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#実践
はじめからコースの実践ができるわけではなく、それには学びと訓練を要するということ
自我に執着している自分をどうしたらいい?私たちがコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践において主眼とするのは、
自我という分離(裁き)の教師と共に見るか?
もしくは、
イエス、聖霊という赦し(平安)の教師と共に見るか?
そのどちらの教師と共に見るか?
そこに焦点を当てていくということです。
そして、赦し(平安)の教師、つまり、イエス/聖霊を教師することが、私たちが実践において求め
実践の中で学ばれていくことが「自学自習」の本当の意味である
学びとは、自分で自分に教え学んでいくことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の教えが次第に理解されるようになってくると、つまりある程度コース形而上学が理解されてくるようになると、そのコース形而上学すらも使って、兄弟に対してあるいは自分自身に対して、咎める、裁く、攻撃する、という経験をすると言うことができます。
なぜならば、兄弟が、そして自分自身が自我と同一化して、自我になってしまっているこ
コースの実践として、この世界で何か行動していくことはあるのでしょうか?
実践はすべて心のレベルで行われるものであるコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践として、この世界で何か行動していくことはあるのか?
というなら、
コースの実践は行動や形態とは一切関係がありませんということです。
つまり、実践として何か行動しなければならないことなど何も無いということです。
そのことについては、多くのスピリチュアリストが混同してしまっていますし、コースの学習者もそ
なぜ私たちはワプニック博士の教材で学ぼうとしないのか?
コースはそのほとんどが比喩で書かれてあるコース(奇跡のコース/奇跡講座)とはどのようなものか?
というなら、
もちろん、私たちをこの世界の夢から目覚める方向へと導く霊性の道であるということです。
いわゆる、非二元(ノンデュアリティ)のスピリチュアリティ(霊性の道)であると言うことができるわけです。
加えて言うなら、コースは心理学的な側面から語られているという点では、他の非二元のスピリチュ
コースでいう「自学自習」の意味について
教えているのは誰か?学んでいるのは誰か?スピリチュアリティ(霊性の道)の道を歩む際に、私たちは自分の外側に教師を作り出す、ということをします。
それがいけないということではありませんが、私たちはそのことについて十分に注意する必要があります。
とくに、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は自学自習(独習)で学んでいく霊性の道であるからして、気をつけなければならないことだといえましょう。