今後、日本は 不要主義 になる。

 現代日本では、社会的価値観としての資本主義は遠く昔に終了している。

 そもそも主義とは何かを理解していない人が多い。

”主義とは、人々がそれぞれに抱える価値観としての思想である。”

 そして、社会的価値観とは、その人間社会・人間コミュニティの多くの人が持つ思想。
 簡単にいえば、幸福になるための世間一般論と考えてください。

 日本の社会的価値観の移り変わりの話をすれば、江戸時代末期まで遡れば江戸を中心とした社会は文化的にも優れており、能力主義、技術主義であり、人情主義、評価主義であった。

 その後、西洋諸国のアジア侵略の波による西洋化に伴って、資本主義を強く押した時代が訪れ日本という国を保つことが困難になり、第二次世界大戦後の日本ではバブル経済が到来し物質主義となり、その後の現在は新しい主義を目指す時代が来ている。

能力主義、技術主義

 自分にはできないこと、他の人にはできないことに価値を見出す考え方。

 大工、料理人、モノ作り、経営能力、算術、文字の読み書き、体力馬鹿でも「優れていれば認める」という思想。

 ただし、江戸時代はこれだけではなく、更に先にいっており、”人情”をとても重視していた。

人情主義、評価主義

 能力主義、技術主義という、その人のたゆまぬ努力を認めているうえで、その能力主義、技術主義の先として、その人の人間性である人格・人柄を強く重視している社会となっていた。

 人間性が良い人は助け合い社会の仲でも特に大切にされている時代であった。

 江戸時代を裏付ける証拠として、男女関係なく優れた人は評価されており、絵師、芸者、技術職など多くの文献が残されている。

 また、とても分かりやすい伝承としては風土に残る昔話や、一般大衆の娯楽である落語などの小噺も数多くの演目が残っている。

資本主義

 どんな形であれお金を持つことで権力を手に入れることが容易にでき、幸せの基準となる。

 お金を貯めるのではなく、とにかくお金を稼ぐことこそが、お金を手にすることこそが幸せという考え方。

 これは古き昔より使われている社会の仕組みの根幹であるため、経済の仕組みとして資本主義が使い続けらていることで、社会思想の幸福度の基準も資本主義であると勘違いがされることが多い。

 お金があることこそが幸福の基準とされた時代は、どの国においても短いのがほとんどである。

 理由は簡単で、資本主義が基準となった場合、国力という考え方が重要となり、国際的な協力を得られない場合は国内全体が貧困となってしまうため。

 先進国の人間は、そもそもお金だけがあっても、お金は食べることも、暖を取ることもできないこと、資本主義では幸福を得られないことを経験している。

物質主義

 資本主義の先の考え方。

 お金があるだけでは貿易ラインを止められた場合、経済制裁をされた場合、立ち行かなくなるため、お金を使った先に得られるものを手元に確保するという考え方。

 これはバブルが弾けたあと、資本は値崩れを起こし、物は使うのであれば値崩れは関係ないという思想である。

  私たち一般人に馴染み深いのは、持ち家、電化製品の三種の神器、車、テレビ、電話、エアコンなど、お金を持つことよりも物を多数持つことで安心感を得る。
 そのため、昭和後期~平成の時代はとにかく家に物が溢れている家庭がほとんである。

 資本主義とは微妙な違いで、お金を手に入れるのではなく、お金を消費することに幸福があるという考え方。

現代の日本は、

お金を沢山稼いでも、
お金を沢山消費しても、
物質を沢山持っても、

それだけでは幸福感を得られないこと知った時代になった。

 日本経済だけで言えば、資本主義だった時代は文明開化直後から第二次世界大戦直前までと言っていい。

 そもそも、日本は江戸時代末期までは優れた文化的な進化を進めていた。

 博愛主義であり、人情主義といった、人間皆家族という愛を追求していた社会だ。

 その後、明治時代には国際化を迫られ資本主義となり、資本主義となったことで西欧諸国からアジア全体が資本による圧迫を受け戦争が始まった。

 日本は戦後、バブル経済を契機に、資本主義を隠れ蓑にして物があることで幸せになる物質主義へと転換していき、そして現在は、不要主義へと移行しつつある。それは幸せとは何か、幸せになるための選択を追求する主義である。

 物があり過ぎることで不幸を感じたからこそ資本主義経済の影響によって得る幸福からの脱却が始まっている。

資本主義、物質主義との決別である。

 近年は、人情主義・評価主義という、江戸時代末期の素晴らしい時期にあった考え方に原点回帰しつつあるが、世界、日本ともに社会は進化し続けているので回帰、回顧することはできない。先へ先へ進化しつづける必要ある。
 そして、国際的には資本主義が頂点にある限り資本主義から離れることは社会主義へと変貌してしまうため非常に難しい。

この先、
日本は不要主義となる。

 不要主義とは、
 一般人全般には必要なもの、
 国として、国際的に、必要なものの切り分けの考え方。

 例えば、
・スマホやインターネットに高いスペックは必要か?
・学歴は必要か?
・英語は必要か?
・海外留学は必要か?
・難民受け入れは必要か?
・外国人労働者は必要か?
・国際的なLGBTQの観点は必要か?
・国際的な考え方である海洋プラスチックへの対策は必要か?
・gafamは必要か?

 国力、防衛システムとしては必要だが、日本国内の一般人には不要であるものが非常に多い。

 日本人全員が英語を話せた場合どうなるのか想像できるだろうか?
 日本国民全員が英語をペラペラに話せていた場合、多くの優秀な人材、多くの技術者は今どうなっていただろうか?

 IT技術が必要な理由、資本が必要な理由、輸入・輸出が必要な理由。

 これらを一般人、国で見直すことが、不要主義である。

 一般人が必要であるものと、国が必要であるものは別であるが、現在は混同されてしまっていることが大きな問題である。

一般人は、ひとりの個人として、
幸福に必要なもの、不要なものを切り分けていくことが非常に重要である。

 自分自身に本当に必要なものの切り分けが非常に重要である。

 その最たるものがテレビである。
 多くの若者はテレビを持たない。
 テレビを切り捨てることで、テレビスケジュールに縛られなくなり、自分自身の時間を手にしている。

 物質主義では手にすることで幸せを増やすことを考えていたが、
 現代は要らないもの、不要なものを見出すことで、各々が手にできるものを増やしている。

 持ち家を持たないことで、土地や人に縛られない生活。
 呑み会に参加しないことで、不要な人間関係によるストレスの回避。

 現代の若者は物質主義では得られない、物質ではないものも多く手にしている。

不要主義とは、
不要なものは手にしないのではなく、
不要なものに資本を消費しないこと。

 そして、仕事すら選択しない方法を模索する人々が増えている。
 これは、資本主義からの脱却を目指している。


 突き詰めてしまえば、

資本を使うことでも、使わないことでも幸福を得ること。
資本を道具として使いこなすことこそが不要主義である。 


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