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aiiroのこと 3

 いじめられたことはあるか。

 いつか見た何かの資料では、大半が「はい」と回答していた。意外なことにいじめたことがあるかに対しても大半が「はい」と回答したことだった。それが印象にに残っているから覚えている

 一因としては、定義の変化があるだろう。昔は(自分は生まれていないので想像だが)教員の注意や警察沙汰になってそれが数えられていたのだろう。それが今や、自分が”嫌”と感じるかどうかでの判定が下るために、割合が大きいのだろう。同様にやってしまったという後悔の思いが割合を肥大させているのだろう。

 自分が受け身に初めてなったのは幼稚園でのこと。年中になってからそれは始まった。自分はほかのクラスに入れてもらえなかった。当時はおふざけの一環と思っていた。だっていじめって言葉を知らなかったから。当然おふざけだと思っていたから、こっちもそのテンションでいた。

 だから、いじめというものを知ったとたん、それらが空虚なものとして降りかかってきた。おそらく小1ぐらいでだろうか。授業でいじめはいけませんよということを習ったのだろう。

 それが始まった原因は自分なりにある。やってきた側の子とは、元々中はよかった。少なくとも悪くはなかった。というのも親同士がそうだったから。放課後(幼稚園故に”課”はないが)に子ども同士が遊ぶので親同士が喋りいつしか話が膨らみ、子どもが待つというあの時間でのこと。

 相手のことジャングルジムで鬼ごっこをしていた。相手の子は飽きていたらしかったが、そうと言わないので、そんなこととはつゆ知らず、その子に鬼を渡したら、冷めきった顔で「もうやってないし」と言われた。

 多分これが原因である。なんちゅう些細なというか、でもこれ以上は思いつかない。もしかしたら、学年(という概念があったかは不確かだが)の中で一番人気の男の子と同じクラスになって、浮かれていたことに相手の子が嫉妬したのかもしれない。

 まあこんなもの。

 このことは誰かに言っても理解してくれる人というか、そうしようとする人にしか言っていない。だから、本当に片手の指でもお釣りが出るほどの人にしか言っていない。ただそれは対面での話。もしかしたら、見ず知らず、顔も名前も知らない人になら言ってもいいかというか、分かってもらえなかったと傷つかなくてすむのでは、むしろダメ元であるが故に「分かってくれた」だけで済むのではと思って今書いている。

 これはいわば@aiiroの原点。

 自分の心の闇の出発点はこの所に有る。

 今は自分がそれを被ることには悲しいかなで大丈夫だと思っている。それは「吾輩は猫である」の中で吾輩が「人間をもう少し苛めるものが必要だ」とのことを言っている(はず)。

 人間を散々に罵った後の一言。今は少しだけ高尚な何かに近づく機会だと捉えている。

 ただ人にそれが向いたときは別だ止めに行く。というより止めに行った。人にとってこの発想の転換ができるならしてみてほしい。

 無駄なことに手間取って血迷ってたなって笑える日が来るかもしれない。

 自分もその日を夢見ている

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