結論としては、寺山修司は『書を捨てよ、町へ出よう』の中で「書を捨てよ、町へ出よう」とは書いていない。それどころか、この本を実際に読んでみると、逆に「書を捨てるな! 町へ出るな!」と訴えているように読めてしまう。寺山の意図とは逆だろうが、「町へ出たら、碌な連中が居ない」と警告しているかのような内容で、この本のタイトルは逆説なんじゃないかと思ったほどである。

 宮台先生も同じことを書いていた。映画『消しゴム』を紹介して「記憶が人を不自由にする」が、「記憶を消しちゃうと、自分は何者だかわかんなくなって、不自由になっちゃう」とパラドックスや、不自由の象徴である制服を着る女子高生達が自由に飛躍するなど、両義的で一見すると矛盾しているように見える寺山修司の魅力を語っている。
『家出のすすめ』を書いた寺山修司が実は家出未経験者であった事実というのも笑える話である。
 そう考えると、『書を捨てよ、町へ出よう』も実は宮台先生が言うような両義的な意味が含まれているのかもしれない。書籍の中に「書を捨てよ」と書かれている矛盾、この面白さと魅力である。
 寺山はこの矛盾の魅力を書の中で発見していた。
『総特集 寺山修司 増補新版』を読むと、「書を捨てよ、町へ出よう」のタイトルは、アンドレ・ジッドの『知の糧』からの借用であると載っている。これを知っているのと知らないのとでは、寺山の評価や考え方が随分と変わるに違いない。
 その意味にしても橋本治氏は「この書を持ちて、その町を捨てよ」と解釈しているが、白石征氏は「学者や詩人の秩序化した書物的思考を徹底的に批判した」と書いている。筆者は正直『書を捨てよ、町へ出よう』を読んで、白石氏のように解釈出来なかったが、この考えを知ってから読み直したら、同じように思えるかも分からない。

 ところで、寺山修司の死去後、劇団『天井桟敷』は無くなってしまった。なんとも残念な話だが、寺山の死後、日本は80年代のバブル的な価値観に染まっていくことになる。より商業的となった『劇団四季』が現在でも生き残っていると云うのは時代の皮肉である。
 村上龍氏は『13歳のハローワーク』の「劇団員」の項目で「先鋭的で実験的な小規模の演劇というのは、基本的に近代化途上・激動期の社会のもので、成熟期においては不要となる。成熟期の演劇は、より洗練され、商業的なものにならざるを得ない。現代社会は、先鋭的な演劇を基本的に必要としていない。」と断言している。
 60年代終わりから始まったハリウッド「アメリカン・ニューシネマ」が70年代後半で終わり、80年代からはハッピーエンド一辺倒の娯楽映画の時代になったが、寺山修司の生きた演劇の世界も何となく似ている。
 寺山修司は80年代初頭に40代で死んだからこそ伝説になったが、もし病気にならず長生きしていたら、必要とされない人間になっていた可能性は否定できない。大量消費社会の中では、寺山修司も「ワンオブゼム」でしかなくなってしまうからだ。
 戦争を経験しているので、何とも言えないが、良い時代に生まれて、良い時代に死んでいったからこそ、寺山修司は伝説の存在として、今もファンを魅了し続けているのかもしれない。(2022年3月3日)

亜細亜主義の顛末に学べ(2004年9月)

 『亜細亜主義の顛末に学べ 宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス(実践社)』

 Amazonのレビューだとかなり評価の低い書籍である。
 本書の評価が低いのは内容の是非というよりも許容範囲を超えるレベルの「繰り返しの多さ」と指摘する人もいるが、そもそも5本の講演内容をそのまま書籍化しただけと云うことを考えると、内容の重複が起こるのは当たり前であって、また、講演が行われた時代背景も知る必要がある。

 しかし、確かに編集に問題があるのは事実で、筆者はそれほど注釈が必要とは考えないが(分からない単語があれば自分で調べるから)、短くてすらすら読める分には時間が掛からなくて良かったが、物足りないのも事実だ。

【目次】
1 アメリカに従属する日本に未来はない(2002年7月大手町JAホール)
2 米国中心のグローバライゼーションに抗う為の知恵(2002年12月東京・社会文化会館)
3 ネオコンの正体は文化的多元主義者(2003年7月 東京・社会文化会館)
4「気分はナショナリズム」という売国(2003年9月 北海道大学・クラーク会館大講堂)
5 学校の外に価値を見つけだせ(2001年5月 代々木オリンピック・センター)
巻末インタビュー 近代には近代で抗おう

1 アメリカに従属する日本に未来はない
 この六章構成なのだが、5章目を除くと、1~4章目は2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロの後である。
 宮台先生はかなりアメリカを罵っているが、筆者の記憶では、日本のメディアがアメリカに批判的報道をほとんど行っていなかったと記憶している。9.11テロが起こったことで犠牲者も出たのだから、アメリカのアフガニスタン侵攻はほとんど「仕方ねぇな」と云った感じの空気感に支配されていた。その後のイラク戦争に至ってはタリバンとは全く関係無かったのだが、何の疑問も抱かれぬまま、ほとんど半自動的に行われていった印象がある。
 この当時は知らなかったが、その後「TOKYO MXテレビ」でやっていた「松嶋×町山 未公開映画を観るテレビ」で『アウトフォックスト』と云うアメリカのプロパガンダ放送局「FOXニュース」の実態が紹介され、イラク戦争はメディア王ルパート・マードックがメディアを通じて扇動したことを陰謀論ではなくまさかの本人が認めている。メディアの横暴ぶりは洋の東西を問わず変わらないが、アメリカ本国では日本を遥かに超える形で傍若無人ぶりを発揮していたのを知って驚かされた。

 日本では小泉純一郎がその高い支持率の下、竹中平蔵によって労働者派遣の規制改革が行われて、急激に非正規雇用労働者が増えて現在の格差社会の(悪い意味での)礎を築き上げてしまったが、アメリカのアフガン侵攻とも似ていて、いつの間にか勢いに押されて緩和されていったような気がする。
 正社員の解雇規制を失くさなければ、この規制緩和は何の意味も無いが、「日本人のお祭り体質」や「健忘症」「忘却癖」のせいか放置されたままの状態である。
 アメリカと云う国を本来はもっと警戒しなければならないのだが、現在は中国とい云うもっと警戒しなければならない国が出て来てしまったせいで、「アメリカに従属するな」と云う意見だけでは、現代の視点から読むとやや単調で物足りない印象も受ける。

2 米国中心のグローバライゼーションに抗う為の知恵

 書かれた時代が違うので、仕方が無いのだが、「アメリカの暴走」よりも「中国の暴走」の方が厄介に感じられる時代になったので、米国一極集中の問題点を指摘するのは、そりゃ分かるのだが、現代はユニクロなど中国にもビジネスを大きく依存する日系企業まで出現したせいで、人権問題に対して歯切れが悪く、公明党も「中国との国交正常化は池田大作の功績」と云った創価学会の認識に泥を塗るわけにはいかないので親中派にならざるを得ず、そんな公明党に協力してもらって選挙に勝っている自民党議員も多い結果、中国に対して強く非難出来なくなってしまっている。
 国際情勢は複雑怪奇化していて、この本が書かれたアメリカだけに依存していた状況の方が二項対立的で図式が分かり易かった。
 結局、アメリカ一極集中ではなくなったが、今度は中国にも集中する者が増えてしまったせいで、右にも左にも動けなくなってしまった八方塞がりな状況に陥っている。

 しかも現在はあくまでアメリカ一極集中ではなくなっただけで、アメリカ依存型の経済構造が何も変わっていない

 WiLL増刊号の【株価急落】米国「バブル崩壊」へのカウントダウンの動画を載せたが、アメリカのバブルがもうすぐ崩壊するんじゃないかと言われていて警戒している。まだバブルと決まったわけでもないし、崩壊されないとバブルだったと定義出来ないので、WiLL増刊号の指摘は早足な気もするが、日本のバブル崩壊と似ているという指摘や分析は確かにその通りだ。

 アメリカ経済が崩壊することを日本経済が警戒しなければならない状況、これ自体が本来おかしい。アメリカで何かが起きて、その影響をもろに日本が受ける図式はリーマン・ショックと変わっていない。
 10年おきにアメリカ経済が崩壊しその影響を何故、日本が毎度毎度受けなければならないのか。その不条理を何とかして欲しいものだ。
 1929年の世界恐慌のGDP推定15%減少のレベルなら影響を避けられないのも仕方ないが、リーマンショックのGDP推定減少は1%未満だった。
 これにまたミーム株のバブルが崩壊などと云われたら、たまったものでは無い。ただでさえ円安でガソリン高に苦しめられているのに、その後、株の暴落の影響を受ける可能性まであるというのだから、宮台先生の言う通り、米国中心のグローバライゼーションに抗いたいが、現代は『米中中心のグローバライゼーション』になってしまったから、状況がカオス化している。

 現在の宮台先生なら、『米中中心のグローバライゼーションに抗う』って題名を付けそうな気がする。

3 ネオコンの正体は文化的多元主義者
 ネオコンとは新保守主義(Neoconservatism、ネオコンサバティズム)の略だが、筆者は共和党のイメージがあった。
 ところがWikipediaの前文に民主党のリベラルホークから発展したと書かれていて、意外な印象を受けた。宮台先生の本でもネオコンの源流はネオ・リベラリズムと紹介している。

 宮台先生は、2003年の長崎男児誘拐殺人事件を引き合いに出したり、ネオコンが人々のセキュリティ不安に媚びて、断固たる「法的意志の貫徹」ばかり主張することを指摘し、反米テロの土壌を耕すと警告を発している。何となく『ウルトラセブン』の「超兵器R1号」を連想させる。
 筆者の書いた『抹察官』も実はそういう話である。
 犯罪者が凶悪化したことで、「基本的人権を抹消する」抹察官を設立するという違憲行為を国が堂々と行っているデストピアSFだが、登場人物達は殺人犯の人権を抹消することに誰も何の疑いも抱いていない。
 刑罰を厳しくすればするほど、テロリストの犯行も過激になっていく様を描いたが、書いている当人は「『デスノート』のアクションドラマ化」くらいにしか意識していなかった。今回、宮台先生のこの本を読んで、「俺ってネオコンだったのか?」と気付かされる。筆者はどちらかと云うとアメリカ民主党寄りで、共和党には抵抗があったのだが、自分の思想が共和党寄りと思い知らされるのは妙なところがあった。
 しかし、ISIL(イスラム国)を崩壊させたのは「法的意志の貫徹」に間違いはなく、指導者バグダーディー殺害を果たしたのが2019年。
 2020年から発生したコロナ禍はどうやって乗り越えるのだろうか。
「法的意志の貫徹」だけじゃどうにもならないのは事実である。

4「気分はナショナリズム」という売国
 何故、「日本は凄い」と自称愛国者達は言うのかといったら、もはや国籍とか人種とか民族ぐらいしかその人に「過剰流動性」に抗う思想が無いからである。
「あなたの代わりはいくらでも居る」その絶対的事実に対して、自己確立で反論するためには「自分は日本人だ」「日本は凄い」「日本人に生まれて誇りに思う」などと訴えることぐらい出来ない。

「表現」と「表出」は違うと云うのは、他の書籍でも宮台先生が述べられているが、北朝鮮に核のカードを切られてしまった現在は、拉致問題は暗礁に乗り上げてしまったと断言しても良い。
 自分の言いたいことを言って気持ち良くなったって事態は何も解決せず、ただ相手に無視されるようになって終わるだけだが、国家間に留まらず、そういう人って近頃は凄く増えている気がする。

5 学校の外に価値を見つけだせ

 筆者は「終わりなき日常を生きろ」の書評の中で、宮台先生が「違う」に敏感で、筆者は「同じ」と考えてしまうことを紹介したが、宮台先生が自称する「リベラリズム」も、世間一般のそれや右傾化している人が考えているリベラルとはだいぶ異なっていることがよく分かった章である。
 宮台先生は「さまざまなものの違い」を分析出来るから、リベラルを自称出来るのだろうが、最近のリベラリストは自分は保守と言い出したりして、単なるポジションの取り合いにしかなっていない気がする。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 でも今の高校生・大学生は厳しいですね。「いい大学」や「いい企業」に入れば幸せになれるんじゃないかとか思う救いようがない学生が、まだ多いからです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 この話を披露した2001年5月、筆者は既に高校生になっていた。
「いい大学」や「いい企業」に入れば幸せになれると思ったことは一度も無いが、『治公営正の資本論』で「治公営正に入れ」と書いた筆者は、宮台先生にとって「厳しい学生」だったのかと思うと、切なくもなった。
(2022年2月2日)

14歳からの社会学(2008年11月)

『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』
単行本は世界文化社で初版発行日は2008年11月25日と書かれている。
 しかし、宮台先生の公式ブログには次のように紹介されている。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=676
●定価:1,365円(税込)
●仕様:四六判、ソフトカバー、232ページ
●発売:世界文化社(http://www.sekaibunka.com/
●発売日:11月10日(地域によって、店頭に届くまでに2〜3日かかることがあります)
 なお、文庫本はちくま文庫(筑摩書房)から2013年に出ている。

 あとがきに、「ずいぶん前から中学生向けの本を書くようにいろいろな人からいわれて」いたが気が向かなくてやってこなかったが、親友の岡田知也さんに言われて急にやってみたいと思って書いたらしい。
(宮台先生に行動を起こすとは一体何者なんだ!?)
 と思って検索してみたら、宮台先生の公式ブログに世界文化社の編集者と紹介されていて謎はすぐに氷解した。「ホテルに缶詰めになって書いた甲斐があった」と書かれている通り、当時7万部売れたベストセラーになったり、数多くのイベントが企画されたりしたことがブログで確認出来る。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=684

 タイトルに「14歳」が入っているが、宮台先生自身がイベントに訪れた14歳の中学生に「14歳だと、けっこう難しかったでしょう?」と訊き、「いいえ、そんなことはなかったです」と返されたやり取りをブログで紹介している。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=689
 当時14歳の中学生でも現在(2022年1月1日)は27歳になっているが、決して背伸びして答えたわけではないと思う。
 それよりも、あの宮台先生でも自身の書籍が難解ではないか? と疑問に思いながら、「試行錯誤」を繰り返していたことを指摘するべきだろう。
 さすがに14年も経つと例に出される「テレビのチャンネル」の話とか、映画のタイトルを見ても時代性を感じるようになったが、当時はこういった話の仕方で通用したのは間違いないわけで、貴重な資料と云える。

【 目次 】
 まえがき   これからの社会を生きる君に
1. 【自分】と【他人】    …「みんな仲よし」じゃ生きられない
2. 【社会】と【ルール】   …「決まりごと」ってなんであるんだ?
3. 【こころ】と【からだ】 …「恋愛」と「性」について考えよう
4. 【理想】と【現実】    …君が将来就く「仕事」と「生活」について
5. 【本物】と【ニセ物】   …「本物」と「ニセ物」を見わける力をつける
6. 【生】と【死】     …「死」ってどういうこと?「生きる」って?
7. 【自由】への挑戦     …本当の「自由」は手に入るか?
8.  BOOK&MOVIEガイド  …SF作品を「社会学」する
あとがき   いま〈世界〉にたたずんでいるかもしれない君に
用語集  この本をより深く読むためのノート

1. 【自分】と【他人】    …「みんな仲よし」じゃ生きられない
 宮台先生は「みんな」をキーワードにして解説を始めていたが、筆者の中で「みんな」は同調を強いる人間がこぞって使う言葉という認識があるので次のような痴話ゲンカに持ち込むことがある。
「みんなこう思っているんだよ」みたいに言った奴に対して「みんなって誰だよ?」「俺が入っていないのに「みんな」って嘘吐くんじゃねぇ」などと筆者は言い返すわけだ。相手は途端に黙ったり、逆に火に油を注ぐ形で逆上されたり、誰かが相手を擁護して筆者が追い詰められたり、逆に筆者に加勢する者が現れたりと、まぁ色んな反応を見てきたが、「みんな仲よし」じゃ生きられないと云うのは事実である。
 社会に出ると、その人に何か悪いことをしたわけでもないにも関わらず、何故か最初からこちらを嫌ってくる連中に何人も出くわす。
 宮台先生はこの本を書いたように「試行錯誤」の大切さを説いている。
 宮台先生が提示したのは、次のようなクリーンなサイクルだ。
①「試行錯誤」する(自由)⇒②他者が認める(承認)⇒③失敗しても大丈夫(尊厳)⇒①に戻る
 宮台先生の考えに反論しないし、筆者もそうあることが理想だと思うが、逆のパターンも想起したのは事実である。つまり、
①失敗が許されない(過酷)⇒②「試行錯誤」出来ない(無難)⇒③他者に認められない(現実)⇒①に戻る。
 ()内のワードはもっと適切な表現があると思うが、宮台先生が14歳に敢えて教えなかった『衰退のサイクル』の方が現実の社会には多い。

2. 【社会】と【ルール】   …「決まりごと」ってなんであるんだ?
 筆者が気になった箇所は「マナー違反が注意できないわけ」である。
 別に宮台先生にモノ申したいわけでもなければ、論旨の補強も出来ない。むしろほとんど脱線気味の話しか書けないが。

 この本が出された9年後の2017年、パーキングエリアで所定の駐車場所以外に車を停めていたことを注意されたのに逆上した犯人があおり運転で注意した夫婦の車を追いかけて死亡事故にも発展した「東名あおり運転事故」が発生している。
 この本が出された13年後の2021年には、新型コロナウイルス禍でマスクの未着用を注意したことで暴行を受け、下半身不随の後遺症を負った事件まで発生している。
 まさに「触らぬ神に祟りなし」だが、マナー違反を注意したら殺されたり半身不随に追い込まれたりする事態に巻き込まれるなら、マナー違反を注意するなんて「命懸け」を超えて「命知らず」な愚考かも分からない。

 しかし、マナー違反を注意される機会は意外とあったように筆者は思う。例えば満員電車に荷物を多く持ち込んでいた時に荷物の持ち方を注意されたり、イヤホンで音楽を聴いていたら音漏れを注意されたり、赤の他人に注意されると云うのは意外と記憶に残る出来事だ。
 ただ、このようなマナー違反を注意されたのは筆者が未成年だった時で、年長者も比較的注意し易かったのかもしれない。
 事件化した例を二つ紹介したが、実際はマナー違反を注意されても適当に対応して直したり、テキトーにやり過ごしたりする人が多いはずである。
 そもそも、凶悪な殺人事件や暴行事件の数は昭和時代の方が遥かに多かったわけで、宮台先生は各所で統計から物事を考える大切さを唱えているが、裁判所でマナー違反を注意して暴行を受けたような事件の判例を調べて統計化したら、何も現代だけの話ではなかったことが判明するかもしれないが、さすがに現状の筆者にそこまで徹底的に調査する力は無い。

 道を歩いていると見掛ける、歩きタバコや自転車に乗りながら煙草を吸う連中は総じて男で、あからさまに悪びれていて、むしろ注意しようもんならケンカも辞さないような態度を取っている不良が多い。これはマナー違反を超えた法令違反なんだが、本人達も法に触れていることを認知しているから「口出しするんじゃねぇ!」って態度を表に出さざるを得ないのだろうか。

 注意する側は改善してくれることを期待して注意するのだが、宮台先生はどう考えているのだろう。バカほど「それ、意味ありますか」と問うてくると宮台先生は指摘するが、「マナー違反」についてだけで一冊の本を書かせたらどんなことを書いてくれるか楽しみではある。

3. 【こころ】と【からだ】 …「恋愛」と「性」について考えよう
 此処は実際の本を手に取って読んで欲しいので、内容について詳細に書くのは控える。
 ただ、作家志望の筆者としては当時流行していたケータイ小説『恋空』について語っている箇所がやはり見逃せない。

 宮台先生は『恋空』のストーリーについて触れていて、その厳しい指摘は尽く「仰る通り!」と太鼓持ちになるしかないが、一方『恋空』が一時だけとは云え時代を掴んだのは間違いの無い事実である。現在は地位が向上したユーチューバーなどもほとんどが良い時代に始めただけに過ぎず、テレビのバラエティ番組の真似でしかない他愛のないことしかやっていないのだが、それらと比べると『恋空』の方が映画やドラマを創らせた分だけマシな気もしてしまうのは、筆者が小説家志望だから贔屓目に見ているのだろうか。
 それより宮台先生が全く語っていない映画版ヒロインを務めた新垣結衣について語りたいことが多い。
 筆者は新垣結衣を「我が人生の宿敵」と認識していた。新垣結衣に恨みは無いのだが、世間が彼女の愛らしいルックスを褒めて支持するほど、筆者は「ルッキズムの権化」として嫌厭してきた女優だった。「ルッキズム」と云う言葉を知らなかった時は「唯美主義」と筆者は言っていた。「逃げるは恥だが役に立つ」も「ガッキー可愛い」と云ったような彼女の美貌を絶賛する意見をヤフコメやTwitterなどであまりにも多く見たせいで却って見たくなくなってリアルタイムで視聴しなかったくらいだ。実際「逃げ恥」には「可愛いは最強」って台詞を新垣結衣が言うため、リアルタイムで視聴していたら「カワイイ至上主義の悪の権化」と筆者は怒り狂っていただろう。
 アイドルオタクで元々は新垣結衣のファンだった男が大雪に巻き込まれて死ぬ話を、筆者もエブリスタで書いたことがあるが、新垣結衣の存在に強い警戒感を抱いていたからである。

 そんな「宿敵」新垣結衣だが、こんなことを書くのは敵に塩を送るようで意外に思われるかもしれないが、彼女は同世代の女優達と比べると演技力は最初から優れていたことを、筆者は後に知ることになる。
 監督の田崎竜太目当てで視聴したテレビドラマ「Sh15uya」に新垣結衣が出演していたのである。実は彼女が出演していたことを知らなかったのだ。知っていたら視なかったかもしれない。果たして新垣結衣はドラマ出演者の中で一番演技が上手かった。この作品を視たのは放送されていた頃よりもかなり後だったのだが、弱冠16歳にして、ちゃんと台詞が言えていることに感心した。20歳ハタチ過ぎた他の俳優達が素人目に見ても下手なのが分かるのに対して、新垣結衣の芝居は立派であり、彼女が売れたことはルックスが優れていただけではなかったことを知ったのである。

 しかしインターネットを見ると、新垣結衣のファン達は相変わらず彼女の容姿ばかり褒め称えるばかりだから、「彼女の芝居を本当に見たことがあるのだろうか?」と首を傾げるばかりなのは変わらず、やがて筆者が敵視するべきは新垣結衣本人ではなく、彼女の美を称える連中じゃないかと考え方を変えるようになる。
 東京ヤクルトスワローズの高橋圭二選手が何かと愛妻の板野友美について訊いて来るマスコミに嫌気が差した話はプロ野球ファンの間では有名だが、メディアが若い女の美貌にばかり取り上げる様を本当なら疑うべきなのかもしれない。
 そう云えば某スポーツ新聞社でバイトしていた時、「俺が一生懸命記事を書くより、水着の姉ちゃんの写真を載せた方がアクセスが集まるんだよな」などと愚痴っていた社員が居たのを思い出す。

 そして新垣結衣が結婚した際、あのメンタリストDaigoがヤケ酒した時はホームレス差別発言をした時よりも無様に見えたものだが、実は筆者も昔は堀北真希のファンだったことがある。山本耕史さんと結婚した時は、筆者はかなり強いショックを受けて3日間食事が喉を通らず、友達にメールでどうしたら良いか相談したり、普段大して連絡など取り合っていないのに筆者が堀北真希のファンと知っていた母親が心配してメッセージを送ってきたり、随分と無様な醜態を晒していた。やがて筆者は立ち直ると、買い集めていた堀北真希が載った雑誌を全て紙ゴミで処分し、写真集はブックオフへと売り払った。人によってはこちらの行動を批判してくるかもしれない。
 今なら分かる。自分こそ、まさに今まで自分が毛嫌いしてきた新垣結衣のファンのような自分の人生に全く関係無い女に本気で恋をするような愚かな「ルッキズムの奴隷」だったのだ。
 その経験を筆者は新垣結衣が結婚する6年前にしていたので、北川景子や石原さとみなどが結婚しようが「だから何?」と日経平均株価よりも平然な態度が取れるようになっていた。
 さて、批判されがちなマスコミの芸能人の交際報道を筆者は必要なものと考えている。本気で恋してしまった愚かなファンに芸能人なんて所詮バーチャルな存在でしかないと教える機能が芸能マスコミに有ると思えるからだ。ショックを受けるファンは多いが、大人になるための通過儀礼とでも考えた方が良いだろう。
 ところで、交際報道にショックを受けたアイドルオタクの男が好きだったアイドルにそっくりの人形を製造してもらって結婚式を開いたって話の小説『蝉人形工業株式会社のホームページ』を執筆して送ったら、エブリスタの「妄想コンテスト」で佳作に選ばれたことがある。

 宮台先生は本の中で「ゲームの中の女の子」にハマる男を取り上げたが、芸能人やアイドルのファン達をもっと否定的に扱って良い気がした。

4. 【理想】と【現実】    …君が将来就く「仕事」と「生活」について

 宮台先生が『14歳の社会学』で対抗心を燃やしていたことが明らかになるのが村上龍先生の『13歳のハローワーク』である。
 村上龍先生と宮台真司先生の考え方が全く違うことを証明する章と云った感じである。

 宮台先生は「日本人は仕事に対して期待しすぎ」「日本人の仕事観の歴史的な背景」「仕事に対して引いた見方が必要」「起業が若い人をあおり立てている」「「仕事で自己実現」の考えを捨てろ」「君に向いた仕事なんてあるの?」「アイドルファンの生き方に学ぶ」「〈仕事〉が〈生活〉じゃない」「収入は少なくてもしょうがない」などなど、「仕事」に対して否定的とまでは言わないが、かなり冷めた視点から分析していることが分かる。

 村上龍先生はエッセイ集『無趣味のすすめ』を出したくらいで、そこには「仕事」の中にこそ真の達成感や充実感があり、多大なコストとリスクと危機感を伴い、常に失意や絶望と隣り合わせに存在していると語っていた。 
 この言葉は村上龍先生にとって、有利にも不利にも働く。
「新説『ユリシーズ』は『オデュッセイア』の順番通りにも読める!」で、筆者は、村上龍先生が実際に起こしてしまった『芥川賞で起きた「信用できない語り手」事件』に触れた。この事件は村上龍先生がご自身で書いていた『多大なコストとリスクと危機感を伴い、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している』を図らずも証明してしまった「仕事」と云える。

 アイドルオタクを引き合いに出す宮台先生に対し、『無趣味のすすめ』を書く村上龍先生と云うのはかなり対照的と云えるだろう。
 ただ、宮台先生も村上龍先生の意見に真っ向から対立したいわけでもなく「引いた見方ができないとマズイと思う」と書いていた。
 宮台先生は『13歳のハローワーク』の問題点として「自分には向いた仕事があって、仕事は生きがいや充実感をあたえてくれる」と期待しすぎる若い人も増えたことを挙げている。
 この章の最後の方には「ごくラッキーな人だけが、仕事の領域で「願望水準」を維持できる。つまり仕事に「生きがい」を求めることが許される。「仕事での自己実現」を追求できる。いいかえれば仕事を「恋人」にできる。でも、いまの君は、仕事に「恋」することを求めちゃいけない。」とも書いている。
 村上龍は「ごくラッキーな人」に過ぎない、「それ以外の人物を見過ごしていませんか?」と宮台先生は指摘しているわけだ。この辺は村上龍先生も芥川賞第150回記念大特集で宮本輝先生と対談した際、「でも選考委員になって初めて気付きましたけど、一回目でとることができて本当に運が良かったと思います」と発言しているので、ご本人も分かっていることだが。
 宮台先生はブルセラ、援助交際、オウム真理教など、なかなか論じるのも憚られる場に率先して取材に出掛けて多くの人々に出会ってきた。
 一方の村上龍先生は人気ベストセラー作家としてテレビ番組『日経スペシャル カンブリア宮殿 〜村上龍の経済トークライブ〜』で、多くの経営者や成功者達にインタビューしていく人である。
『限りなく透明に近いブルー』で退廃世界を描いていた村上龍先生だから、宮台先生が取材してきたような世界を知らないわけではない。しかしそれは若い頃の話で、現在は無名の一般人が簡単に近付けるような存在ではない。
 宮台先生も村上龍先生以上にトップレベルの経営者や成功者達と交わっており、そうした世界があることもよくご存知である。しかし社会学者と云う肩書を名乗る以上、客観的に分析しようと努めているはずだ。
 別に「村上龍先生は主観的だからダメ」「宮台先生は客観的だからOK」というわけではない。宮台先生は学者以上のことは出来ない。村上龍先生のように自分の作品を創造する行為についてはまず敵わない。
 あくまでも「生き方や考え方が違い過ぎる」ということである。サンデー毎日で過去に「援助交際に走る女子高生たち」について二人は対談したが、もう25年も前のことなので、今ではだいぶ印象も違うだろう。

 そう考えると、村上龍先生の『13歳のハローワーク』は「多くの人々がこうあって欲しい」という「理想」を扱っているのに対し、宮台真司先生の『14歳の社会学』は「多くの人々がこうなるよね」という「現実」を取り上げていたように思える。
 筆者は、どちらも真実だと思う。
 理想は村上龍先生のような「仕事」を生きがいに出来る人になりたい。
 ただ、そのようになれなかった際、宮台先生の考えに生きる希望を貰える気がして、筆者自身の尊厳が救われるのも事実である。

5. 【本物】と【ニセ物】   …「本物」と「ニセ物」を見わける力をつける

 筆者が小説家志望になった原因は、中学生の頃にテレビ放送されていた「ファイトクラブ」を見てビックリしたからである。その後、「ファイトクラブ」を忘れることが出来ず、DVDを借りて何回も見ると、原作の小説をネット注文で買って読んだら、小説は映画よりもぶっ飛んだ内容で驚愕し、「俺もこんな小説を書いてみたい!」と思うようになると作家志望になってしまい、トンデモない人生の遠回りを強いられることになった。
 この辺は筆者の記憶が改竄されている。筆者は、ハッキリと中学生の時にテレビ朝日の日曜洋画劇場で初めて見たと覚えていたが、記録を調べるとファイトクラブのテレビ初放送はフジテレビのゴールデンシアターの2003年。筆者が中学生だった頃の日曜洋画劇場の放映リストを調べてもファイトクラブは無いので勘違いしていた。しかしファイトクラブのDVDや原作を読んでハマっていったのは間違いなく高校生の時だったので、放映から少し間が空いてからDVDを借りたのを「中学生の時に」と誤解してしまったのだろう。実際、未成年の時の記憶と云うのはあやふやなことが多く、記録を調べてみると間違って覚えていることが多々あるものだ。

 何故こんな話から始めたのかと云うと、宮台先生が「感染動機」について語っているのがこの章だからだ。
 宮台先生は小説家についても語っていて「小説家だって同じだ。優れた作家の作品を徹底的に読み、文体模写なんかしながら、いつしか自分の作品瀬顔を作る。」
 この説明は100%正しいが、日本の場合、無名の素人が作家になろうと思ったら、新人文学賞で選考委員や編集者達の厳しいチェックを乗り越えていかなければならない。筆者も「ファイトクラブ」に感染されて執筆を始めたわけだが、なんせ元々の文体が狂っていたため、文体を一般人にも読めるように矯正しなければならなかった。
『恋空』などのケータイ小説の頃と比べると、ネット小説の文章力は比較にならないほど向上しているため競争は激しい。自分の書きたいものに拘っていたら絶対にプロになれないので、雑誌や文学賞、選考委員の傾向や対策を立てて「試行錯誤」しなければならない。
 宮台先生が第一章で提示した、クリーンなサイクルがあるが、
①「試行錯誤」する(自由)⇒②他者が認める(承認)⇒③失敗しても大丈夫(尊厳)⇒①に戻る
 小説家志望の場合はこうである。
①「試行錯誤」する(自由)⇒②他者から認められない(敗北)⇒③失敗しても大丈夫(意地)⇒①に戻る
 SNSでは承認欲求を持っている人達はバカにされがちだが、作家志望の場合は出版社や編集者に承認されないと仕事をさせて貰えないので、承認は欲求ではなく、必須であり、承認されなければ負けの世界なのだ。
 はっきり言って宝くじを買うより愚かな賭け事と覚悟しなければならず、第4章で宮台先生が述べたような言葉に縋りたくなるが、作品が選ばれれば「仕事」、作品が選ばれなければ「趣味」になってしまう。筆者みたいに、少額とはいえ電子書籍の販売で印税を貰ったりしていると、「趣味です」の一言で逃げることも許されなくなってくる。
「本物」と「ニセ物」を見わけるのは大事だが、その前に自分が「本物」にならないとどうしようもない。「自分がニセ物だった」と思い知って傷付くことは日常茶飯事で、筆者を「ニセ物」と判断して去って行った人も何人も見てきた。
 この章を読んで、宮台先生は凄く優しいと思った。
「社会から消えてしまった「感染動機」」と書かれているが、筆者はメディアから宮台先生に感染された。「「感染」したあと「卒業」すること」とも書かれているが、筆者も必ず宮台先生から卒業しなければならない。

6. 【生】と【死】     …「死」ってどういうこと?「生きる」って?

 学者さんが書いた本を読むと「死」について語っていることが多くある。
『14歳の社会学』はあくまでも中学生向けなので、内容が幼く感じられる部分も多いが、宮台先生がご自身の体験を話されていることは興味深い。
 在り来たりな体験しか持たないが、筆者も出来る限り「親族の死」について語ろうと思う。
 養老孟司先生が『死の壁』で語ったように、
①1人称の死=自分の死
②2人称の死=大切な人の死
③3人称の死=他人の死
 の三種類があるが、人が真剣に向き合える死は基本的に②だけだからだ。

 筆者の場合、最初に体験した身内の死は同居していた父方の祖母だった。父方の祖父及び母方の祖母は筆者が生まれる以前に亡くなっている。母方の祖父は現在も生きているが、遠い場所に住んでおり、致死率の高い膵臓癌は奇跡的に乗り越えたが、認知症になっているとも聞き、正直会うのが怖い。
 筆者は祖母が大好きだったが、死にかけていて余裕が無くなったために、言葉遣いが以前より荒くなると、正直祖母に対する思いが冷めてしまった。幸か不幸か順番通りだったことで、葬式の雰囲気も明るく、「人って死ぬんだなぁ」などと喉かに親戚同士で語り合ったのが思い出される。
 だから、祖父が認知症で荒い口ぶりになっているんじゃないかと思うと、なかなか会いにくいし、薄情だがむしろ優しかった頃の記憶が汚されなくていいかもしれないとさえ思えてしまう。
 従弟が若くして死んだこともある。亡くなって少し経ってから聞かされると、嫌な予感が当たったように思った。
 従弟の家系は父親(筆者の伯父)が祖母の後ですぐ亡くなってしまうが、葬式の場で従弟のことを伯母が「長男です」と言ったのを見たからである。
 従弟は厳密には長男ではない。従弟の前にも男の子(筆者の従兄)が生まれていたのだが夭逝していたのだ。
 それは母親の当人が一番分かっているはずなのに、本来なら次男の従弟を「長男です」と紹介していた伯母に正直嫌な気持ちを覚えた。
 そして従弟は若くして亡くなってしまう。
 罰が当たったように感じた。

 宮台先生のようには若者に届けられる健康的なメッセージは書けないが、「死んだ奴のことを蔑ろにするんじゃねぇ」と、まだ生者の筆者は書く。

7. 【自由】への挑戦     …本当の「自由」は手に入るか?
 まだ8章が残っているが、事実上の最終章である。
 哲学でも取り扱う「自由意志の問題」や宮台先生が唱える「加速主義」、ソーシャルデザイナーとしての提案など、まとめにかかっている章だ。
 
 この章は余計なことを書かず、ご自身で読んで欲しいと思う。

8.  BOOK&MOVIEガイド  …SF作品を「社会学」する
 この章も実際の本を手に取って欲しいので、多くは書かない。
 ただ、紹介された作品はリスト化する。
・『華氏451度』(レイ・ブラッドベリ)
・『地球幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)
・『第四間氷河期』(安部公房)
・『他人の顔』(安部公房)
・『未来惑星ザルドス』(1974)映画
・『THX-1138』(1970)映画
 他にも『マトリックス』や『風の谷のナウシカ』についても語っている。

あとがき   いま〈世界〉にたたずんでいるかもしれない君に

 あとがきでは2歳の愛娘の「はびる」ちゃんについて語っているが、この本が出てから既に13年経っている。
 はびるちゃんの年齢は誕生日が分からないので断定出来ないが、14歳か15歳で、この本のタイトル『14歳からの社会学』と一致する年齢に到達している。
 多少、古くなっている箇所は多いが、論旨自体は古くなっていない。
 はびるちゃんは、お父様が書いた本を読んでどう思うだろうか? たとえ(つまらなかった)と思われても「本を出せるだけで凄いんだよ!」なんて宮台先生を庇いたくなる。(2022年1月2日)

日本の難点(2009年4月)

 前回紹介した『宮台教授の就活原論』第5章「CMと就職情報サイトに踊らされない仕事選び」に出てきた著書だったので読んだのがこちら。
『日本の難点』
 発行は幻冬舎新書。
 宮台先生のブログを調べた限り、約10万部売れたことが分かる。推測でしかないが、『14歳の社会学』よりも売れたと思われる。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=743

【目次】
はじめに
第一章 人間関係はどうなるのか――コミュニケーション論・メディア論
第二章 教育をどうするのか――若者論・教育論
第三章 「幸福」とは、どういうことなのか――幸福論
第四章 アメリカはどうなっているのか――米国論
第五章 日本はどうするのか――日本論

 正直「はじめに」を読んだだけで、自分の書いてきたことも思い出して、胸が熱くなった箇所もあったが、それを述べるのにもっと適切な章があったのでここでは多くは語らない。

第一章 人間関係はどうなるのか――コミュニケーション論・メディア論

 コミュニケーションの流動性が上昇したせいで、コミットメントが見合わなくなり「フラット化」が進んだことや、ヘタにコミットメントすれば「バカをみる」か「ストーカー扱いされる」と云う指摘は、筆者も自分の人生で何度か経験しているので、本当にその通りだと思ったものである。
 筆者もコミュニケーションが「フラット化」してきている。

 宮台先生は今世紀(21世紀)になって、マンガや映画や小説やテレビやゲームを含めて、「物語消費からデータベース的消費(東浩紀『動物化するポストモダン』)」「キャラクター消費からキャラ消費(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)」の例を紹介しているが、これらは筆者も前から分かっていた傾向であり、似たような言説は幾つも読んだり見たりしたことがある。例えば、岡田斗司夫さんが「魔法少女まどか☆マギカ」と富野由悠季監督のアニメとを比べた際「キャラ」と「キャラクター」とを分けて語っていた。

「キャラクター」と云う言葉を調べると、多くの人が好き勝手に「キャラ」って言葉を濫用していることがよく分かる。その意味で、岡田斗司夫さんの言葉のチョイスは分かるが、洗練の余地もある。
 脚本家・映画監督でスクリプトドクターとして活躍する三宅隆太先生が『スクリプトドクターの脚本教室・中級編』の中で、
・「人物の内面」を「パーソナリティー」
・「人物の行動(表現ママ)」を「キャラクター」
 と分けていたのが一番信用出来る表現と考えている。ただ、「行動」より「言動(発言と行動。言行。)」とすべきなので、まとめると、
・「人物の内面」=「パーソナリティ」
・「人物の外面」=「キャラ」「キャラクター」
 その意味で、岡田斗司夫さんが使った「キャラクター」は、内面と外面の両方、或いは内面を外面に発出させたイメージがある。

 筆者は1986年生まれだから、80年代以前のことをよく知らない。
 この頃の宮台先生は『14歳からの社会学』でそうしたように、ケータイ小説『恋空』を例に出すことが多いが、丁度筆者が生まれた1986年頃、「ユーミン的なものからドリカム的なものへ」と宮台先生が表現したような変化が既に起こっていた話は実に興味深かった。
 そして、関係性を記号的に短絡したものが「ケータイ小説」だったと紹介しているのだが、現在はこの短絡化にさらに拍車が掛かっていて、TikTokやYoutubeのショート動画など一分未満の動画が盛んになっていて、米英ではTikTokはYouTubeの利用時間を上回っている最大動画サイトである。
 そういえば、映画やドラマを倍速視聴する若者が増えているという記事を思い出したが、自分達が80年代からの「短絡化」現象の成れの果てと云う歴史的な背景を知った上で行っているのだろうか?

 宮台先生の本なら遅くても丸一日で済むが、『ユリシーズ』みたいな長編小説になるとヘタしたら一か月以上掛けて読むことになる。さて、TikTokや倍速視聴にハマる若者達は果たして本なんて読めるのだろうか?
 この章では出版不況に触れているが、作家志望になったことがこの場合は不幸になってしまうので、宮台先生が唱える「ホームベース」はプロになる目標以外に持つべきだと本当に身に詰まされてしまう。

第二章 教育をどうするのか――若者論・教育論
 この章は実際に本を手に取って読んで欲しい。

 フィンランドやシンガポールで上手く行った「ゆとり教育」が、どうして日本ではダメだったのかが本人の反省も含めて詳細に書かれている。
 いくら他の国で上手く行っているから真似しようと思っても、外国と日本では事情が違い過ぎるし、アメリカの外圧の有無もあるし、上手く行かないことが、宮台先生本人の反省も含めて書かれているのが興味深い。

 また『14歳からの社会学』でも登場した「はびる」ちゃんが宮台先生の人生を如何に豊かにして支えたのか、これも必読である。

第三章 「幸福」とは、どういうことなのか――幸福論
 他の本では「他人を幸せに出来ることが幸せ」とアドバイスを送ることが多い宮台先生だが、この本ではその主張は鳴りを潜めている。
 その代わり、日本の宗教史やセクハラについての解説などが面白い。

第四章 アメリカはどうなっているのか――米国論
 当時のオバマ大統領に関する解説が面白い。
 筆者が20代の頃の大統領だったし、人種差別の激しいアメリカで黒人が大統領に成れたという凄さもあって、思い入れも深い。
 オバマ大統領も辞める頃には中国がかなり増長してしまい酷評されたが、筆者は寂しい思いを当時抱いていた。
 でもトランプ大統領になったのを宮台先生は歓迎していたのを思い出す。なんだか「ブッシュ大統領の功績はオバマを大統領にさせたことだ」も首尾一貫したブラックジョークに感じる。
 小室圭は「皇室の破壊者」であると同時に「皇室を救ったんだ」と皮肉る竹田恒泰さんも想起させた。

第五章 日本はどうするのか――日本論

『14歳からの社会学』1. 【自分】と【他人】…「みんな仲よし」じゃ生きられないの中で、宮台先生は「みんな」をキーワードにして解説を始めていたが、この『日本の難点』は「みんな」をキーワードにして解説を終わらしに掛かっている点で、これは意図して書いたに間違いはない。
 筆者が20代として生きた時代を主に扱っているので、その内容は懐かしくもあり、自分の若かった頃はこうだったと思い出すことが多い。

 宮台先生は度々「感染動機」を謳っているが、この章ではチェ・ゲバラを持ち出していた。
 宮台先生は「ギリシャ神話」を持ち出していたが筆者は読み終わった後、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の「超人思想」を想起した。ツァラトゥストラは自分が感染出来るような魅力的な奴が現れないので、いつも独りぼっちになってその場を去って行くしかないが、仏教の心得も知るニーチェならば、本当に求めていたのは『法華経』の宝塔品の釈迦のように宝塔で語り合える対話者か、宮台先生の「感染動機」を奮い立たせるような人物だったのではないか?……なんて思えた。
『ストリートファイターⅡ』のキャッチコピーも思い出す。

「俺より強い奴に会いに行く」

「スゴイ人」になるのは本当に大変なことだが、それを読者に当たり前のように求めてくる宮台先生も「スゴイ人」だ。(2022年1月4日)

宮台教授の就活原論(2011年10月)

『14歳からの社会学』では、村上龍先生との対比が凄く面白かったので、同じ「仕事」をテーマにした本が読みたいと思って、この本を選んだ。

『宮台教授の就活原論』
 単行本は太田出版、文庫本はちくま文庫(筑摩書房)から出ている。
 Amazonでは2011/9/17時点で単行本が発売されていたのが確認出来るが、タイトルの日付は書籍に書かれた『2011年10月5日第1刷発行』に従う。

 冒頭、次のような宣誓のような文言が書かれている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
大学の学部選択以降、僕のあらゆる進路選択に断固反対し続けた、亡き母と、年少者たちに対する真剣な眼差しを強く動機づける、二人の幼い娘たちに、この本を捧げます。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 3年前は「はびる」ちゃんだけだった娘が、二人に増えていたのだから、宮台先生が幸せな人生を送っているようで誠に嬉しい。

 この本でも『14歳からの社会学』について触れているが、中学生向けに語り掛ける本を書いたから、今度は「大学生に語り掛ける機会」としてこの本を執筆したことが分かる。

【 目次 】
〈まえがき〉社会を空洞化させる企業行動/人生を空洞化させる仕事の行方
第1章 なによりも“適応力”が求められている
第2章 仕事は自己実現の最良の方法ではない
第3章 自己実現より“ホームベース”を作れ
第4章 自分にぴったりの仕事なんてない
第5章 CMと就職情報サイトに踊らされない仕事選び
第6章 就職できる人間になる“脱ヘタレ”の心得
第7章 社会がヘタレを生んでいる
第8章 すぐには役立たない就活マニュアル
〈あとがき〉デタラメな社会を放置したまま、個人を癒して適応させるだけでいいのか

第1章 なによりも“適応力”が求められている
 章立てを読んだだけでほとんど出オチ感があるが、宮台先生は日本独特の新卒一括採用制度の歴史やそれによって生まれた企業文化なども丁寧に語られている。
 特に会社に「適応」することよりも、自分自身に「適応力」があることを重視する考えは本当にその通りだと思って感心したし、「相手が何を求めているのかを観察せよ」も小説を書く筆者自身の戒めになる言葉だ。
 これだけで大学生必読なんじゃないかと思わせるほどの説得力がある
 一方、これは大学生向けではなく、高校生向けに教えるべきじゃないかと思えた部分もある。
 この本の内容は高校生レベルの学力があれば十分理解可能だ。
 大学生はリクルートを利用してエントリーシートを送ることが出来るし、落とされる可能性は高いが、面接の場に立つことは出来る。
「高卒はエントリーシートも送れないし、面接の場に立つことも出来ない。このままじゃお前ら不合格以下だ。だから、お前ら勉強しろ!」なんて、『ドラゴン桜』みたいなことをこの本にも追記した方が良いのでは? とも思ってしまった(笑)

第2章 仕事は自己実現の最良の方法ではない

 さて、宮台先生は『14歳からの社会学』でも述べていたが、この本でも「仕事で自己実現する」という考え方自体に問題があります。と書く通り、「仕事を通じてかなえたい夢がある」と答える学生の割合が年々増えていったのが分かるグラフを載せたりして警鐘を鳴らしていた。
 奇しくも、筆者が学生だった頃の年齢や年代と一致している。
 面白いのは『14歳からの社会学』との関連だ。引用する。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
既に申し上げたように、『14歳からの社会学』でも「仕事での自己実現」に対して否定的なことを書きましたが、年長世代――団塊の世代を含めてそれより上の世代の方々――から、「仕事での自己実現を否定するとはケシカラン」とのお叱りが多数ありました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
 やっぱりなぁ(笑)と思って、不覚にも笑ってしまった。

 企業も「うまく生きる人間」を求めるようになったことを挙げているが、この本が書かれた頃には、ユーチューバーとかインフルエンサーとか云ったようなもはや企業に就職しない生き方を選ぶような連中が出てくる前だったので、内容の古さも若干感じる。
「本当にうまく生きる人間は、会社にすら入らない」例を幾つも見てしまう現在だと、この頃の宮台先生は「仕事での自己実現」には否定的であっても「就職」が前提になっていたのは否めない。
 ただ、ほとんどの大学生達が最終的には「就職」を目指すし、タイトルも『宮台教授の就活原論』なのだから構わないが、発行から10年経ったし、内容を更新したら、どんなことを宮台先生が書くのか楽しみではある。

第3章 自己実現より“ホームベース”を作れ

 こちらは『14歳の社会学』で同じ論旨を述べていたが、ホームベースと云う表現ではなかったし、『おひとりさまの老後』なども紹介している。
 終身雇用制度も昔は合理的だったが現代は既に通用しなくなったことや、宮台先生自身の経験なども書かれていて非常に面白い章だ。
 一方、男の年収目当てで婚活している女性を「売婚婦」と軽蔑し、もはや結婚など諦めている筆者としては「おひとりさまの末路」の項目はなかなか読むのがキツい章でもある。宮台先生が「クズ」「感情の劣化」などと非難する男の特徴は、残念ながら筆者にも心当たりが有るからだ。
 此処が宮台先生の優れている所で、宮台先生は「感染動機」を推奨するが自分自身を「ホームベース化」させない。この本でも宗教団体や自己啓発本などを引き合いに出して、読者との一定の距離感を保とうとしている点は、宮台先生が本当に読者の幸福を願っていることが伺えて嬉しい。
 ところでユーキャン「2009年新社会人の意識調査」のグラフを載せているが、奇しくも筆者(1986年生まれ)が大学を現役合格した後に就職して新社会人になった場合の年だったので面白かった。男女各200人に、「終身雇用と能力主義、どちらがいいですか?」のアンケートを実施して、男女とも約150人が終身雇用、約50人が能力主義と回答した棒グラフが載っている。宮台先生が言った「沈みゆく船の椅子取りゲーム」か。
 宮台先生や編集者は「未だに終身雇用制度に依存している若者=筆者」を批判する意味もあったと思うが、「能力主義を謳いながら、結局は人件費を削減する口実が欲しいだけと経営者達の意図を見抜いていたからです」とも反論したくなった。反論と云うより、弁明と呼ぶべきだが。

第4章 自分にぴったりの仕事なんてない

 同じ文言を養老孟司先生の『超バカの壁』で読んだことがある。第1章の『若者の問題』で「自分に合った仕事」なんかないの項目が書かれていた。『超バカの壁』が出されたのは2006年1月で、『宮台教授の就活原論』とは5年の空隙があるが、状況はほとんど変わっていないどころか、むしろ悪化していることが宮台先生の本を読むと分かる。
 宮台先生は「好きなことができるなら、ヒモになってもいいか?」と項目分けしたが、『超バカの壁』は「私もフリーターだった」「憧れのニート」「ニートに感謝する」など、もはや就職も放棄しようとしている養老先生の態度は面白い。宮台先生の場合、大学生に読ませようと思っているためか、「フリーター」「ニート」は禁止ワードのように文中に出していない。
 ちなみに筆者は「『治公営正』の資本論」の中で、江戸時代の士農工商が現在は治公営正じこうえいせい(政治家、公務員、経営者、正社員。筆者の造語)に変わったに過ぎず、穢多や非人も不利多フリーター認人ニート(筆者の当て字)に置き換わっただけで、部落差別は同和教育で「絶対にいけない」と学校で教えられたので部落差別が出来なくなった代わりに、治公営正の日本人達は「非正規雇用者」や「無職」を差別することでガス抜きしていると書いた。

 養老先生と宮台先生はどちらの方が悪質か? などと考える。養老先生は「憧れのニート」なんて言っているが、これは自分の親に依存する行為だ。
 一方、宮台先生の「ヒモ」は広義には「ニート」だが、依存対象が他人の女性なので、「ヒモ」の方が罪が重いような気はする。
 しかし宮台先生に対して釈迦に説法だが、今時の若者の恋愛能力の低さを考えると、「ヒモ」になれる確率の方が就職出来る確率よりも遥かに低く、「ニート」になる確率の方が高いに決まっている。
 宮台先生もそれはご存知のはずだが、本では「フリーター」「ニート」の言葉を絶対に出さなかったのは、大学生への愛情故か。
(勿論、筆者が見落としただけだとも思うが)

第5章 CMと就職情報サイトに踊らされない仕事選び

 筆者も「内定取り消しは仕方ない」と考えているが、この本で宮台先生は『日本の難点』で問題視したと書いている。
 具体的な「CMと就職情報サイトに踊らされない仕事選び」については、実際にこの本を読んで欲しいし、この時点で筆者は『日本の難点』を読めていないのでコメントは差し控える。

第6章 就職できる人間になる“脱ヘタレ”の心得
 こちらは内定が取れる学生の条件と、『14歳の社会学』にも載っている「感染動機」の実用例を宮台先生が自身の体験から話されている。

第7章 社会がヘタレを生んでいる
 宮台先生の高度な社会分析が披露されるところで、「まさにその通り!」なんだが、宮台先生のような大学教授や有名な社会学者でなければこうした社会批判を行うことは出来ないだろうと考える。
 つまり、宮台先生と同じことを思っていても、ヘタレの当事者たる若者が同じことを言ったら「甘ったれたこと言ってんじゃねぇ!」となるはずだ。
 宮台先生が社会学者として優れているのは、若者達の守護者になったり、逆に攻撃者になったりと変幻自在に変わるが、持論自体は首尾一貫しているところである。
 刑事裁判にどうして弁護士が必要なのか考えた時、「人殺しの言うことを信用することは出来ないよなぁ」と思い、罪を犯していない弁護士が法廷で弁護する意義に凄く納得したのを思い出す。

第8章 すぐには役立たない就活マニュアル

 中日ドラゴンズで監督やピッチングコーチとして活躍した森繁和氏が著書『参謀』の中で「覚えやすいものは忘れやすい」と書いていた。
 宮台先生は「すぐには役立たない就活マニュアル」は、確かにすぐに役に立つとは到底思えないが、人生においては物凄く役に立つだろう。

 ただ、TBSラジオの採用戦術を宮台先生は褒めていたが、これはどうなのだろうか。
 この本が書かれてから、だいぶ時間が経ったものである。
 伊集院光さんが降板した騒動はあまり褒められたもんじゃないと思えた。ただ、2021年の純利益は回復している。宮台先生も自分が好きなように喋らせてくれているラジオ局の悪口はなかなか言えないだろうと思ったり、新規採用枠2人に数百倍の倍率で応募が来るなら面接以上に数の暴力で良い人材が集まるのは必然だろとも思えたり(実際に宮台先生は中小零細の採用倍率が低いことを挙げていた)、TBSラジオの職員の優秀さを宮台先生のように手放しで称賛することが筆者には出来ない。
 これは決して宮台先生の意見に異を唱えているのではなく、筆者はTBSラジオの職員を知らないからである。宮台先生より客観的立場と云えるが、本人達に実際に会わないで判断を下す言動など、宮台先生は確実に否定してくるはずである。だからこの話題はこれで終わりにする。
 現在の宮台先生がTBSラジオをどう思っているのかは分からない。

 宮台先生への探索は、まだまだ続く……。(2022年1月4日)

きみがモテれば、社会は変わる。(2012年5月)

 宮台先生の本だが、最初に何を読めば良いのか皆目見当が付かなかった。
 勿論、ネットで検索したり、相談を持ち掛けたりすれば、よく知っている人達からアドバイスを貰えただろうが、自分で選んだ感じがしない。
 そこで筆者が19歳の時に初めて養老孟司先生の本を読み始めた時の経験から、一番内容が易しいと思われるこの本から手を出すことにした。

『きみがモテれば、社会は変わる。宮台教授の〈内発性〉白熱教室』
発行元は株式会社イースト・プレス。

 初めて開いたのに、見たことがある編集と体裁で懐かしかった。何故なら筆者が初めて読んだ養老先生の本も、同じ『よりみちパン!セ』シリーズの『バカなおとなにならない脳』だったからだ。

 子供向けに書かれた本の方が、大人が読む分にも面白いことは多い。
 勿論、大人向けとされている本でも著者は相当表現に気を使うものだが、対象が子供となると、言葉の意味が分かるか否かの問題が大きくなるので、表現は相当平易にせざるを得ない。
 その際、著者がどんな年齢層を対象に想定しているのかが、文章を読むとよく分かる。先に挙げた『バカなおとなにならない脳』は小学生、中学生、高校生と幅広く質問を募集して、養老孟司先生がそれに答えると云う形式であったため、内容は非常に分かり易かった。
 一方、『きみがモテれば、社会は変わる。』の宮台先生は「3時間め」に『A君、16歳、彼女無し』を例に出して分析を述べていた。宮台先生が想定している年齢層は恐らくこの辺りで下げても中学生までの内容と云える。小学生には少し難しいと思う。

 概ね以下のような内容でまとめられる。
1時間め
 日本で自殺が多いことから切り出して、日本社会の問題点を挙げる。
2時間め
 日本人の「任せてブーたれる」依存性や共同体の問題を指摘する。
3時間め
『A君、16歳、彼女無し』の君達(読者)が何故モテないか教える。
4時間め
〈内発性〉を挙げて、どう生きるべきか、社会と個人の両面で提案する。

 1時間め、2時間めは、筆者も良い年したオッサンなので、既知の情報も多かったが、論旨自体は極めて正論で共感出来る内容である。
 意外だったのは3時間めで「承認欲求を持つことの大切さ」を説いていたことである。『他人の承認なんかどうでもいいだろ』と云うのかと思った。しかし宮台先生の優れている所は、闇雲に「モテたい(承認されたい)」を美徳としていることではない。
「承認=モテ」に分かり易く置き換えて、「モテたい(承認されたい)なら他人を幸せに出来るようになれ」と説き、「他人を幸せに出来ることこそ、幸せである」と教えていることである。
 これは宮台先生がメディアでよく語る「人を愛することの幸福」であり、そのためには〈内発性〉「内から沸き上がる力」を持っている人間にならなくてはダメだと説いて、4時間めを締めている。

 書かれた時期が3.11東日本大震災の後だったので多少内容は古くなっているが、「あの頃の宮台先生がどう思っていたか?」を知ることが出来るのは、古い本を読む時に得られる発見と喜びがある。

 論旨そのものは以上だが、筆者がそれよりも気になったのは教育者として数多くの学生達と対面してきた宮台先生の苦労である。
 主に3時間めに取り上げられている内容で列挙すると、
・1996年頃から学生達がグループワークが出来なくなって、何かと人間関係の破綻や決裂が起こってトラブルが発生するようになって、サブゼミと云うそれまでのスタイルをやめてしまったこと。
・学内に何とも言えない変な奴も増えてしまったこと(笑)
・優秀と思ってアルバイトとして雇ったのにすぐ仕事が出来なくなること。
 これらは実際に本を取って読んで欲しいが、ナンパ師にうつ病が多いことなどを挙げているのも面白い。

 特に「学内で何とも言えない変な奴も増えてしまったこと」については、大学で宮台先生の授業を受ける学生達は必読と思われる。頼むから、こんな連中にだけはならないで欲しいと願うばかりである。
 さて(宮台先生も大変だなぁ)と思う反面、筆者も(教育者でないのに、社会に出てから似たような連中に出くわした経験をしてきているんだが?)と思いを馳せたりする。
 宮台先生の「日本社会は既に終わっている」と云う指摘があまりにも正し過ぎて、絶望の中で生きるしかない『ユリシーズ』のような世界を現代社会にも感じずにはいられなかった。(2021年12月31日)

「絶望の時代」の希望の恋愛学(2013年12月)

『「絶望の時代」の希望の恋愛学』
発行元は株式会社KADOKAWA、編集は中経出版。

 この本は2012年7月に行われたトークイベント「宮台真司の愛の授業2012」の内容をもとにAmazonKindleストアで発行された電子書籍『宮台真司・愛のキャラバン――恋愛砂漠を生き延びるための、たったひとつの方法』を再構成し、大幅な書き下ろしを新たに加えて書籍化したものである。
 また書籍の方にもアドレスが載っているが、宮台先生のブログに電子版のあとがきが残っている。
http://www.miyadai.com/?itemid=1009

 冒頭、宮台先生は3人の子育てに関わることになったことを明かすが、あとがきにもある子供達の名前「はびる」「まうに」「うりく(宇陸)」は、『日本の難点』で「女の子なら「まうに」で男の子なら「うりく」にする」とまだ下の二人が生まれる前から語っていたが、本当にお子さんを授かって実際にその名前を付けたのだから、まさに「有言実行」だ。数多くの書籍や番組に出演してきたことよりも凄いことだと思った。

 ただし、『中学生からの愛の授業』から『愛のキャラバン』へとつながるプロジェクトを〈男女素敵化計画〉と宮台先生は呼んでいたが、筆者はまだ『中学生からの愛の授業』を読めていない(2022年1月7日)。
 そのため、理解するべき順序が若干前後してしまっているのはご容赦して頂きたい。

 この本で面白かったのは第3章でユーチューブへのアドレスが載っていて動画を見るように指示が書かれていたことである。

 この本で筆者が一番感情移入したのが、当時宮台大学院ゼミに居て、この動画の中でもナンパを実行する(させられる)立石浩史君である。
 2012年6月、ナンパしていた時には立石君は26歳。学年は筆者より1個上かもしれないが、年齢的に近くて、実際にナンパしている様子や本の中で(イベント中に)宮台先生から怒られたりしているのを読み(見て)、(もしもこの時にイベントに行けていたらきっと楽しかっただろうなぁ)と微笑ましくもあり、羨ましくもあり、色々な感情が芽生えた。
 この頃の筆者は、勢いが丁度盛り返し始めた頃の新日本プロレスマニアで、ナンパに全く興味が無かったが、プロレス好きな彼女が出来たらきっと楽しいだろうなぁ……なんて思うことはあったのを思い出す。
 結局、筆者は10代20代でナンパをしたことがないまま30代を迎えてしまったので、今思えばナンパもやっておけば良かったかなぁ……と思う。30過ぎてナンパしようなんてかなり気が引ける。コロナ禍で外に出るのも憚られる時代が来ると知っていたら、この時期には宮台先生の存在も知っていたがこのイベントに参加していたら、筆者自身も池袋や渋谷に繰り出してナンパしていたかもしれない。

 ただ、実際問題、金が無さ過ぎる。

 宮台先生が本で書いたように、ビルの裏側や階段でもセックス出来たなら筆者もナンパしていたかもしれないが、現在はナンパしてセックスするならラブホテルに数千円払わなければならない。相手が捕まえられるかどうかも分からないナンパに時間を掛けてお茶とホテル代も掛けるくらいだったら、1万数千円台の安いソープに入った方が時間も節約出来るし簡単で安上がりと当時でも今でも筆者は考えてしまう。
「貧すれば鈍する」とはまさにこのことだとは自覚しているが、幸か不幸か不況が深刻化したせいで、安いソープに入っても可愛い女の子とセックス出来る機会も増えた。単に自分の性欲を解消したいだけなら、ナンパするより風俗に行くって考える男はかなり多いような気がする。実際、景気が悪いと言われながら、風俗店が客で埋まっていて繁盛している様子を紹介しているユーチューバーも居る。

 こうしてナンパをした経験も無く、或いは年齢的にナンパが難しくなった男達は風俗店に繰り出して性欲を解消して、ナンパで養われるようなコミュニケーション能力を鍛え上げる機会も無いまま、どんどん「感情の劣化」を拗らせて「クズ」になっていくのは避けられないのかもしれない。
 そもそもコストパフォーマンス(コスパ)を真剣に検討するようになった現代、数千円や数万円の金銭を払うくらいなら、もっと他のことに使おうとするんじゃないだろうか。
 宮台先生が提唱する〈男女素敵化計画〉に反して、〈男性クズ化問題〉はどんどん進んでいき、少子高齢化問題はますます混迷を極めていくだろう。

 さて、本の内容に戻ろう。

男性の童貞喪失のビフォー&アフターの差異は、女性の処女喪失の比じゃない』って書かれているのはまさにその通り。「チャラチャラするのは良いけど、へらへらするのがダメ」って云うのも面白いし、宮台先生が立石君に「自己言及ツイート」を辞めるように言っているのも、立石君と云うよりも筆者に言っているような感じがして面白い。
 ナンパの方法論ではなく、ナンパをする前後の心理状況や心構えを詳細に教えてくれるのが非常にありがたかった。
 さて「マザコン男はAKB48が好き」と指摘していた。今ならば乃木坂46などの坂道シリーズに該当するのだろうか。
 この頃の筆者は逆に「アイドル嫌い」を公言していた。アイドルが世間で流行るようになり、実際に魅力的な人も居るので、無意味な憎しみの感情を持つのはやめたが、筆者は偶像崇拝を嫌うし、脚本家を目指しておきながら「芸能界」を若い時だけ女性をチヤホヤしてポイ捨てする「性風俗産業」と揶揄してきた男だから、たぶん立石君以上に宮台先生に怒られるだろう。

 さて、エピローグでは風俗労働に従事する女性達の現状も書かれている。
 筆者も風俗嬢に話を聞いたことがある。すると本書が指摘している通り、〈親への恨み〉を語っていた子が実際に居た。優秀な大学に通っているのを褒めちぎって調子に乗らせたが、やがて親のことを恨んでいることが分かる言動を取ったのだ。これは、〈物格化〉がもたらす〈親への恨み〉の項目と一致していてビックリした。「俺が個人的に聞いた話じゃなく、傾向としてそういうことが本当に多いのか」と思って、宮台先生がこれまで行ってきたフィールドワークの確かさに感服させられた。
 ところで、「女子(男子)への対応を間違えればゲームオーバー」という構えが目立つことを宮台先生は指摘しているが、筆者は逆に女性への対応を間違えてもヘッチャラって振る舞っている。何故なら本当にそうだからだ。僕の場合は逆に、宮台先生から「黒羽君の場合は女性への対応を間違えればゲームオーバーって心構えを持て!」と怒られそうだと思った。
 立石君は元気にしているだろうか。筆者は凄く気になっている。きっと、社会で頑張っていると願うばかりだ。(2022年1月8日)


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