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【祖父と原爆 24】 兄との再会

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 9月10日頃であったと思う。
 お寺の全患者は川棚海軍病院に移ったが、なんとか歩ける患者はトラックに乗せられた。川棚病院はお寺と違い病室も広く、板の間に敷き詰められた煎餅布団とは大変な違いで広い寝台で医療設備も完備し非常に心強く気が休まり安心した。川棚病院に引っ越した頃から家族に引取られて郷里に帰る患者が急に多くなった。

 川棚病院に移った9月15日過ぎ頃、「原田さん御面会です」と放送があった。僕に面会しに来る人は誰もいないのに誰だろうと不思議に思ってベットに起き上がり入口の方を見ると、入口に次兄が立っているではないか。

 僕は予想だにしていなかったあまりのことに瞬間ただ呆然となっていたが、兄の顔を見たとたん嬉しく涙が出て暫く声にならなかった。
 僕は両手を上げたままベットから立ち上がり兄を呼んだ。兄は僕の顔が分からず暫くはキョロキョロと周りを見渡していたが、僕の声を聞いて初めて僕に気付き急ぎ歩み寄ってきてくれた。

 上半身裸で顔から喉・肩まで一面包帯が巻かれ、また両腕は指先まで包帯に囲まれている僕をこれが弟なのかと、しばし呆然として僕を見つめるのみで声はなかった。

 兄を目の前にして僕は嬉しさに改めて涙が出て止まらなかった。兄は僕のあまりにも変わりはてた姿にしばらく僕の体をしげしげと見渡していた。

 終戦後僕からの連絡がないのに心配した両親と兄弟は相談して、僕がいた長崎の寮や市役所を捜しに兄が長崎に来たが分からず、兄は一応郷里に帰った。
 僕の手紙を見て兄は食糧をリュックに入れて再び家を出、僕がいたお寺の仮収容所に行き、川棚の海軍病院にいることを捜し当てたそうである。

 原爆の状況や、僕の傷の状態等など話は尽きる事なく長々と遅くまで続いた。兄は僕の無事を喜ぶと同時に、郷里にいる両親にそのことを一日も早く伝え安心してもらうため、食糧や果物を残して翌日郷里熊本に帰っていった。

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