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【祖父と原爆 17】 お寺の療養所

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 治療の場所は本堂の表階段を上がった縁先に近い明るい所におかれ、順番を待って全員が治療を受け終わったのは夕方遅くになっていた。

 僕は午後に呼ばれて、シャツを脱ぎ上半身の火傷を丁寧に消毒した後その上に黄色い粉薬を振り掛け、その上に薬液をしみ込ませたガーゼで覆った。軽く包帯を巻いて終わりであったが、火傷の面積が広いので額から腹まで上半身の大部分は包帯で覆われてしまった。
 帽子を被っていたので頭と両目と息するための鼻の一部を除き、他の全てに包帯が覆われていた。耳・喉・両肩・両腕・指先・胸・腹まで全て包帯が巻かれていた。

 最初に軍医が僕の火傷を見て「火傷の上に何か塗りましたか」と聞いたので、植物油が無いのでやむをえず機械油を塗ったことを答えると、「治りも早いし、治った後の傷痕が少なくなります。良い応急処置をしましたね」と言われた。

 治療を受けた後で気のせいか火傷の痛みが薄らいだように感じたが、それは乾いて引きつっていた皮膚の傷痕に薬液が浸透して冷たく軟らかくなって湿布の効果と心の安らぎからくるものと思った。
 医師の治療を受け痛みが薄らいだ安心感から気が緩み、空腹を忘れて夜までぐっすり眠り込んでしまった。

 目が覚めると外は暗くなっていたが、空腹には勝てず、看護に来られている奉仕の女性に手まねで食事をお願いした。
 嫌な顔ひとつせず梅干しの入ったおも湯を持ってきてくれ、僕のオチョボ口のようにしか開かない小さな口に少しずつ垂らし込んでもらい、梅干しは小さく千切って口に入れてもらった。
 そのおも湯のおいしかったこと、今でも忘れられない思いでいっぱいである。辛抱強く時間をかけておも湯を口に入れてもらった奉仕のお嬢さんに、心から嬉しく感謝の思いで一杯であった。

 食事している時でも両腕の肘から先は上に立て、腹が満ちると我が身を襲う傷の痛みはどうするすべもなく、目が覚めている間は痛みにさいなまれ続けた。

 看護の人達も傷には触れないよう細心の注意をされていたことが感じとられた。

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