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【祖父と原爆】 孫のあとがき

 幼い頃の夏休み、祖父は毎年きまって長崎で被爆した時の話をしてくれました。いつもは優しい祖父の目が、その時だけはぎらぎらとして遠くを見ていました。まるで食卓にならんだお魚の煮付けのようにーー。
 わたしはそれがとても怖くて、夏の稲川淳二よりもずっと怖くて、祖父の話にしっかりと耳を向けられなかった。そのうち部活や塾を理由に祖父の家に遊びに行く回数はどんどん減り、夏恒例の祖父の戦争話もしだいになくなっていきました。

 再び祖父の被爆体験の話に触れることになったのは、祖父が亡くなった時。写真や遺品を整理するなかで、祖父の手記を手にしました。奇しくもその年は福島原発事故があり、わたしは祖父が被爆した年齢と同じ二十歳。
 偶然というには時期を狙い定めたように、ふたたび現れたぎらぎらした目の祖父に、大人になった今ならしっかり向き合えるかもしれない。わたしは祖父の手記を読み始めました。

なぜ、どうして幼い頃、もっとちゃんと祖父の話を聞かなかったのだろう。

 優しい笑顔の下に壮絶な過去を背負っていたこと。
 並んで歩く時にいつも祖父が右側にいたこと。
 夏でも着ていた長袖の下に何を隠していたのか。

わたしは何もわかっていなかった。
聞こえづらい右耳も、服で隠したケロイドも、はかり知れない心の傷も。

祖父が手記を書いたのはおそらく1993年、被爆から48年も経ってから。
辛い経験に口をつぐむ方も多い中、祖父が孫世代に伝えようとしてくれた事がどんなに尊いか、今さらながら思い知らされます。祖父なき今、許可なく公開するか悩んだけれど「後世のために書き残す」という祖父なら、きっと許してくれるだろうか。

この先もずっと長崎が、原爆を落とされた最後の街でありますように。

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