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【祖父と原爆 16】 長い一日を抜けて

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 食べ終わってから間もなくして汽車は何の放送もなく動き出したが、しばらく走った頃小さな駅に着きまた動かなくなった。間もなく、キーンという敵戦闘機グラマン特有の肝をえぐるような薄気味の悪い音が聞こえたかと思う間もなくダ・ダ・ダ・ダ・ダーという機関砲の音がしたと同時に、バン・バン・バン・バン・とすぐ近くで破裂する音がした。

生きた心地がしなかった。

 最初は列車に斜め方向から、次は縦方向からと4・5回銃撃してきたが、幸い汽車は無傷であった。痛さに耐えるのに懸命であり、または死を観念したか、誰一人として声を出したり動く気配は全くなかった。
 僕自身も同様に観念して頭に両手を置き身を小さくしていた。敵機に立ち向かっていく日本の戦闘機も、地上から迎え撃つ高射砲の音も聞こえず、安心して我が物顔に飛ぶ敵機は汽車の煙突の明かりを目当てに銃撃してきたものと思われる。汽車はその場所の長く止まっていた後、何の前触れもなくゆっくりと動きだした。

 経験した事の無い目まぐるしい一日と、上半身の火傷の苦痛に耐えてきた肉体的・精神的苦労が重なり、さすがに睡魔には勝てず、席に後ろ向きに座って両手を背もたれの上に置いて、いつのまにかうつらうつらしては目が覚め、これを何度となく繰り返し、しばしの仮眠をとることが出来た。

 ガタン・ガタンと列車の止まる振動で目が覚めて周囲を見ると、朝の薄明かりのなか見知らない小さな駅に着いた。郷里が長崎の一ノ瀬君の話で川棚駅であることが分かった。
 駅には看護の人や町の人々が集まっていて、歩ける人は汽車から降りるように指示があり大半の人は自力で降りたが、降りるのに困難な人は町の人々が親切に手を貸して降ろしてもらっていた。

 駅から正面方向にだいぶ離れた小高い丘の上にあるお寺が我々の看護所となった。歩ける僕は両手を胸より高く上げた状態で看護所に行ったが、これで助かったとう嬉しい実感が先にたち、看護所にどう行ったか記憶にない。

 大きなお寺の本堂の板張りの上には、煎餅布団が縦一列に数縦列にわたり約200枚位敷き詰められていた。
 思えば布団の上に横になったのは前日の朝から27・8時間ぶりのことであった。僕らがお寺に着いた時には、半分位先客で詰まっていたが、一ノ瀬君と二人頭を並べて横になれたのは幸いであった。

 布団に横になっても僕の手は心臓の位置より高くなるよう、また両腕もできるだけ高くするため肘から指先は上に立て、休む時にはやむをえず腹の上において寝た。

 お寺には海軍の軍医数名と看護婦十数名が、患者の治療にかいがいしく立ち働いているのを見て心から感謝した。

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