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【祖父と原爆 21】 生死の境

何回かに分けて投稿していきますが、以下ご容赦くださいませ。
・祖父の手記をそのまま転載するため真否の確認ができない箇所があること
・痛ましい記述が続きます。苦手な方はご遠慮ください
・今は使わない表現が出てくるかもしれませんが、祖父の言葉のまま記載しようと思います

 お寺の収容所に入って2・3日後であったと思う。
 朝寝床から立ち上がって周囲を見ると、寝床の片付けられている数が昨日までと比べてあまりの多いのに驚きながら便所に急いだ。
 昨日まで便所はきれいに掃除されていたのに、今朝の便所は異臭が漂い唖然となり足の踏み場もなく血のついたうんちが一面に散らばっている有様であった。
 当時の便所は、土に穴を掘って肥え瓶を置いた簡単なもので、穴の中を覗くと、中は普通のうんちではなく赤い血の混じったようなどす黒いもので溢れており、鼻がもげるような物凄い悪臭で充満していた。
 鼻をおさえて隣また隣のトイレと覗いたがみな同じ状態であり、かといって中止するすることも出来ず気をとりなおして息を殺して用をたした。

 床に帰ってから看護の人に悪臭の理由を聞くと「前日からその徴候はあったが昨夜はたくさんの人が亡くなられました。亡くなった人々はトイレで腸が血と共に流れ出たような状態で間もなく息を引きとられました」とのことであった。
 僕自身傷は痛み高熱にうなされ、その理由を求めたりあるいは考える力も思考力もなかった。その後毎朝血へどろで足の踏み場もなく、血臭で息の詰まるような悪臭の漂っているトイレに行くのが苦痛でたまらなかった。

 8月20日過ぎた頃であったか記憶は定かではないが、一日一度の治療の後で看護婦に呼ばれ「私が代筆しますから郷里に手紙をだしなさい」と言われ、僕は両親の事をすっかり忘れていたことにどきりとした。
 両親たちは熊本の田舎にいるので安心だが、兄二人はどうしているだろうかと思いつつ、『あえて毀傷せざるは孝の始め也』の明治天皇の言葉を思い出し、手紙はお断りした。

 それから2・3日したある日、軍医から呼ばれ「君は手紙を出すのを断ったそうだが、親はどんなに心配しているか子のない君には分からないだろう。僕には子供がいる。どんな体になっていてもよいから生きていてくれと思う心は君の親も同じだよ、手紙を書きなさい」と親としての切々なる説得を受けた僕は手紙を出す気になり看護婦さんに代筆してもらった。
 それから数日後、隣に寝ている一ノ瀬君の両親や兄弟が見舞いに見え、それから毎日誰か見舞いに来られていた。僕も食べ物のおすそわけに預かり大いに助かり感謝した。

 入院して何日後であったか記憶にないが、腹が痛くて下痢したので、看護婦に連絡してもらったら二人の看護婦が走ってきて、腹の状態や気分を聞いたり体温を計ったり医者に連絡したりとあたふたとして落ち着かないようであった。
 僕のほうが心配になり「どうしたんですか」と看護の人に聞いたが教えてくれず、看護婦がもってきてくれた薬を直ぐ飲まされたが理由は言われなかった。

 二日ほどして、何事もなく腹の具合もおさまったので看護のお嬢さんに先日の御礼と皆さんが慌てていた理由を訪ねると、患者で腹痛と下痢をおこした人で助かった人はいないので皆青くなって心配したそうであった。
 トイレにおける血の海と悪臭と、腹痛により死んでいる人達のあまりにも多いことを思い出してギョっとし、また助かったことを感謝した。

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