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「ジョーカー」を見て、小田急線/京王線刺傷と悪党の進化を考える

東京の小田急線で男が包丁で10人を重軽傷にあわせた無差別切り付け事件が2021年8月6日ありました。さらにハロウィンとなる10月31日には、京王線で刃物男がジョーカー仮装をした切りつけ火災事件がありました。

現代における”悪”とは何なのか。
アメコミのバットマンで「悪のカリスマ」と呼ばれる男、ジョーカーの歴史を分析して、日本とアメリカの善悪観を比較しながら考えたいと思います。


アメリカの正義とは

正義が輝くには敵対する悪役が必要です。そして敵が変化することでヒーロー像も変化してきました。

◆ 悪魔 vs 正義
正義のスーパーヒーロを愛する国、アメリカ合衆国ではしばしば「忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)」を唱えて、公式イベントや議会が始まります。

バイデン大統領の就任式でもこれは暗唱されました。アメリカ人にとって神の下での正義がいかに重要かがわかります。

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
(私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います)


アメリカ建国当初の正義はキリスト教への信仰心を揺らがせる悪魔の囁きに耳を貸さないことで担保されていました。

1492年コロンブスの新大陸発見以降、正義の敵として悪魔を信奉する異教徒、アメリカ先住民を殲滅することでキリスト教徒がアメリカ大陸に進出しました。

この18世紀末まで続いたインディアン戦争は、インフルエンザや天然痘が持ち込まれたため先住民は苦しみ、キリスト教徒は信仰心を強固にして健康を保ったと考えました。そして1776年キリスト教徒のための国家、アメリカ合衆国が建国されました。



キリスト教的正義により、アメリカ人は個人を尊重しながらも自身の才能(ギフト)を積極的に使い慈善活動を行うような人間性が育まれます。それがアメリカにおいて自由と正義の共存が可能となった要因です。

しかし産業革命により貧富の差が徐々に広がると、悪魔以外の敵が登場してきます。


◆ 機械 vs 正義
産業革命によって機械が登場し、労働者は職を奪われてしまいました。

そんな救いとして、1870年にはアフリカ系アメリカ人の鉄道坑夫、ジョン・ヘンリー(John Henry)という民間伝承の英雄が生まれました。

1863年の南北戦争が終了し、奴隷から開放されたジョン・ヘンリーは、雇い主が持ち込んだ蒸気ドリルによってハンマー打ちとしての仕事を失いました。

しかし他にありつける職もなかったため、機械よりも有能だと蒸気ハンマーと競い、見事勝利を収めましたが、疲労困憊して亡くなりました。

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(John Henry lies dead after beating the steam drill - painting by Palmer Hayden)



このジョン・ヘンリーの伝承歌は、ブルースおよびアメリカ音楽の原型としても重要です。

奴隷たちのリズミカルな労働歌が、イギリス移民の物語・寓話が歌詞にあるバラッドを取り入れて進化しました。

偉大なブルースギタリストB.B.キングなども取り上げるようなアメリカ土着の歌として根付きました。


◆ 科学 vs 正義
20世紀に入ると科学技術の進歩によって、ジョン・ヘンリーよりも強く国民の英雄となるヒーロー像が求められました。

1898年にイギリスの作家H. G. ウェルズはSF小説の古典「宇宙戦争」が登場します。火星人による侵略など、SFへの想像力は膨らみました。

そしてマッドサイエンティストと戦う、宇宙から来た超能力をもつスーパーマンが1938年に「Action Comics」で連載開始されました。

当時のアメリカは世界恐慌によって1933年には失業者が24.9%にもなっており、救世主が求められていたため大ヒット。アメリカン・コミックの黄金時代は第二次世界大戦終了まで続いていきました。


◆ 倫理 vs 正義
第二次世界大戦が終わると、実戦で最先端の科学技術で戦った若者たちからは、科学と戦う正義のヒーローの人気は衰えました。

1950年代に入ると過激なコミックに規制の動きが過激化し、子どもたちに悪影響を及ぼすためコミックが燃やされるなどのモラル・パニックが起きました。

バットマンも同性愛を助長すると槍玉に上げられました。


一方でLSDなどドラッグの研究が盛んに行われ、1948年から始まった「エッジウッドアーセナル人体実験」と呼ばれる薬物実験などで軍事利用化が図られました。

60年代に入ると一般大衆にもLSDが使われはじめ、市民運動と結びつく形で、「愛と平和(Love and Peace)」を標語としたヒッピームーブメントが起こってきます。自由と慈善による正義は、解放と平等という新たな倫理観と戦うこととなります。

子供へ求める理想と、残酷な現実との歪みが広がり、豊かな田園風景とアメリカンドリームに支えられた「古き良きアメリカ」の姿は消えていきました。

そして理想と現実の狭間に囲われた思春期の若者のための時代が、狂乱のロックの時代と共にアメリカに広がります。

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◆ 差別 vs 正義
1950年頃から公民権運動がはじまり、英雄としてキング牧師が活躍しました。その結果1964年まで続いた人種差別を肯定するジム・クロウ法は廃止されました。

一方で1965年から始まったベトナム戦争で黒人が多く徴兵されたことが問題視されるなど差別は無くならず、黒人解放運動は分裂化し、1968年にはキング牧師が暗殺されました。



またベトナム戦争はテレビ報道がはじめて可能になり、「正義の戦争」という認識が崩れた結果、ベトナム反戦運動がアメリカで拡大しました。

当時の正義の揺らぎは、スタンリー・キューブリック監督の映画「フルメタル・ジャケット」で見ることができます。

フルメタル・ジャケットでは戦争に勝利するためには正義感あふれる理想主義者は必要なく、子供のように純粋な狂気が必要だと訴えています。

さらに海兵隊訓練キャンプの様子では、皮肉にも理想的な人種差別のない世界が描かれています。

I am hard, but I am fair!
There is no racial bigotry here!
I do not look down on niggers, kikes, wops or greasers.
Here you are all equally worthless!
俺はキビしいが公平だ
人種差別は許さん
黒豚 ユダ豚 イタ豚を 俺は見下さん
すべて平等に価値がない!



正義の構造から見える、アメリカを大きく包む保守的な世界観は、以前のジャズ史でみたようなアメリカの姿とは大きく異なるように見えます。しかしその根底にある文化形成のメカニズムはそれほど違いはありません。

ジャズの醸成は、西アフリカから伝わる希望のリズムや、悲哀のブルースによってなされ、発酵してヒップホップやR&Bになりました。

同様にアメリカの善悪観の醸成は、この保守的な正義から始まっています。そして進化の過程は、特に「バットマン」でよく分析することができます。



バットマンの特異性

◆ バットマン
ハンマー打ちのジョン・ヘンリーや、新聞記者のスーパーマンと違い、バットマンは億万長者のエリートです。

バットマンは社会で圧倒的強者であり、経済的な強みを活かしたヒーローとして警察官と協力しながら活躍しています。

さらにバットマンは両親が強盗に殺されことによる復讐心が根底にあるため、純粋な正義とは違った孤独なアンチヒーローの立場をとっています。



◆ ジョーカー
一方で悪役のジョーカーは超常的な能力や権力を持たないサイコキラーです。

ジョーカーの設定は時代とともに変化しますが、精神病や貧困に苦しむ弱者の立場をとり、多くの人々を扇動するカリスマになっています。

これらの性質から、バットマンの悪役は引き立て役どころか、むしろ悪を魅せる作品にすらなっています。



悪党の進化論

バットマンの実写映画が幾度も異なる監督による解釈でつくられてきました。

ここからはジョーカーが登場する、大人向けな主要3作品をとりあげて、悪党の構造的変化をポケモン的な3段階進化で論じたいと思います。

裏を返すと時代とともに可愛くない現実味のある鬱映画になっていきます。

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◆ 悪党1.0「バットマン(1989)」
ティム・バートン監督で作られた「バットマン」ではジャック・ニコルソンがジョーカーを演じました。

ジョーカーは、ギャングの幹部が化学薬品のタンクに転落し精神異常を起こした設定になっています。

シリアスな演出をしながらも、構造的にはスッキリとした二項対立になっています。

しかし正義と悪とは狂気の二面性に過ぎないというテーマが押し出されたため、非常に深みのある作品になっています。


この当時は泥沼の長期戦となったベトナム戦争が1975年に終わり、アメリカ国民が感じた正義の揺らぎをヒーローものに堂々と取り入れました。

1976年公開のマーティン・スコセッシ監督「タクシードライバー」でもこのテーマは語られています。

売春少女救済を計画する一方で、大統領暗殺を企てるという背反する衝動が一つの人格に現われる狂気を描いています。



オープニングから恋する甘いサックスの音色と、おどろおどろしいドラムの音が交互にリフレインされ、映画ラストには完全に混ざり、オープニングの平凡な日常風景へと再び戻るという凄まじい構成で作られた名作です。



◆ 悪党2.0「ダークナイト(2008)」
クリストファー・ノーラン監督で作られた「ダークナイト」では、ヒース・レジャーがジョーカーを演じました。

ジョーカーは正体不明の男で過去についての発言も度々変わる得体のしれない狂気が溢れています。

ヒース・レジャーは映画公開前に急死を遂げました。役作りに入り込みすぎたのが原因ということは家族が否定していますが、そんな噂もうなずけるような底の見えない悪のカリスマを演じ、ジャック・ニコルソンのジョーカー像を覆しました。

ジョーカーは誰でも恐怖に遭うと悪に堕ちうるという思想を持ち、自身を「混沌の使者」と呼びました。

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ジョーカーはテロリストとも呼ばれますが、当時のアメリカのテロと言えば9.11同時多発テロです。

イスラム原理主義の過激派集団アルカイダの狂気を恐れ、2003年にイラク戦争を仕掛けましたが、目論んでいた大量殺戮兵器やテロ集団との関係は見つからずに「世界の警察」としての威厳は失墜してしまいました。

そんな中で行き過ぎた正義と、マスクを被った強い思想型テロリスト、恐怖の中で悪に堕ちる市民。そんな危ないアメリカの現実を数々散りばめたのがダークナイトでした。



◆ 悪党3.0「ジョーカー(2019)」
トッド・フィリップス監督で作られた「ジョーカー」では、ホアキン・フェニックスがジョーカーの誕生秘話を演じました。

ジョーカーは過酷な家庭環境や精神疾患に苦しむ圧倒的弱者として描かれています。

そしてそんな弱者のジョーカーですら小人症の同僚をからかいます。

緊迫した状況下で差別的描写をふいに出し観客すら思わず笑ってしまうような、「ハングオーバー」を手掛けるトッド監督らしい性格の悪いジョークを入れています。

悪には狂気すら必要なく、笑い(Laughter)と虐殺(Slaughter)は表裏一体であり、すべての人に潜在的に存在するものだということを描いています。

そして誰かを笑い者にできない弱者は、最後には社会を破壊して笑いものにするしかなくなります。


またジョーカーが銃を手にして浮かれ、ダンスをしているシーン。ここは「タクシードライバー」のオマージュで、テレビには1937年公開の「Shall we dance?」が映り、歌っている黒人に向かって銃を突きつけています。

これは子供っぽい妄想にふけるコメディとも見えるし、一方でこの遊び感覚の発砲こそアメリカの銃社会の現実とも見えます。


ダークナイトの続編となる、2012年公開の「ダークナイト・ライジング」が放映された映画館でオーロラ銃乱射事件が起きました。12名が死亡、負傷者58名を出しました。

ジョーカー公開にあたり銃規制を勧める流れが生まれるなど、緊迫した中で真正面から銃社会の危うさを描いています。


丁度ジョーカーの制作時期に公開されたチャイルディッシュ・ガンビーノの「This is America」でも似た描写が出てきます。しかしこちらでは実際の黒人に対する銃乱射事件などを象徴したものでした。


ガンビーノの冒頭の特徴的なフォームは、かつてのミンストレル・ショーにおけるジム・クロウを真似ていると言われています。

ミンストレル・ショーとは白人が黒化粧をして観客を笑わせるという、人種差別的なピエロの舞台です。

そのなかのジム・クロウというキャラクターは黒人の蔑称となり、ジム・クロウ法の名前の由来となりました。

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次第に黒人によるミンストレル・ショーも行われたり、「日本人トミー(Japanese Tommy)」という東洋人訛りをしたキャラクターも登場しました。

差別の根底には笑いがあります。人種差別的問題は感じませんが、日本人トミーがウケたのもピコ太郎の「PPAP」がウケたのも大した違いはないように感じます。

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This a celly (これは携帯だ)
That’s a tool (それは武器だ)

さらにMVでは拳銃と携帯がリンクしています。それは2018年にステファン・クラークが銃を構えた疑いで射殺され、持っていたのは携帯だったという事件です。


ダブルミーニングとして、実際に携帯は武器でもあり、SNSを使って身を守ることも、社会を炎上へ導くこともできます。

SNS上で2013年から始まったBLM運動(Black Lives Matter)が、2020年にもジョージフロイド事件により全米へ広がり、デモが起こりました。そして中から過激な暴動をする人々が現れました。



ジョーカーが最終的に先導した貧困層の彼らも、デモから暴動となった人々です。

決して強い思想的な犯行目的はなく、抑圧された状況下では誰でも潜在的にジョーカーになりうるというSNS型テロリズムが作られ、観客にリアリティのある恐怖を与えます。



介護を続けた母親を殺してしまう描写はリアリティに溢れ、振り返ってみると、最も恐ろしいシーンです。

それまで悲劇を笑ったり踊ったりして喜劇として凌いだジョーカーが、母親だけは重荷がとれたようにスッキリとした表情をしています。

介護問題など超高齢化社会になった日本でこそ日々感じる身近なストレスが、いつ狂気として発芽してもおかしくない現実を実感させられます。


I used to think that my life is tragedy.
But now I realized, it's a fucking comedy.
人生は悲劇だと思っていた。
だが今わかった。ぼくの人生は喜劇だ。




日本における善悪論

◆ 正義のない日本
歴史的に日本の正義は、水戸黄門や新選組のように悪を成敗するものです。

この善悪の相対化は、仏教の伝播によって古来からアジア全体に広く考えられました。

そのため正義とは何かという根源的な問いはそれほど大きな意味はありません。東洋思想では何かを定義することは限定することであり、成長を止めることだと考えられているからです。

ワンピースのドフラミンゴのセリフを借りるなら「勝者だけが正義」です。

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誤解のないように言うと、アメリカ的正義がないからといって劣っているという話ではもちろんありません。正義以上に日本の価値観として、美意識という素晴らしいものが根付いています。

日本の美意識の変遷は、こちらの記事で取り上げているので是非どうぞ。




◆ ゴジラ
一方で日本の歴史上の悪も、妖怪や災害など自然的なものの比重が大きいです。西洋と違い自然崇拝により受け入れる日本では、人間同士の正義の戦いではなく、島国の共同体の中でより嫌われずに生き抜くことに注力しています。

近年は「シン・ゴジラ」や、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」などの過去のリメイクが続いています。

1954年から始まったゴジラは自然災害や戦災としての妖怪性が強く、2016年庵野秀明監督による「シン・ゴジラ」においては災害に対する行政的な戦いを淡々と描写しています。

シン・ゴジラには、アメコミのような正義の苦悩や家族を守るなどの描写は重要視されず、日本政府の戦いをストレートに描くからこそ、安易な正義感を振りかざすヒーローやヒロインが幼稚に浮いてみえます。

英雄像ではなく議会のエリート集団を際立たせた日本的正義のあり方を描きました。



◆ エヴァンゲリオン
一方で1995年から始まった庵野秀明監督のアニメシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」では、愛について深く考えるキリスト教をモチーフにしています。

ですが正体不明の使徒が襲ってくるのを当たり前に受け入れる点は、とても災害国家・日本的です。

エヴァンゲリオンは集落的・共同体的な国民性の日本で、家族愛という西洋的なドロドロのテーマを扱っています。そこに種とは何かという重々しいテーマで蓋をしたため、とても複雑で難解になっています。

この東洋性と西洋性の混濁具合は、2021年公開の「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」の第3村という集落で特に感じることができます。これは所謂ジブリ的な都市や自然との対比ではなく、共同体か家族愛かという対比になっているのが新たな田舎表現として際立っています。

そしてエヴァンゲリオンでは「正義の戦い」を放棄して「愛の戦い」にすることで話を展開させています。


このように日本では行政的な苦悩はあるものの、明確な正義の葛藤はありません。
しかし悪党の生態はアメリカ同様に追っていくことができそうです。


◆ 風の谷のナウシカ
1984年に宮崎駿監督で映画化された劇場アニメ「風の谷のナウシカ」では勧善懲悪な構造をとりました。

一方で漫画版を見ていくと、ナウシカは慈悲に満ちた女神だけでなく、人類を絶滅させる選択しました。つまりナウシカは慈愛ある破壊者として、悪党1.0における狂気の二面性を持っていました。



◆ もののけ姫
1997年に公開された宮崎駿監督の「もののけ姫」ではスッキリとしない混沌とした悪党2.0の構造になっていました。

たとえば、主人公のアシタカはタタリの復讐に取り憑かれ、平和的解決を求めながらも、過剰な攻撃力で敵を殺めます。

これはバットマンの復讐心や、9.11のテロを、一足先にタタリという飛び道具をつかって表現しています。

また複数の勢力が策略を巡らせた戦争となり、シシガミの爆発によって世界は恐怖に包まれ、人格者だった乙事主(おっことぬし)は祟り神へ堕ちていきました。

ダークナイトで、ジョーカーに闇落ちさせられたツーフェイスを乙事主には感じてしまいます。



◆ 欅坂46 ジョーカーMV流出事件
2019年9月末から、ジョーカーの衣装をした欅坂の撮影隊が複数目撃されていました。これらが何だったのか真相は一切明かされていませんが、2021年7月に急遽として幻のジョーカーMVが流出しました。



当初は「笑わないアイドル」と揶揄されていた欅坂への笑えないジョークかと思っていました。しかし本家のジョーカーの変遷を踏まえると、好みではないが意外と面白いアイデアだったのかもしれないと考察しています。

この考察とはアイドルに悪党3.0を鮮烈に取り入れることです。



悪党3.0における構造は、いじめや差別が大富豪から富豪へ、貧民へ、大貧民へと連なっていき、カーストの底辺が社会そのものを破壊する下剋上でした。富の再分配がうまく機能していない社会での、テロリズムによる不幸の再分配です。

日本におけるカーストには年功序列の縦社会の要素があります。そのためいびつな壺形のカーストが日本では成り立っています。

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日本人の年齢の中央値は1950年の26歳から急激に伸び、2020年には48.6歳です。これは世界でモナコに続き2位です。これによりアイドルファンの大部分を占める50歳以下は、相対的に若者になります。

民主主義による選挙制度では、選挙権のない子どもたちを守る親世代ですら年齢的にはマイノリティになってしまい、若者は構造的に抜け出せない弱者という構造ができあがってしまいました。


そこでカーストの底辺にいる少女たちがジョーカーを演じ、社会にテロをしかけ、相対的弱者すべてを巻き込むリアリティのあるストーリー。

何かが解決されるわけではないですが、中身のない炎上騒動よりも何か意味が残せる可能性をそこには感じました。



◆ 黒い羊
しかし2017年に欅坂46の握手会に発煙筒や果物ナイフを持ち込んだ殺人未遂事件などもあったため、彼女たちの心境を考えるとあまり現実的とは言えません。そのためジョーカーはお蔵入りしてよかったなと思っています。




そんな心境のなか、2019年2月に「黒い羊」で「This is Japan」ともいうべき自殺をテーマにしたMVを作ったことは、どれだけ狂気的選択を制作陣が行ったのかを改めて感じさせられます。

黒い羊では、なにかトラウマを抱える若者たちと分かり合おうとするも、厄介者扱いされつづけ、孤独のまま自殺する主人公の”僕”を描きました。イジメや虐待、DVや自傷行為など、かなり重たいトラウマをメンバーそれぞれが演じています。

自殺とは、自分に狂気の牙を向けることで、ときに社会全体に影響を与える強力なテロリズムです。

この時点で悪党3.0をアイドルにリアリティを保ったままに組み込むことは成功していたのかもしれません。




発煙筒事件やストーカー、ファン心理の狂気などは、ジョーカーの元ネタの一つと言われる1982年マーティン・スコセッシ監督の「キングオブコメディ」で語られています。



小田急線刺傷事件とスクールカースト


◆ インセル(incel)
2021年8月6日午後6時半、賛否が分かれる中開催された東京オリンピックの最中に起きた、前代未聞の無差別切り付け事件。

「ジョーカー」での地下鉄殺人事件が可愛く思えてくる、混雑した電車での犯行や、サラダ油による放火未遂。

彼は今までの分析でいう、悪党3.0に分類されるでしょう。犯人は「勝ち組っぽい女性を見つけ狙った」と供述しています。これは強固な思想的テロリズムとは呼べません。

犯人のような人物はインセル(involuntary celibateの略)と呼ばれ、アメリカやカナダなどで近年見られる非モテが原因の犯行と見られています。わかりやすく言うと「リア充爆発しろ」の過激派ですね。

犯人はそれほどモテない人物でもなかったようです。ですが大学中退後にも女子生徒にナンパを続けて、徐々にモテない層へ堕ちていきました。

そうしてスクールカースト上位の女性は勝ち組の幸せ者であり、憎いという認識が作られたようです。



◆ クリーク(clique)
アメリカのスクールカーストは、クリークと呼ばれる派閥で別れており、日本の人口ピラミッドのようなツボ形を形成し、下層ではやり場のない不満が溜まっています。

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これらグラデーションされた階級社会が、社会性動物にはつきものです。女性のトップとして華々しく輝くのがチアリーダーのトップ、嬢王蜂(Queen Bee)であることからも、このことに納得してしまいます。

さらに男性のトップであるジョックス(Jocks)が、スポーツ万能でスーパーマンのような人気者であるのもアメコミの流れを振り返った上で見ると非常に興味深いです。

ScottDWの「ハイスクールダンスバトル」では、バスケットボール選手やチアリーダーなどの運動部たちと、聖歌隊に属するナードたちとの関係が見えてきます。信用をダンスで勝ちとるピュアさは面白いです。




◆ 信用スコア
スクールカーストというのはイジメの温床というイメージから悪い印象がありますが、国の土地柄をうまく再現しています。

そして学校ではお金の生態系とは隔離され、信頼や評価により管理された生態系を築いているというのも面白いです。

わたしたちは貨幣経済から信用経済へ移行していると言われており、中国の芝麻信用(ジーマ・クレジット)などの信用のスコア化が始まっています。

そのなかでスクールカーストの中で生じた分断や犯罪というのは、未来を考える上で重要になってきます。



◆ 分断を防ぐ
一方で弱者へ目を向けると、すり鉢状に下層へのプレッシャーをかけ、構造の折り目に沿って亀裂が入り、結果大きな分断を起こしてしまいます。

この分断を解決するためには、新たな少子化時代、ネット時代ならではの新しい文化構造が必要となります。

以前あげた「シン・カルチャー論」がそれにあたります。個人を分散させることで、ひとつのクリークに縛られない新たな社会システムがつくられます。



まとめ

日本の正義とは悪を成敗するもので、善悪論そのものはあまり肥大化しません。一方でアメリカは国そのものが正義を確かめ続け、敵対する悪すら進化させ続けました。

そんな豊かな善悪観を学んだ上で、改めて日本の豊富な作品群や、悲惨な事件を見ると見えるものが変わってきます。



今回紹介した洋画はアマゾンプライムなどで見放題配信されています。30日無料体験を今月試してみましたが、名作映画が沢山見れてすごく楽しいですね。
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さらに8/12は金曜ロードショーで「もののけ姫」もやっています。ぜひ見比べて楽しんでくださいね。





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