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【祖父と原爆 18】 蝉時雨

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 お寺の本堂で一夜を明かし、ジージージーとうるさい蝉の合唱で目が覚めた。今日も真夏のいい天気だなと思った途端に、傷の痛みを感じて大変な火傷を受けている現実の自分に返り、痛さに悩まされる一日が始まった。

 今生きている幸運な自分と、今から傷の痛みに耐えなければならない自分の不幸を見比べるも、痛みのため頭の中は漠としてなにも浮かばないまま、いつの間にか聞き慣れたうるさい蝉の声に心を紛らわしている自分であった。

 痛みを堪えつつ辺りを見ると、昨日は負傷者でお堂は溢れていたのに、今は点々と櫛の歯が抜けたように布団がなくなっていた。
 看護の人に聞くと、夜中に亡くなった人の布団は片付けましたとの答えに唖然となったが、午後には新しい患者で満席となり、その現象はその後毎朝続いた。その後2週間位の間は傷の苦痛に耐え、高熱にうなされる日々が続き、時間の経過や手厚い看護をしていただいた人々の顔など僕の記憶に薄く、身勝手な自分と思うも以下の記述を除いて思い出せず、その前後も判然としないのが残念でならない。

 朝食を終わった頃、軍医・看護婦の人々が到着し当日の治療が始まり、僕も午前の治療が日課となった。
 前日の治療で薬液に浸し患部にあててあったガーゼを外し、患部をきれいに洗うのが看護婦の最初の仕事である。僕の場合、毎日乾燥しているガーゼを傷口から外すのに、看護婦さんは情け容赦なくガーゼの一部を握った途端バリーっと一気に剥がされた。
 あまりの痛さについ悲鳴をあげてしまった。看護婦は「これくらい、痛くない」と言うが、この痛さを知らないからよく言えるものだと憤慨し、また軍医はこれを横目で見ていても冷ややかに泰然としているのが腹立たしく思ったが何も言えなかった。
 ガーゼを外すのが一箇所ならいざしらず、顔・喉・胸・肩・腕と上半身に付いている全てのガーゼを同じ方法で剥がされていくので、僕にとってはたまったものではなく途中で待ってくれと頼んだが、看護婦二人は左右から情け容赦なくアッというまもなく終わってしまった。
 ガーゼを剥いだ火傷の痕を消毒して粉薬を振掛け、その上に薬液を浸した冷たいガーゼを付けられると、傷口がひんやりと感じ何とも言えない良い心地がして、ガーゼを剥ぐ時の痛さがなければ一日に何回となく取り替えてもらいたいと思った。

 治療内容は毎日同じで、僕と同じようにガーゼを剥ぐ時の苦痛や悲鳴は退院するまで毎日聞かされた。

 僕にとって大変な幸運が舞い込んできた。
お寺の看護所に来てから数日後から、奉仕のお嬢様方の中でも長崎女子短大の美人に、つきっきりで僕の看病をしてもらえたからである。
 彼女は朝、看護所に来る時、トマト・きん瓜・西瓜等の自宅で出来た果物を毎日持ってきて食べさせてくれ、僕の食事の世話や、手の使えない僕の体を毎日水で拭き清める等かゆい所にも手が届くようなお世話をしてくれたことを心から感謝した。
 お寺の周囲は林で囲まれた丘の上にあり、お寺内の扉は全て取り外されていて、数百人の火傷の患者から出る皮膚が焼けた特有な匂いと、そこが化膿した後の膿みから出る匂いが建物中に蔓延している異臭に耐え、それに集まる蝿や蚊を追っ払ってもらったお嬢様の天使のような奉仕の看護により現在の僕があることを思うと感謝にたえない。

 お寺の看護所にきてから毎日定期的に繰り返される敵機の空襲の度に最初の日は防空壕に避難したが、その後は熱が出て、傷の痛みに耐え気もうつろになった僕は、またかと思うのみで起き上がる気もなく、また空襲の怖さより現在の痛みの苦しみに耐えるのが先で、怖い心を超越して避難する気持ちも起きなかった。

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