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8月、第2週の記憶 「ベケットとジャームッシュ」

 ヴラジーミル 「生きたというだけじゃ満足できない」
 エストラゴン 「生きたってことをしゃべらなければ」



 ゴドーの話からしていくか。約束通りな。

 まず最初に何を話そうか、ってなった時、真っ先に浮かんだのは「不条理」だよね。サミュエル・ベケットはノーベル文学賞を受賞するほどの凄い作家なのですが、まあ自分は正直、文学賞とかあんまし興味ないんで「ベケット凄え! ノーベル文学賞とっとる!」とはならないんだけど、まあ説明する時に大変便利なのでね、使わせてもらうのだけども。まあノーベル文学賞だとあれだけど、こういう賞ってのは好みが固まるからね。そういった意味で便利ではある。シッチェス映画祭とかね。どうでも良いか。

 話が逸れちゃった。そんでこのサミュエル・ベケットどんな作品書いてるのってなった時に挙げられるテーマとして「不条理」が出てくるわけですよ。「不条理」っていうのは自分も凄く大好きなジャンルで、カミュとかカフカとかセリーヌとかね。セリーヌはあんましちゃんと読んでないんでいずれ腰据えて読みたいと思っているんだけど、まあ、こいつらに並ぶのがサミュエル・ベケットなわけよ。
 自分恥ずかしながらサミュエル・ベケットを全く知らなくて。まあ、小説畑の人間なんで、と苦しい言い訳でもしておくか。おこがましかったよね。「不条理」好きと言いつつベケットを知らないって。猛省。

 さっきから不条理不条理ってなんぞや、となる人おるかもしれんから軽く説明しておくか。と言っても自分も別に高名な先生に教わったりだとかしているわけではないのでね、凄く正確な「不条理」を知りたいのであれば他を当たって欲しいんだけど、俺の思う「不条理」っていうのは、生きている上で出会う、それって何かおかしくない? っていうこと、なんだよね、伝わるかな。例えばさ、カフカの「変身」ってあるじゃん? 朝起きたら虫になってたっていう有名なやつ。これ自分の実体験なんだけど、あれは突然虫に変わってしまった、というのが不条理なのではなく、虫になってしまったことを通して見えてくる、今自分たちが生きている現実のおかしさ、というのが不条理だと思うんだよね。あくまで自分の見解なんだけど。カミュの「異邦人」もそう。ムルソーの突飛な思考や行動、まあ個人的には突飛でも何でもないんだけど、あれを通して見えてくる世界が不条理。これなんだよね。まあそういう舞台装置的に変な動き方をすることで不条理が見えるというのもあるので、まあ、何とも言えないんだけどさ。

 自分から話しておいてなんだけどさ、正直「不条理」の定義なんてどうでも良いんだ。他の人に任せるよ。大学の先生とかによ。俺が何を言いたかったかっていうとね、皆さんが生きている上でさ、人生とかの大きなものから、職場の人間関係とか小さなものまで、これって何かおかしくない? って感じたものの、どうにもすることができない問題、に対して、同じように悩んでくれるのが「不条理」というジャンルなんだよね、俺が思うに。ただ気をつけて。あくまで一緒に悩んでくれるだけ。答えなんてないからね。

 とまあ話した上で。そんな不条理の大名作、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」にようやく入るぞ。ベケットは小説家ってより劇作家としての色合いが強いのでね。この「ゴドーを待ちながら」も戯曲もなんですよね。
 いやあ、自分戯曲はさ、シェイクスピアとかチェーホフとか寺山修司とか? そんぐらいにしか触れていないのだけど、ここまで芝居を観てみたいと思ったのは初めてだなあ。これどんな風になるんだろうって。うん。あらすじから書いていくか。と言っても、あらすじなんてさ、ないに等しいのだけれども。

 ヴラジーミルとエストラゴンっていう二人の浮浪者が一本の木の下で駄弁ってる。どうやら二人はゴドーという人物を待っているらしい。二人はゴドーに会ったことがないからどんな人かは知らないんだ。そんで二人は他愛もなく時間を潰してゆくのだけど、そこへポッツォとラッキーが現れるんだ。ラッキーは奴隷なのかな、首輪で繋がれていて、荷物持ちとかさせられていて。そんでまあポッツォとラッキーも交えてまた駄弁るわけ。そんでポッツォとラッキーが立ち去った後でゴドーの使いである少年が現れるんだ。そんで「ゴドーは今日は来れなくなったけど、明日には来る」と伝言を伝えて第一幕は終わる。

 第二幕。翌日、ヴラジーミルとエストラゴンはまたゴドーを待っている。そこへポッツォとラッキーがまたやって来るんだけど、ポッツォは失明してしまっているんだよね。そこでまたやり取りがあって。ポッツォとラッキーが帰った後で、また同じようにゴドーの使いである少年が現れる。そんでまた、「ゴドーは今日は来れなくなったけど、明日には来る」って伝えるんだ。ヴラジーミルとエストラゴンは首を吊って死のうとするんだ。そんでロープを用意しなくちゃねって話をするが、二人も動かず終幕する。

 うーんどこから話そうかな。まず俺が一番この作品で好きな部分なんだけど、ゴドーを待っている間、こいつら本当に時間を無駄にしてるんだ。そんでもね、そこで交わされる会話の中には凄く心を刺して来るものが多い。自分さ、チャールズ・ブコウスキーの「パルプ」とかね、馬鹿みたいな、くだらないことをやりながらもそこで飛び交っている言葉は「本物」みたいなのに弱いんだよね。

 そんで第二幕の翌日についてなんだけど、エストラゴンもポッツォも昨日の出来事を忘れているんだよね。ヴラジーミルが昨日会ったじゃないかって言っても、二人ともさっぱりなんよ。
 ここに悠久を感じる。あらすじを読んでもらえば分かる通り、これは今までも繰り返されていて、きっとこの先も繰り返すんだろうなってのが感じられるじゃん。たまんないよね。

 エストラゴンはこんなところごめんだって立ち去ろうとするも、実際には立ち去らない。転んだ盲目のポッツォをヴラジーミルとエストラゴンが引き起こそうとするも二人して同じように転んでしまう。日付や時代なんてどうでも良い。それを経験した。それだけで良いじゃないか。いつ経験したかなんてどうだって良い、みたいなやり取りに、一番上に書いたセリフ。
 「ゴドーを待ちながら」繰り返される無為な時間の流れの中には、サミュエル・ベケットの哲学がこれでもかってくらいフランクにびっしり詰まっているんだ。最後までベケットたっぷり。やっぱこれだね。「ゴドーを待ちながら」。

 さて。ゴドーってなんぞやってのにもちょっと触れておくか。これはどうやら GOD からきているらしい。ヴラジーミルもエストラゴンもゴドーさえ来れば何もかも良くなるって劇中で信じているからね。
 しかし来ない。来ないから、待ち合わせ場所から動けない。これまでもそう。そしてきっと、これからも。

 「待つ」っていうのは人生を生きるということにおいて最も重要なファクターでありテーマだってことは君たちも知っているだろう? 人間ってのは生きている間はずっと何かを待ち続けて待ち続けて死んでゆく生き物だって俺は思ってる。どっかで誰かが似たようなこと言ってそうだけど、パクったわけじゃねえから。俺の中から生まれた思想だから。もし同じようなこと言ってる奴が既に歴史の中にいるんなら俺とそいつはおそろってわけ。俺のことも敬って良いよ。

 などと言いつつ。自分さ、太宰治で一番好きな作品って「待つ」なんだよねってことはことあるごとに言っているけど覚えてる? 覚えてないんなら今日覚えてね。文庫本三ページくらいの短編なんだけど、この小説の主人公も毎日毎日一日中駅のベンチで何かをずっと待ってるんだ。この主人公は自分でも何を待っているのか分かっていない。あれでもない、これでもない、話しかけられても、あなたじゃない、って。ずっと何かを待っていて、それが現れたのなら、自分の全てをそれに捧げてしまおうと覚悟をしている。

“僕は外に立っていて誰かを待っていて
 待ちすぎて誰を待ってたか忘れてしまった”

 とか、

“うまく手は繋げない それでも笑う
 同じ虹を待っている”

 だの。

 パッと浮かんだのがこれらなんだけど、「待つ」って行為は本当の本当に”全部”なんだよね。かのジャック・ケルアックも言っている。「誰も来ない街角でひたすら待ち続ける。それがビートだ」って。多分。確かね。違ってたらごめん。

 「待つ」ってことはどういう意味なのかって話よ。その行為には必ず「自分以外」が伴っているってわけ。おわかり?

 はい。というわけで、ベケットに脳を焼かれまくった俺はこんな本まで手に入れてしまったってわけ。近いうちにこちらの感想も書きたいわねえ。

 さあ、映画の話をするぞ。ついて来れるか?

 まずはブログのタイトルでも回収しておくか。

 ジム・ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」ね。いやあ、凄かった。他に言葉いる?

 これはオムニバスだよね。とある夜に世界中を走っていたタクシーの中での出来事を短編にして集めた映画。ロザンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキ。俺のお気に入りはローマかな。ふざけた運転手が神父を乗せるんだけど、ひたすら下品な話をし続けるんだ。そんで神父が薬を飲もうとしても運転がひどくて薬を落としてしまう。それにも気づかず下品に話し続けて、やがて神父が死んでしまっているのに気がつくんだ。俺の話で神父を殺しちまった! ってパニックになるんだけどこのシーンが本当に好き。人気のないベンチに神父を座らせてタクシーは走り去って幕。一番気に入った。

 これでジャームッシュの話はおしまい。え? ベケットとジャームッシュなんてタイトルつけておきながら比率おかしくない? って思われるかもだけどしょうがない。先週も書いたように、ジャームッシュは本当に素晴らしいんだけど、語るべき言葉が俺の中にはあまりないんだ。それでもベケットと並べたって意義を感じて欲しいよね。

 もう一本書いておくか。ジム・キャリー主演の映画「マジェスティック」のことをな。

 これはもうシンプルに良い。久々にこういう王道な映画を観たわ。これは「ショーシャンクの空に」の監督って言えばもう大体分かるでしょうよ。

 ハリウッドの駆け出し脚本家であるジム・キャリー(主人公の名前忘れちゃった)が、”アカ”疑いをFBIに持たれて仕事を失うんだ。絶望してハリウッドから立ち去る帰り道で事故って川に落ちてしまう。そのショックでジム・キャリーは記憶を失ってしまうんだけど、流れ着いた町で、かつて戦争に行ったきり行方不明になっていた男と間違われるんだ。そうしてその男の父親と一緒に実家の映画館を再興させていくっていうド定番のハートフルムービー。「ルビー・スパークス」みたいな玩具のナイフで遊んでたら本物だったみたいなこともない。

 終盤のさあ、記憶戻ってからね、FBIに連れて行かれて、FBIの方もこいつ無関係だなってなってたんだけど、引っ込みつかないから、とりあえず、もうしませんって謝ってくれりゃあ悪いようにはしないよって持ちかけられるわけ。不条理だよね。けれどもね、このジム・キャリーが間違われた男、ルークって言うんだけど(こっちは覚えてた)、あいつだったらどうする? って考えるわけよ。正義感の強い立派な人間だったわけ。そんでジムは立ち上がるの。あの流れついた町の戦死した若者たちは、こんな国を守るために死んだんじゃないって。自由の国アメリカのために戦ったんだって。こうして自分を奮い立たせて、ジムは真実を叫ぶわけ。聴衆からの喝采と俺の目から涙。勇気を振り絞って、自分を変えようと一歩踏み出した人間に賞賛が送られるってのが、結局俺の一番好きな瞬間なわけ。涙も出るさ。花粉症ひどいから眼球クソ痛かったけど。

 こんくらいにしといてやるか。自分気まぐれな人間だからさ、今週はこれを読むぞ、これを観るぞ、って決めても、すぐに心変わりしちゃうんだよね。だから宣言するのはやめるわ。今週はこれを読んだ、これを観た、ってスタンスにするんで、そこんとこよろしく。ここまで読んでくれてありがとうね。それじゃあまた来週ね。

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