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家を見て、人を想う。想像力で楽しむ「江戸東京たてもの園」

ずっと行きたかった所があった。「江戸東京たてもの園」(東京・小金井市)。
SNSなどで、昭和な家屋や街並みでモデルさんがポージングをしている、甘酸っぱい青春時代のような、レトロ風のポートレート写真を見る度に、ここの名前が書かれていて、一度行ってみたかったのだ。

先週末は絶好の秋晴れなので、さっそく行ってみた。これもその日の思いつき。お昼前に行くことを決めた。

園に電話で聞くと、JR中央線の武蔵小金井駅から、歩いては遠いのでバスに乗るようにというので乗ったが、道は駅からまっすぐ一本。しかも数分ですぐ到着。ちなみに帰りは歩いたら、たったの15分。行かれる方は歩きで十分かも。

さて、「江戸東京たてもの園」は広大な小金井公園の一角にある。
公園に入ると、いきなり頭上で・・・

パァーンッ!という破裂音!

その直後に・・・コーンッ! イテッ!頭に何かが落ちてきた。
見ると、どんぐりだ。いきなり、素敵な季節のご挨拶😀

どんぐりが割れて落ちる瞬間の音、恥ずかしながら、人生で初めて聞いたかもしれない。


園内には、コキアのモフモフな一角も。

そして、たてもの園の入り口に到着。
私を迎えてくれたのは、なんと芳しい香り!
入り口の両脇にある巨大な金木犀の発する甘い香りが一帯に漂って、ずっとそこに立っていたいぐらい。

園内に入る。木々の間に、およそ30棟の、江戸時代から昭和にかけての建築物が並んでいる。実際にあった家屋や商店などを移築、復元したものだそうだ。


これは、品川区にあった邸宅。さすが建築家のお宅。戦時下の昭和17年に作られたとは思えない、洗練されたオシャレさ。外は切り妻屋根風、中は全面採光の吹き抜けの居間を中心に、木材を生かしたシンプルな作り。ああ、今家を建てられる財力があるなら、こんな家が建てたいな!

その他の家も、見ていこう・・・

アパート育ちの自分には、もちろんこんな高級な作りの家に住んだことはないけれど、庭があって縁側があって畳の間がある、この感じは、子供のころ昔祖父母の家に行った時の感覚を思い起こす。夏休み、この畳にゴロゴロしてみたい。

本格的な撮影は禁止されているし、立ち入り禁止の仕切りなどが邪魔ではあるが、絶妙な角度を探せば、ちょっとしたポートレート写真だったら、味のあるものが撮れそうな気がする。

さすがにこんなお風呂は経験したことないけれど・・・

ああ、この廊下の感じ!

こちらは、昭和12年建築。板橋区常盤台にあった写真館。
このオシャレな外観。今作ろうと思っても作れないのでは。

採光のある、明るいスタジオ。

ああ、裸電球。
そして、ミシン!足踏み式!

私はギリギリこのミシンの記憶がわずかにある。祖父母の家で埃を被っていた気がする。家では、電動ではあったけれど母親がミシンで家族のための何かを作ってくれていた風景も、頭のどこかから引き出されてきた。今ミシンがある家庭はどれぐらいあるのだろう。


ボンネットバス。いすゞ。「ゞ」の文字が、いい。
これはいつのものだろうか。トトロの猫バスのようだ。

昭和27年建築の三井の邸宅。
ランプの傘ひとつとってみても、違う。

農家も展示されている。

親戚に農家がいなかったため、懐かしさはないが、囲炉裏などを見て、どこかホッとするのはなぜだろうか。

歴史の舞台となった家も展示されている。

東京・赤坂にあった、政治家・高橋是清氏の邸宅。

ここは、昭和11年(1936年)の「二・二六事件」の舞台だ。
当時大蔵大臣だった高橋是清が、この邸宅で暗殺されたのだ。

ところで、高橋是清のプロフィールは全く詳しくないのだが、展示にある年表が強烈だった。

*安政元年、幕府御用絵師の私生児として生まれ、足軽高橋家に里子に出される。
*10歳の時、横浜に移住し、ヘボンの塾等で英語を習得。
*13歳の時、仙台藩より米国留学を命じられる
 ”奴隷売買契約であったことを後日知る。” (!)
*14歳。明治維新を知り、帰国。森有礼の書生となる。
*17歳。放蕩のため大学南校を辞職。唐津藩の英語学校教員に。
*19歳。文部省の通訳になる。

この年齢に注目!こんなドラマチックな人生、なかなかない。

*35歳。官職を辞し、銀山事業参加のためペルーへ。
*39歳。日本銀行支配役。
*57歳。日本銀行総裁。

その後、政界でどんどん活躍していく。

そして運命の昭和11年2月26日の夜。

青年将校らは、この階段をのぼって、高橋のいる二階に向かったのだろう。
想像しながら、のぼってみる。

そして、ここで・・・

さっき年表で知った彼の人生、そしてまだ若い暗殺犯の人生。やるせなさ、辛さが込み上げてくる。

・・・・

この園に来たのは午後1時ぐらいだったが、なんと、もう4時だ。4時半には閉園だというアナウンスが流れる。急がないと!まだ半分ぐらいしか見ていない。

いわば、「ひと昔前の人の家を何軒か見てきただけ」だったのに、じっくり夢中で見るうちに、こんなに時間が経っていたとは!

タテモノを見ながら、そこにいた人の営みを想像した。時に自分の遠い記憶ともシンクロさせながら。

しかし、もう時間だ!
急いでやってきたのは、建築物が集められ、昭和初期ぐらいだろうか、ありし日の街のようすが再現されているゾーンだ。

まさに、タイムスリップ。
作り物ではなく、どれも実在した建物なので、雰囲気は本格的だ。

小さな看板ひとつひとつが、気になる。

大通りを一歩裏道に入った感じ。

手押しの井戸!
実際に見たり使ったりしたことはないが、今は「防災用」として行政が公園などに設置しているのは見たことがある。来るべき大震災の時は活躍しそう。

天平文化1200年って、何年のことだろう。

そろばん。
小学校でやったのを思い出した。
究めると電卓よりも速いと言われていたのを思い出した。今もそろばん塾はあるのだろうが、デジタル時代に、そろばんの良さを見直してもよいのかもしれない。

レジ。
さすがにこれは見たことないが。
ガチャガチャガチャ、チーン、という音は、今はさすがに聞かなくなった。

ああっ、警備員がやってきた。もう閉園の時間だと。

周りを見ると、私と同じような状況のひとたちがたくさん。
「はいはい、わかりました」と言いながら、急いで少しでも多く見ようとしている。警備員さんも、「急いでくださいねー」と、少し笑顔だ。

ここは、昭和4年建築、足立区千住元町にあった銭湯。

銭湯が「懐かしいもの」として展示されているのは、やっぱりショック。

自分は子供の頃はあまり行かなかったが、学生で上京してから部屋に風呂がないのでよく利用していた。大人になってからも、あえて時折行って、あのなんとも言えない気持ちいい空間を楽しんでいた。風呂上がり、腰に手をあててフルーツ牛乳、も。でも、もう何年も行ってないな。

それにしても、富士山の絵の下で湯につかるというのは、もう日常ではなくなって、こんな風にわざわざ銭湯の展示を見る時代になってしまったのか。

このショット。実は撮る時、ちょっと思春期の頃に戻った感じで、ドキドキした。
仕切り越しにスマホを高く掲げて撮ったのだが、隣の「女湯」を”激写”してしまったような背徳感で。😀 

覗いたお隣では、外国人観光客が、湯船の中に入って、記念写真を撮っていた。
警備員さんに「はい、はい、急いでくださいねー」と、笑顔で言われながら。

時計を見ると、閉園時間を過ぎている。急がねば!

都電なんかもあって、また撮ってしまう。

皆、最後の最後まで写真を撮りながらも、ゲートに急いだ。

ゲートでは、また、あの金木犀の甘い香りが見送ってくれた。



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きょうも最後までお読みいただき、ありがとうございました。
AJ 😀


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