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言語と感情が過多な時代

 上海に赴任して初めての年末年始。忘年会をするところはやはり日本人向けの居酒屋。日本語が飛び交う空間に身を置くとなんだか疲れてしまった。これは何を意味するのだろうか。

私の今置かれた環境は大半の時間、日本語をビジネスで使う中国人に囲まれている。皆が一様にビジネスにおいては全く問題ないレベルで、日本語を操っている。ただ言葉自体には我々日本人のネイティブほどの感情は伴っていない。(彼らが母国語の中国語を使うときはもっと楽しそうだし、いつも怒っているし、もっと大袈裟だし、本来は感情豊かな人達であることは言うまでもない。)

一方で居酒屋の日本人の日本語は無意識レベルで様々な感情が搭載されており、それを私は逐一スキャンして解釈してしまう。表面的なフレーズにある含意、裏側や背景を執拗に読み取ろうとしている。恐らくこれが疲れる理由だろう

 言葉とは伝達ツールであり、純粋に意思疎通をはかるためとされているが、無意識レベルで言外の意味するところを双方で常に探っている。中国人の使う日本語には言外に意味する領域は少ないが、日本人におけるそれは多重多層の意味を持っている。そしてそれをかなりの精細度でネイティブは読み取ってしまう。普通のフレーズであったとしてもその声色やタイミング、状況からその意味は何重にも読み取れる。特に悪意や皮肉や自己顕示などネガティブな要素は非常に読み取りやすい。

 日本の忘年会は基本的に会社組織の会合であり、そこにはマウンティングやおもねりやおべっか、複雑な駆け引きがなされている。前述の居酒屋で聞こえてきた日本語はこのゲームの一部だ。別に会社組織でなかったとしてもある一定のサイズの集団であれば、同じ構図。数年前からこれが苦手で極力そのような会合は避けていた。コロナ禍でそれが加速して自分の免疫力が激減したように思う。

 中国人も中国人同士であれば同様。例えば中国人の同僚は今難しい交渉を中国の会社と行っており、通訳してもらって私も同席することが多い。彼はその交渉の中身より、相手の言い方、立場として自分が上だということを示しながら議論をしてくるのが精神的に辛いと吐露している。中国語がまだほとんど理解できない私には全く感じれないところ。もし理解できるようになったとしても言外に示すそれは外国人の私には多分読み取れないように思う。(外国語でもそれを読み取れるようになればそれはそれで素敵なことだが、新たなストレスを呼ぶことになるかもしれない。)

 言葉とは何かを語り、同時に語っている以上のことも表現している。それがプラスに働けばロマンチックな表現となって人をうっとりとさせたり、笑いを生んだり人を笑顔にすることができる。ネガディブに働けば無意識に他人を傷つけたり、自分の感情が漏れ出たりして周りとの軋轢を生む原因となる

 更に続けると、ある一定人数を超えた飲み会が苦手なのは、個別の深い対話ができずに表面的な言葉の往来に終始するためだと思っていた。それよりも表面的な言葉であるからこそ言葉以上の意味を持ってしまう構造であり、条件だという側面。そこに潜むリスクは少なくない。集団における一つの発言はその意味を何重にも深読みする必要があり、同時に自分の発言もその対象であるためだ。誰がどのタイミングで何を発言したか、その時に周りはどのような反応をしているかも含めて適切な振る舞いと言動が求められる。

 2〜3人までの会話は問題ないけれど、それを超えるとどこかストレスに感じていたのはこのような背景があると思う。少人数の場合は新しい共通理解を形成するための無防備でオープンな対話にあるが、少しでも規模が大きくなると自然と駆け引きのような政治色を帯びるようになる。仕事では当然必要なプロセスだが、プライベートでは極力そこからは距離を置きたい。まあ、忘年会や新年会は結局、仕事の一部に過ぎず身構えて時間を過ごすべきである。そもそも楽しむものでも、リラックスするものでもない。忘年会/新年会という会議である。

 言葉とはコミュニケーションであるという一般理解は正しい。その正しさに留まる限り言外で誰かを傷つけたり、誰かの感情を逆撫でしたりする。そしてコミュニケーション以上の意味を据えると言い淀んでスムーズな発話ができなくなる。

 話す価値のあることがなければ話さなければ良い。それでも社会では発言するとや表現することが強く求められる。話す必要がなければ話さなければ良い。それにも関わらず人は本能として言葉を使ってどうしても話しをしたい生き物でもある。

 今は言葉ではなく、言葉になる前のもの、言葉を誘発し得る何かが不足している。自然や人間、カタチのあるものだったり出来事だったり、純粋な事実や存在がそれを意味する。言葉が情報化社会でウェブの記事、SNSや動画サイトなどで溢れかえり、言葉の価値がデフレ化しているように感じる。言葉に感情が乗かっているという事実からすれば、感情も過剰に溢れかえっている時代とも言えようか。

 人間の存在に対して言葉と感情が過多である相対的に存在が減衰して、存在する尊厳が損なわれていく。社会が饒舌になればなるほどそれが加速する。私たちは少し自制するべきかもしれない。今こうして書き連ねている言葉も巡り巡って自分の存在を、足場を切り崩しているようなものなのか。まだ言葉の足らない子供達のあの圧倒的な眩しすぎる存在感はこの現象と対比させると腑に落ちる。

 2024年の年初めは大地震と飛行機事故で日本は大打撃を受けた。当事者たちは必死に逆境に抗っているのに、周りが必要以上に騒ぎ立て混乱している。その混乱の一部は現代の言葉の過剰さ、感情の暴発に起因している。そして空回りの感情が混沌を生んでいる。数々の大物芸能人のスキャンダルも然り。自分のやるべきことを実直に黙って遂行するという感性や美徳を我々は失って久しい。

 どこかの新聞にある言説のような言い回しが我ながら空々しい。このようなことを綴ること自体がやはり私自身の存在を軽くしてしまうことを端無くも説明している。

イラスト引用: chojugiga.com


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