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【祖父と原爆 22】 右耳

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 8月も終わりに近づき熱も下がったある日、右耳の中で「ぐず、ぐず」と音がしてこそばゆく気持ちが悪く、また数日前から右方向からの音が聞こえにくいのに気付いていたので、治療の時医者にその旨申し出た。

 医者は反射鏡で僕の耳を見て「耳いっぱいに大きなうじ虫がわいているよ」と言いながら、ピンセットで大きなうじ虫を一匹また一匹とつまみ出しては紙の上に置き、全部で十五匹数えたのを覚えている。
 「耳の中にこれ程のうじ虫がはいれる空間があるとは知らなかった。もちろん鼓膜は破れその奥までうじ虫は居ましたよ。消毒は十分しておきましたのでもう心配はいりません。しかし鼓膜は外力により破られたものですから時間がたつと治りますが、元の状態にまで聞こえるかは分かりません」と言われた。

 今でも右耳は少し難聴で電話は必ず左耳で聞くことにしている。小さい声は聞き取りにくく、人には聞こえていても僕には聞き取れないことがしばしばあり、今でも苦労している。

 目を閉じるとお花畑や果樹園を彷徨い歩いて高熱にうなされる時が過ぎると、また火傷による苦痛を一日中感じるようになったが、他に別な苦痛が一つ増えた。
 それは今まで気付かなかった床擦れにより腰に出来た寝だこの痛みである。お寺の板張りの上に煎餅布団を敷いた上に長い間上を向いて寝たきりで、しかも暑い夏で腰には汗疹ができ風呂にも長い間入らず、横を向くと火傷の傷に当たりそれも出来なかった。
 ほんの少し腰の角度を変え、またずらしては少しでも痛くないところを探す有様で、その苦しみは経験者でなくては分からない新しい苦痛が始まった。

 昨夜のうちに死亡された患者の寝床は片付けられた虚ろな空間が三人に一人あるいは四人に一人と空いている毎朝であり、また夕方にはいつの間にか新しく運び込まれた患者で満員となっているお寺の御堂であったが、僕の熱が下がり意識がはっきりしてきた頃になると毎朝亡くなる人の数がいくらか減ってきた。

 それでも夕方にはいつも満員になっているのを見ると、治療を受けられない人々が町に大勢いるのに反し、原爆が落とされた翌日から治療を受けられた自分達が不幸中の幸いであったことを感謝した。
 しかし8月末頃ともなると朝亡くなっている人はめっきり減っていった。

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