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【祖父と原爆 23】 鏡のない看護

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 8月20日を過ぎたある朝、何気なく自分の顔を見たいと思い看護の人に聞いても、鏡は無いとの一点張りであったが、しつこく聞いたら、お寺の鏡は全部撤去され外からの鏡の持ち込みは全て禁止されており、今は全く無いとのことであった。
 その訳を聞くと「皆さんの顔はあまりにもひどい火傷ですから、自分の顔を見てもらいたくないからです」とのことであった。僕は男だからまあ諦めるとしても、ケロイドで覆われ醜い自分の顔を見た人が女性であったらと思いゾっとした。
 その後自分の傷の痛みに気をとられいつのまにか鏡のことは忘れていた。

 熱も下がった8月末頃であったと思う。
看護の人達に「僕自身火傷して分からないが、皆さん方で一番辛かったことや困ったことなど感じたことを教えてください」とお尋ねしたら全員が、
「朝お寺の階段を上るとき、人間の皮膚の焼ける何とも言えない嫌な匂いと火傷の傷痕から出る膿の匂いがお寺全体から漂ってきて、階段を上る足がすくむことでした。しかし重傷を負った患者さんの看病は当然で、その他に困ったことは何もありません。それより苦しんでいる患者さんを見ているとかわいそうで、元気な私達が奉仕するのは当然です」
との言葉に頭が下がり厚く厚く感謝した。

 9月に入っても両手を心臓から下におろすと腕の火傷がキリキリと痛み、包帯がとれたのはシャツを着ていたため傷が浅かった腹部や胸等の数箇所くらいであった。
 また夏の太陽に焼かれ冬の寒風にさらされて鍛えられた顔の皮膚は厚く丈夫にできているのか、顔の痛みは直射光線を受けていても、皮膚が軟らかく薄い首筋より早くやわらいだ。
 右耳から喉及び右肩へかけての包帯は9月末頃までかかった。しかし最も火傷の重かった両腕の包帯が取れたのは熊本に帰った後12月になっていた。

 一ノ瀬君は包帯をしたまま8月末お寺の仮収容所から家族に連れられ退院した。
 隣に寝ていた友人のいなくなった心の空白は大きく、火傷と床擦れの痛みを耐えている僕を慰めてくれたのは毎日のように朝果物をもって見舞いにきてくれるあのお嬢さんの心からなる奉仕であった。 一ノ瀬君が退院した頃から家族に連れられて退院する患者が順次多くなっていった。

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