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A Course in Miracles 形而上学

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『A Course in Miracles』((奇跡のコース/奇跡講座)から抜粋した引用文にちなんたnoteコラム
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#疑問視

私は、私であるものを知らない

私は、私であるものを知らない

すべての概念が疑われ、疑問視され、いずれも光に耐え得るような前提に基づいてはいないと認識されるとき、真理は、罪悪感から自由で清浄な自らの聖域に自由に入っていくことができる。以下の声明以上に、世界が聞くのを恐れているものはない。

私は、私であるものを知らない。だから私が何をしているのか、どこにいるのか、あるいは、この世界や自分自身をどのように見たらよいのかも、知らない。

だが、この学びの中で救済

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イエスと共に見るとはどういうことなのか?なぜイエスと共に見るのか?

イエスと共に見るとはどういうことなのか?なぜイエスと共に見るのか?


価値判断なしに見る、あるがままに見るコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践では、自我を咎めずに見るということをしていきます。

「咎めずに」という意味は、価値判断(ジャッジメント)なしに、ということです。

それは、目の前に映るものをあるがままに、目の前で起こっていることをありのままに見るということです。

そのとき、平安と共に見ることができます。

それをコースでは、「イエスと共に見

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自分とは何者か?を思い出すことが目的なのだということ

自分とは何者か?を思い出すことが目的なのだということ

自分は誰か?と問うていきなさい私たちは何を目的にコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるのか?

というなら、真の自己(真のアイデンティティー)を思い出すことが目的であるということは言うまでもありません。

自分とは何者か?

私たちはその真実をまったく忘れているわけです。

それどころか、自分ででっち上げたニセモノの自分のほうを自分だと信じ込んでいる状態になっています。

だからこ

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あなたは自分が正しいことと、幸福であることのどちらを好むだろうか

あなたは自分が正しいことと、幸福であることのどちらを好むだろうか


自我の精神力動について私たちは理解しなければならないこの世界にいる私たちはみんなゴシップが大好きです。

ようするに、他の誰かを裁いたり咎めたりするのが心地いいわけです。

というのも、そうすることで自分はまともで、潔白で、無垢だ、善人だとすることができるからです。

コースの観点から見るとき、誰かを裁いたり咎めたり批判したりしているその自分は、「自分はまともで、正気で、正しくて、優秀で、罪なき

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今(プレゼンス)という聖なる瞬間

今(プレゼンス)という聖なる瞬間


見ないでいることにより、幻想が保護されている非二元のスピリチュアリティでは、私たちが体験している苦痛や苦しみは幻想(夢)であると教えてくれています。

だとしても、私たちにとってはとてもリアルなものです。

例えば、ネガティブな感情(不安や不平不満)を感じているとして、それが幻想だとはとうてい思えるものではありません。

言い換えるなら、だからこそ、私たちはそれらを直視しなければならないというこ

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このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である


自分は分かっている自分が誰なのか?について、そして、この世界がどういうものなのか?について、私たちは「自分は分かっている」「自分は知っている」と思っています。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の観点から言えば、「自分は分かっている」「自分は知っている」と思っていることが、自分たちをまったくの無知(狂気)の状態にしているのだということです。

自分が知覚しているもの、思考しているもの、

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あなたは自分が正しいことと幸福であることのどちらを好むだろうか

あなたは自分が正しいことと幸福であることのどちらを好むだろうか


私たちは自分の見ている世界と闘っている自分が見ている外側の世界に対して「これでいい、OK」とは見てないなら、つまり、不平不満を抱いているとしたなら、

それは、闘っているということです。

なんでこうなのだ、、、そうじゃない、、、あぁなるべきだ、、、こうでなければならない、、、あぁでなければならない、、、というふに、外側の世界を変えようし続けているということが闘っているということなのです。

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もっとも高尚な考え(想念)とは?

もっとも高尚な考え(想念)とは?


最も高尚な考え別の見方があるかもしれない。

私は、なにか間違っているにちがいない。

私は、本当はこの私ではないのかもしれない。

そのように考えていくことが、(自我と同一化してしまっている私たちにとって、)可能な最も高尚な考えであるとコースのイエスは教えてくれています。

さらにいえば、そのように考えていくことが コース学習者である私たちに求められていることだといえます。

つまりは、私たち

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自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直す

自我を教師とする代わりに聖霊を教師として選び直す

今、自分はどちらの目的で見ているか?コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践で、私たちは何をしていくのか?

というならば、

自我を教師とするか?聖霊を教師とするか?

そのどちらの教師を選択するのか?ということにフォーカスしていくということです。

ただし、まず、その実践以前に、

「自我を教師とする」とは?
「聖霊を教師とする」とは?

ということについて、コースの形而上学をしっかり

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