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【祖父と原爆 25(完)】 ふるさとへ

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 兄は9月22日頃再び川棚病院に僕を迎えに来てくれたので、医者と看護婦に厚く御礼をして退院した。顔から喉・肩にかけ包帯をし、両腕は肩から吊るせるようにして、しかも苦痛を少なくするため胸から下にならないよう注意して病院を出た。

 親身になって僕を心配し、自宅でできた果物を毎日のように届けてくれ、おも湯をスプーンで口に運んで飲ませてくださったり、お風呂に入れない僕の体を拭いてくれたり、あるいは体から吹き出る汗をうちわで扇ぐ等等、長い間看病していただいた美しい短大のお嬢様に御礼したく自宅にお伺いしたが、留守でお会いできなかったのが残念でならなかった。
 今一度お会いして御礼を申しあげたいが、傷の手当と、食糧も家も無い戦後の混乱期を過ぎるあいだに、お嬢様を捜し当てる資料が無くなり今では捜すこともできず、あまりにも身勝手とはいえ申し訳なく慙悸のいたりでならない。

 帰りの汽車の時間もあり兄にせかされるまま心を残して汽車に乗った。汽車の中でも両腕を心臓より高く保つのに苦労し、火傷の痛みをこらえるのに気を使い、窓の景色を楽しむ余裕はなく、兄とぼそぼそと話しているうちに熊本に着いた。

 熊本駅を降りると市の大部分が空襲で焼け野が原となっている中をタクシーで両親の疎開先である木山町に帰った。

 僕は自分のあわれな姿を両親には見せたくなかった。顔から喉にかけての皮膚は火傷の痕がまだジュクジュクした上に一面包帯で覆われ、指先まで包帯で巻いた両腕を肩から吊っている姿はあまりにも哀れであった。
 変わり果てた息子の姿を見た両親や姉は、前もって兄から聞いてはいてもしばし呆然としていたが、すぐに現実に戻り手を取ろうとしたが、指先まで包帯を巻かれ手を取り合うこともできず、ただ嬉し涙にくれた。

 子供がどんな姿になっていても、無事に帰ってくれたことを心から喜んでくれる両親を見て、僕は姿形は変わっていても帰って来たことを実感した。


 僕は帰って来たことを心の底から喜び、涙があふれ、男泣きに泣いた。

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