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どん詰まり奴



まえがき

正直あとがきだけでもいいんだけれど、珍しく頑張ったのでやっぱり全部読んでほしいです
頑張り方間違ってるかもしれないけれど  いまの僕の精一杯なので  ゆるせ明日以降の僕





午前四時を唄う曲を聴きながら湯船に浸かる午前四時の僕は、漠然と、闇雲に、ひたすらに子供になりたかった。

本意不本意を差し置いて淡々と進み続く月日、
小さくも確かな其等に積み重ねられる年齢、
圧倒的に足りていない時間と経験、
そんなことなどお構い無しに迫り来る社会に追い立てられ、気が付けば 大人になる ということばかりに必死になっていた。



大人。

周囲を気遣うことができる、
無闇に大きな声を上げない、
折り合いを付けることができる、
落ち着き、賢さ、現実、堅実、、、

自分なりの大人像を思い浮かべてみるけれど、どれも、間違いではなくとも正解でもないように思う。

数字だけを見れば、自分もとっくにそれになっていなければいけない。そう頭では分かっていながらも、僕はまだその事実を受け入れられずにいる。
そもそも、昔の僕は子供だっただろうか。


子供。

素直な反応、
正直な感想、
純粋な主張、
単純な行動、

自分なりの子供像を思い浮かべてみるけれど、どれも、間違いではなくとも正解でもないように思う。

僕もその時代を確かに通過しているはずだけれど、改めて振り返れば、今の僕が想像する子供時代と僕が通過した子供時代とはまるで違っていた。



物心付いた頃から、大人みたいだと言われることが多かった。

親戚から、学校の先生から、親の友人から、

「しっかりしてるね」
「大人と話してるみたい」
「考え方が大人より大人だよね」
「その年の頃にそんな事考えてなかったよ」

子供の僕にとってみれば、満更でもなかった。
やがて自分の価値はそれだと思い込み、その場に居る誰よりも"大人"な思考や振る舞いをしようと意気込んだ。


だがどんなに大人を心掛けようと、事実として子供である以上、当然ボロは出る。というか今の僕からしてみれば出る前からボロッボロであった。言うまでもない。

当時の僕は、そのボロが出る瞬間がたまらなく辛かった。
出たボロに子供らしさを見付けて安心したような大人の笑顔、年齢を目安にコミュニケーションを調節してくれる気遣い、知らない物事について教えてくれる言葉たちでさえ、恥ずかしさや悔しさでいっぱいになった。辛かった。

そして何よりも、
そんな事で涙を流す自分が、そんな子供っぽい自分が、とてつもなく嫌だった。


だから、益々大人になろうと意気込んだ。
虚勢人生大開幕。進む簡単さからは想像もできない引き返す難しさを日々積み重ねていく作業だからまじでやめといた方がいいよと言いたくなるが、やめておけるならやってねえよ馬鹿がと返って来るだけだろう。明日止もうが今既に悪寒と痙攣で朦朧とするまでに追い込んできている雨もあるし、一〇一回目で開くと同時にそのまま倒れて起きられなくなるノックもあるし、まず恐らく忠告を聞き入れられる段階では言語を習得していない。実質不可抗力。急に文の色が変わったことにお気付きだろうか。対峙に耐えきれず大量の加筆をしている。あとがきを読んでくれ。

感情を表に出すことをやめた。
下らない話で笑うことをやめた。
万事を達観した顔をしてみせた。
ボロが出るリスクがある事にはそもそも手を出さないようにした。

癖とは、思いのほか簡単に付くものだった。

感情が無くなった。
笑う機会が無くなった。
期待も希望も無くなった。
危機察知と回避の能力だけが発達し、失敗を経験することは無くなった。成功も。



僕が通った子供時代は、そんなものだった。

これはこれで、子供らしかったと思う。
大人になりたがることも立派な子供であることの証明だろう。たぶん。

けれど、どんなに嫌でも大人にならなければいけなくなった今になって思う。
僕が通りたかった子供時代は、こんなものではなかった。



湯船から上がって、顔を洗う。
泡立てた洗顔料が唇に触れる。
「あっぶね」
その時、遅れて目を覚ました子供心が恐る恐る胸元で手を上げた。
以前間違って口に入ったシャンプーは苦かったと記憶しているけれど、ではこの洗顔料は一体どんな味がするのだろう。
もう、なんでもいいから取り戻したい。

僕は舌先に泡を乗せる。
退ききらない大人とはしゃぎたがる子供が鬩ぎ合い、「飲み込まないよう細心の注意を払いながら自らの意思で泡を食らう」という、我ながら奇妙な行動。


好奇心に身を任せる行為は、気持ちが良かった。
感情はおどり、視界はきらめき、ふと俯瞰して笑ってみては、湧き上がる衝動に乗っ取られたくなった。

顔の泡を流し、シャワーの水でうがいをし、シャンプーのボトルに手を伸ばす。
面倒臭いので泡立てずに生で。
無味無臭な洗顔料とは違い、其れからは刺激の味と爽やかなフローラルの香りがした。

ここまできたら、もう。

念入りにうがいをし、次いでコンディショナーのボトルに手を伸ばす。
シャンプーにあったフローラルはほとんど無くなり、かわりに刺激の味が増していた。

三度目のうがいパーティーを行う僕は、乾いた笑いを溢しながらも初めての喜びに満ちていた。


逃した子供を取り戻す行為は、想像の何倍も魅力的なものだった。

あれほどなりたかった大人からはどんなに嫌がっても逃れられなくなった今、あれほど嫌がって逃した子供を取り戻したくて仕方がない。
これも子供心だろうか。

散々重ねた大人ごっこのおかげで、大人のフリは慣れているつもりだ。
その経験を利用して、余る労力の全てを費やして子供を取り戻しに行こう。
適当に大人をして、全力で子供をしていよう。





あとがき

うわああああああああああああああ

読んでくれてありがとう

数ヶ月前の記事を掘り起こし、内容には触らないまま足し引きをしてみました
書きながら 読みながら 何回も「あああああああ」となりましたが、色々と思うこともあったので、よかったかもしれない
元の記事を書いたのがインナーチャイルドやアダルトチルドレンという単語を知ると同時に自分のそれ(っぽいもの)を認識し始めた頃だったということをしつこいくらいに思い出したし、今日の僕は大人とか子供とかそういうんじゃないよと思って生きているので終始「おーおーよちよち(自棄糞)」といった気分だったし、途中耐えきれなかったし、まず文体が今と違うのもかなりヤバでした
公の場に生モノを並べるにあたりこの名前を授け授かった身としては本望です  由来を書いた記事を探したんだけれど見つかる前に探すのに飽きたのでやめました  いつかどこかで見付かってくれ

当時は完全に創作ですという顔をして上げたけれど、今回はどっちとも言い張れるくらいの書き方にしたつもりだと言うつもりだったんだけれど、耐えきれなかったところでバレてるよな、これは全部実話です  全部
とはいえ、「あああああああ」となりながら書いたという意味では創作といえないこともないですね  全部嘘です

さいごに 元の記事を貼り付けておきます
「数ヶ月書き続けることによる変化を…」とか
「書き始めた方への励みになれば…」とか
そんな立派な動機は塵ほども無いし、そもそも僕の文章は気分なので上達とか無いし、ここからが本題なのですが、今夏を乗り切る半袖を買うお金が無くて困っています、たすけてください ! ! 




こんなところまで読んでくれている心優しき貴方へ僕からせめてものお礼という建前を借りた布教です
映画初心者Netflixユーザーとしてお世話になっているのは勿論のこと、落ち着きながらも飽きの来ない生配信が滅茶苦茶好きです、是非



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