mika

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mika

Freelance Designer ... editorial . graphics / デザイン / 写真 暮らしと、カメラと、デザインとのこと。

マガジン

  • 祖父と原爆

    1945年 8月9日、祖父は長崎に落とされた原子爆弾の下にいました。 終戦から77年、祖父が後世に伝えるために残してくれた手記を公開します。

最近の記事

ぜったいに、せいこうさせようね

今年も残すところあと少し。やっと2023年の手帳を買った。 手帳を買う時は来年のラッキーカラーを調べることがいつのまにかお約束になっていたけれど、今回は一番ビビビっときた色を選ぶことにした。 朝の凪いだ海のような、白藍の表紙。 穏やかだけど力強い一年にしたい。そんな想いを込めて。 ちょうど今日は冬至。これから陽が長くなって、すべての運が上向きになりはじめるとされる「一陽来復」。タイミング的にも良いことが起こりそうなので、さっそく新しい手帳に来年の目標を書くことにした。 ひ

    • めくるめく、私たち

       東京オリンピック開会式の日、友だちの家へ遊びに行った。2人目の女の子が誕生したので、ニューボーンフォトを撮って欲しいと声をかけてもらったのだ。彼女の住む豊洲の高層マンションからは、オリンピック会場とウイルスで静かに沸き立つ街が見下ろせた。  それから一年とちょっと。ふたたび彼女の家を訪ねると、新しい小さな命が産まれ、あの時の小さな赤ちゃんは立派なお姉ちゃんになっていた。  子どもの成長はなんて早いんだろう。  この子の寝息を数えている間、私の時間は止まっていたのだろうか

      • 台風のこども

        今朝、母から「生まれた時のような台風だった」とLINEがとどいた。 私の誕生日にきまって語られる母の武勇伝がある。 「あなたが産まれたのはタクシーもいない台風の夜で、お母さん陣痛のお腹をさすりながら自分で運転して病院に産みに行ったのよ。」と。 子どものころは事態をよくわかっておらず、すごいね、大変だったねと、なんだか母親が得意げだから凄いんだろうと素直に受け取っていた。 いつからかな、「いやいや、普通に危なすぎるから誰か呼べばよかったのでは」とちょっと冷めた心で思うよう

        • 【祖父と原爆】 孫のあとがき

           幼い頃の夏休み、祖父は毎年きまって長崎で被爆した時の話をしてくれました。いつもは優しい祖父の目が、その時だけはぎらぎらとして遠くを見ていました。まるで食卓にならんだお魚の煮付けのようにーー。  わたしはそれがとても怖くて、夏の稲川淳二よりもずっと怖くて、祖父の話にしっかりと耳を向けられなかった。そのうち部活や塾を理由に祖父の家に遊びに行く回数はどんどん減り、夏恒例の祖父の戦争話もしだいになくなっていきました。  再び祖父の被爆体験の話に触れることになったのは、祖父が亡くな

        ぜったいに、せいこうさせようね

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        • 祖父と原爆
          28本

        記事

          【祖父と原爆 25(完)】 ふるさとへ

           兄は9月22日頃再び川棚病院に僕を迎えに来てくれたので、医者と看護婦に厚く御礼をして退院した。顔から喉・肩にかけ包帯をし、両腕は肩から吊るせるようにして、しかも苦痛を少なくするため胸から下にならないよう注意して病院を出た。  親身になって僕を心配し、自宅でできた果物を毎日のように届けてくれ、おも湯をスプーンで口に運んで飲ませてくださったり、お風呂に入れない僕の体を拭いてくれたり、あるいは体から吹き出る汗をうちわで扇ぐ等等、長い間看病していただいた美しい短大のお嬢様に御礼し

          【祖父と原爆 25(完)】 ふるさとへ

          【祖父と原爆 24】 兄との再会

           9月10日頃であったと思う。  お寺の全患者は川棚海軍病院に移ったが、なんとか歩ける患者はトラックに乗せられた。川棚病院はお寺と違い病室も広く、板の間に敷き詰められた煎餅布団とは大変な違いで広い寝台で医療設備も完備し非常に心強く気が休まり安心した。川棚病院に引っ越した頃から家族に引取られて郷里に帰る患者が急に多くなった。  川棚病院に移った9月15日過ぎ頃、「原田さん御面会です」と放送があった。僕に面会しに来る人は誰もいないのに誰だろうと不思議に思ってベットに起き上がり入

          【祖父と原爆 24】 兄との再会

          【祖父と原爆 23】 鏡のない看護

           8月20日を過ぎたある朝、何気なく自分の顔を見たいと思い看護の人に聞いても、鏡は無いとの一点張りであったが、しつこく聞いたら、お寺の鏡は全部撤去され外からの鏡の持ち込みは全て禁止されており、今は全く無いとのことであった。  その訳を聞くと「皆さんの顔はあまりにもひどい火傷ですから、自分の顔を見てもらいたくないからです」とのことであった。僕は男だからまあ諦めるとしても、ケロイドで覆われ醜い自分の顔を見た人が女性であったらと思いゾっとした。  その後自分の傷の痛みに気をとられい

          【祖父と原爆 23】 鏡のない看護

          【祖父と原爆 22】 右耳

           8月も終わりに近づき熱も下がったある日、右耳の中で「ぐず、ぐず」と音がしてこそばゆく気持ちが悪く、また数日前から右方向からの音が聞こえにくいのに気付いていたので、治療の時医者にその旨申し出た。  医者は反射鏡で僕の耳を見て「耳いっぱいに大きなうじ虫がわいているよ」と言いながら、ピンセットで大きなうじ虫を一匹また一匹とつまみ出しては紙の上に置き、全部で十五匹数えたのを覚えている。  「耳の中にこれ程のうじ虫がはいれる空間があるとは知らなかった。もちろん鼓膜は破れその奥までう

          【祖父と原爆 22】 右耳

          【祖父と原爆 21】 生死の境

           お寺の収容所に入って2・3日後であったと思う。  朝寝床から立ち上がって周囲を見ると、寝床の片付けられている数が昨日までと比べてあまりの多いのに驚きながら便所に急いだ。  昨日まで便所はきれいに掃除されていたのに、今朝の便所は異臭が漂い唖然となり足の踏み場もなく血のついたうんちが一面に散らばっている有様であった。  当時の便所は、土に穴を掘って肥え瓶を置いた簡単なもので、穴の中を覗くと、中は普通のうんちではなく赤い血の混じったようなどす黒いもので溢れており、鼻がもげるような

          【祖父と原爆 21】 生死の境

          【祖父と原爆 20】 8月15日 静かな空

           高熱が続いているある日、今まで毎日定刻になると聞こえていた敵機グラマンの爆音が聞こえないのを不思議に思い、何気なく看護の人を見ると、皆さんはうち沈んだ態度で黙り込んでいる人、ハンカチを当てて泣いている人・人、押し黙ってむっつりしている人・人・人。  異様な雰囲気にその理由を聞いてもすんなりと教えて貰えず、しつこく聞いてやっと教えてくれた。  患者さんには絶対に話してはいけないとの命令があったのでそれを約束させられた後、「日本が戦争に負けたので天皇陛下がラジオ放送されるそう

          【祖父と原爆 20】 8月15日 静かな空

          【祖父と原爆 19】 三途のお花畑

           朝早くからうるさいように鳴く蝉の声で目を覚まし、はっと我に返ると火傷の痛みにさいなまれ、お寺の仮病院の板の間に収容されている自分に気付いた。今朝も周囲を見回すと、昨夜板の間にびっしりと敷き詰められた患者の布団が点々と片付けられて空いているのを見て看護の人に聞くと、昨夜も数十人が亡くなったとのことであった。  今日は我が身かと思うと悲しくも哀れであった。しかしこの感情もつかの間のことで、傷の痛みに打ち消され苦痛の一日が始まった。夕方になると、亡くなって空いていた板の間はいつ

          【祖父と原爆 19】 三途のお花畑

          【祖父と原爆 18】 蝉時雨

           お寺の本堂で一夜を明かし、ジージージーとうるさい蝉の合唱で目が覚めた。今日も真夏のいい天気だなと思った途端に、傷の痛みを感じて大変な火傷を受けている現実の自分に返り、痛さに悩まされる一日が始まった。  今生きている幸運な自分と、今から傷の痛みに耐えなければならない自分の不幸を見比べるも、痛みのため頭の中は漠としてなにも浮かばないまま、いつの間にか聞き慣れたうるさい蝉の声に心を紛らわしている自分であった。  痛みを堪えつつ辺りを見ると、昨日は負傷者でお堂は溢れていたのに、

          【祖父と原爆 18】 蝉時雨

          【祖父と原爆 17】 お寺の療養所

           治療の場所は本堂の表階段を上がった縁先に近い明るい所におかれ、順番を待って全員が治療を受け終わったのは夕方遅くになっていた。  僕は午後に呼ばれて、シャツを脱ぎ上半身の火傷を丁寧に消毒した後その上に黄色い粉薬を振り掛け、その上に薬液をしみ込ませたガーゼで覆った。軽く包帯を巻いて終わりであったが、火傷の面積が広いので額から腹まで上半身の大部分は包帯で覆われてしまった。  帽子を被っていたので頭と両目と息するための鼻の一部を除き、他の全てに包帯が覆われていた。耳・喉・両肩・両

          【祖父と原爆 17】 お寺の療養所

          【祖父と原爆 16】 長い一日を抜けて

           食べ終わってから間もなくして汽車は何の放送もなく動き出したが、しばらく走った頃小さな駅に着きまた動かなくなった。間もなく、キーンという敵戦闘機グラマン特有の肝をえぐるような薄気味の悪い音が聞こえたかと思う間もなくダ・ダ・ダ・ダ・ダーという機関砲の音がしたと同時に、バン・バン・バン・バン・とすぐ近くで破裂する音がした。 生きた心地がしなかった。  最初は列車に斜め方向から、次は縦方向からと4・5回銃撃してきたが、幸い汽車は無傷であった。痛さに耐えるのに懸命であり、または死

          【祖父と原爆 16】 長い一日を抜けて

          【祖父と原爆 15】 星明かりのおにぎり

           僕らの救援列車が畑の中に停車した時、助かる望みで集まって来た負傷者の中には畔道で永遠の旅路につき横たわったまま動かない死者が多かったことが哀れでならなかった。  僕も多くの死骸を横目で見ながら傷の痛みに耐え、渾身の力を振り絞って汽車の方へと心は急ぐも、暗い星明かりのもと畔道をぬいぬい、動かなくなった死骸を避けながらの道行きで遅々として進まなかった。  やっとの思いで汽車まで来てみると線路脇からデッキまでの高さがあまりにも高く、デッキになかなか足が届かなかった。自力でやっと

          【祖父と原爆 15】 星明かりのおにぎり

          【祖父と原爆 14】 夕暮れの汽笛

           負傷者と死人で溢れている線路近くの畔道に来て、夕日を背に立ったり座ったりして火傷の痛み耐え、助かる一途の望みを汽車い託し、汽車の来るのを待つ時間がいかに長かったことか。  太陽は西に落ちて夕暮れ迫る頃になって汽笛の音を聞いた我々は、助かる希望から痛みを忘れて立ち上がり、あるいは喚声を上げる人もいたが、それもつかの間のことで、汽車は我々の近くを通過して長崎の方に行ってしまった。通過した汽車が腹立たしくも恨めしく、助かる頼みの綱も切れたのかと諦め、力なく座り直して痛みに耐えね

          【祖父と原爆 14】 夕暮れの汽笛