見出し画像

【原作が先か、映画が先か】藤井道人が描く、儚くも美しい愛『余命10年』

先日、『原作が先か、映画が先か』という記事を書いた。思った以上に反響が良く、多くの方が一度は考えたことがあるテーマなのだと実感した。

この機会に、独特の切り取り方で原作小説を映像化した『余命10年』(2022年、藤井道人監督)を紹介したい。本作は、ただの映画ではないのだ。原作を映画として昇華し、また原作にバトンを渡す映画という捉え方をすると評価が変わってくる。

✴︎映画と原作の関係性

映画『余命10年』は、原作を改変しているのに、原作へのリスペクトを忘れていない。それどころか、この映画をあなた(原作者:小坂流加氏)に捧げますという言外のメッセージが伝わってくるほどに丁寧に映像化した作品だと言える。ある意味で原作小説のPR映像として映画が役割を果たした好例である。そのため、細かい描写とかにはツッコミを入れないスタンスでいこうと思う。

© 2022 映画「余命10年」製作委員会

✴︎映画の構成について

映画『余命10年』は、原作を最近読んだ人にとって、登場人物の設定や主人公の性格に違和感を覚えるかもしれない。しかし、この「ズレ」こそが本作の真骨頂だ。映画は原作に忠実であることよりも、原作の主人公・茉莉と、そのモデルとなった原作者自身の姿を巧みに重ね合わせていると考えられる。

この独特な構成について、監督の藤井氏は制作裏話で興味深い意図を明かしている。「原作を単に映画化するんじゃなくて、小坂さんが生きた証を、映画としてしっかり残したいなということでした」と語っているのだ。この言葉は、本作の核心を端的に表現している。

実際、本作は原作というフィクションの世界と、原作者の実体験というノンフィクションが絶妙に絡み合っている。特に映画では、原作者の家族の視点も加えることで、物語に厚みを追加している。これらの要素を融合させたことで、映画は単なる小説の再現を超えた奥行きを感じさせる。つまり、映画は純粋な原作の再現ではなく、フィクションとノンフィクションが交錯する独自の世界観を構築していると言える。

このような構成により、観客は原作の世界観を楽しみながら、同時に実在の人物の人生に思いを馳せることができる。「原作を純粋に再現した作品」というより、「とある小説家の自伝的な物語を映画化した作品」として捉えることで、より深い理解と共感が得られるのではないだろうか。映画は、原作の世界観を尊重しつつ、原作者の人生という現実の要素を織り交ぜることで、観る者の心を惹きつける作品に仕上がっている。

✴︎印象的なシーンと現代社会への問いかけ

名言のオンパレードというレビューを見るので、個人的に刺さったシーンを紹介。(正確な言葉は失念)

冬のスノボー旅行でプロポーズをする予定だった坂口健太郎。しかし、それを知った小松菜奈は急遽家に帰る。その後、しばらく2人で会うことはなくなる。坂口も東京に戻り、リリー・フランキーの焼き鳥屋で焼き鳥を焼いているシーンでの一言。

リリー・フランキー「で、どうなった?」

坂口健太郎「どうって」

リリー・フランキー「茉莉ちゃんのことだよ」

坂口健太郎「そうですね」

リリー・フランキー「ダメなら次だよ、次」

坂口健太郎「次なんかないんですよ」

個人的に、この「次なんかないんですよ」というセリフに心を鷲掴みにされた。というのも、昨今はマッチングアプリの影響か、インターネットのおかげか、SNSの普及か、色々あるが、人と人が簡単に会えるようになった、なってしまった。

その結果、自分と合わないと思った人には見切りをつけ、次の恋愛に切り替えるという流れが散見される。そんな時代背景もあるなかで、(この映画の原作が書かれた時点ではそこまでSNSは発達していないが)「次なんかないんですよ」というのは現代の次から次へと恋愛を乗り換える人に対するアンチテーゼになっていたと感じる。

一途に思える人、思いたい人がいるって良いなぁ!なんて思ってしまう今日この頃である。

© 2022 映画「余命10年」製作委員会

✴︎小松菜奈の成長

もともと好きな女優さんではあったが、映画『糸』を見て小松菜奈という女優を追いかけるようになった。この言い方だとストーカーみたいだな(笑)それは置いておくとして、『糸』を見た時に感じたのは、彼女はそのビジュアル以上に、表情や演技を通して醸し出す独特の空気があるということ。それが、まるで飲み込めない水の奔流をガブガブ飲んでいるかのようで、静謐な水の上に浮かんでいるように感じられた。これが俗にいう、スクリーン映えしていると表現するのかは分からない。しかし、他の女優さんにはない彼女だけが持つ雰囲気、ニュアンスというものがあったのである。

もちろん、他の女優さんには他の女優さんの良さがある。しかし、『余命10年』という映画にあえて小松菜奈をキャスティングするということの意味。彼女がスクリーンの中で何を表現するのかやはり気になってしまったので今作も鑑賞した次第である。

実際に視聴してみると、小松菜奈演じる茉莉は、原作の茉莉のイメージとはやや異なる。少々力強いというか、かなり自分の芯や意見を持っている人物として描かれるのだ。その意味において、原作小説で描かれる茉莉とは異なる。

しかし、小松菜奈によって演じられた映画版の茉莉は圧巻だった。原作の茉莉とも違う、現実の小松菜奈でもない。映像の中にいたのは、茉莉(小坂流加氏)だったのではないだろうかと思わされる。小松菜奈の演技を通して映った茉莉の存在が、私には小坂流加氏が実在した証のように感じられた。

✴︎余談

映画『余命10年』の監督の藤井氏は、小坂流加氏が花好きであるという話を聞いて、小松菜奈演じる高林茉莉が小説を書くデスクの周りには季節の花を飾って、その一つ一つに花言葉の意味を込めたと語る。(「余命10年」パンフレット、編集・発行:松竹株式会社事業推進部)
→デスク周りにもっと注目しておけば良かった。

© 2022 映画「余命10年」製作委員会

✴︎映像化の意義

多くの人に「肺動脈性肺高血圧症」という病気について知るきっかけを提供した本作はやはり映像化の意味があったと思う。
もろもろの感情面については原作の方が細かく丁寧に綴ってある。

また、本作は泣かされる映画として語られることが多いが、同時期に上映されていた『そしてバトンは渡された』よりも演出は酷くない。むしろ穏やか。

✴︎まとめ

この映画は、原作小説の魅力を引き出しつつ、独自の解釈を加えることで新たな作品として昇華させている。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?