あずさ

ASD当事者の精神科医です。

あずさ

ASD当事者の精神科医です。

最近の記事

入院診療が「システム運用」である話。

病棟業務本日は「精神科医療の、病棟業務」についてです。よのなかの、会社のお仕事(経験ないけど)に通じるものがあるかもしれません。 精神科の【外来業務】は、精神科医の個人的な力量が反映されるところが大きいと思います。精神科医が知識や技術を身につければ、治療効果が上がる、というわけですね。当たり前っぽいですね。 【病棟業務】=入院患者さんの治療、についても、同様だと思っていたんです。わたし(精神科医)が知識や技術を身につければ、治療効果が上がる、はず。いや、もちろん上がるん

    • 「その」薬はやめてもいいのか

      薬は自己判断でやめてもいいとかいう記事が出回っているみたいで、ものすごく驚きました。自己判断でやめてもいい薬もたしかにありますけれども、やめてはいけない薬も間違いなくあります。 対症療法の薬やめてもいい薬の筆頭は、対症療法の薬です。 たとえば痛み止め。痛くない人は痛み止めはのまなくていいです。 とはいっても、痛み止めをのめばリハビリに励める、というケースにおいては、「いま」痛くなくてものんでおいたほうがリハビリがはかどり、早く治るかもしれません。なので、痛み止めであれば

      • Autisticにとっての、納得と変化の可能性について(R51119, HOTASさんとのスペースより)

        11月19日に、HOTASさん@HOTAS10001 とスペース開催しました。その際に気づいたことなど、備忘録的に。 前半は、ニューロダイバーシティが日本において微妙に根付かない/違和感を感じさせるものであり続けるのは、現在の日本社会がそこまで追いついていないからではないか、という話で、HOTASさんの考察のほうがずっと進んでいたので、わたしが教えてもらう形でした。このへんの、HOTASさんの記事をご参照いただければと思います。 Autistic は考えを変えられるのか、

        • 限定された場においてのみ有効な愛とか気づかいとかについて。

          「わたしは先生にとって、ただの患者にすぎなかったのね」というのは、なだいなだ「れとると」の中の女の子ユキが精神科医である主治医に告げた別れの言葉でした。以前はユキの立場、いまは主治医の立場で、そうよね、と思ったりします。 愛情、では、定義からしてわたしの手には余りますので、適宜、気づかい、と読み替えていこうと思います。 条件付きの愛、かどうか。「わたしの患者である限りは」という条件は間違いなくついています。これは、条件でもあり、場の定義でもあります。「あなたがわたしの患者

        入院診療が「システム運用」である話。

          地域移行とおっしゃいますが。

          地域移行って、聞こえはいいんですけどね。地域で暮らすことの是非はさておき、入院から「地域」に移るあるいは戻るにはどうするか、というお話です。わたしがたいへん、というより、ソーシャルワーカーがたいへんなので、わたしはあまり大きなことがいえないんですけどね。 イメージはこんな感じです。 もといたところに戻れるかどうか。もといたところに戻れるのか。これが最初の分岐点になります。わたしがいまいるところは緊急入院の患者さんが多いところです。ということはつまり、とてもとても病状が悪く

          地域移行とおっしゃいますが。

          精神科における認知症の扱いについて。

          わたしが精神科医になったとき、自分の使命は「統合失調症と双極性障害、うつ病の人を治療すること」だった。15年くらい前のことだ。同期も似たようなものだったと思う。いまは違うのかもしれない。 「身体拘束の劇的な増加」の背景には「重度認知症の人の増加」に加えて、わたしを含む一部の精神科医が認知症の扱いに慣れていないこと、があるのではないか、と思ったのだった。実情を少し、書いてみようと思う。 統合失調症を扱う科としての精神科精神科であつかう病気の主役は長い間、統合失調症だった。統

          精神科における認知症の扱いについて。

          身体拘束について思うこといろいろ。

          精神科における身体拘束(手足や胴体を、ベルトで固定すること、以下拘束と記載)についての記事が流れてきた。「そんなことするなんて、ひどい」「あれはつらかった」それはわかる、そうだと思う。 昔話昔々、いろいろな事情でいつ歩けなくなってもおかしくない人が、そうはいっても歩けるうちはと車いす併用でがんばっていたことがある。本人とご家族と相談して、転んだら転んだで仕方ない、それで大ごとになったとしても、それでも、いま歩きたいという本人の意思を尊重する、という結果になった。結果的に転び

          身体拘束について思うこといろいろ。

          ホワイトボード上のサボテンマグネット。

          なんなんだ、ですよね。これ、先日の、HOTASさん @HOTAS10001 との対談における発見の、キーワードなのでした。 「(余裕がある場合に関しては)人権を前面に押し出して交渉を迫るまえに、情報を共有したり、実績を積んだりして、問題意識を共有したほうが話は早いですよね」 (スペース上ではこの「余裕」についての言及が足りませんでしたけど) ますますなんなんだ、ですよね。これ、「札幌の屋外ではサボテンは育たないので、まず温室を用意してからサボテンを育てたほうが、サボテンは

          ホワイトボード上のサボテンマグネット。

          問題意識の共有が先、の難しさについて。

          昨日、わたしと同じくASDのHOTASさん @HOTAS10001 とスペースを行いました。ひさしぶりですね、とかいいつつ実は3ヶ月ぶりくらいの気分でいたんですけど、半年以上ぶりだったみたいですね。たのしかったです。 人権とニューロダイバーシティというテーマで話をするにあたり、一部の人につらい思いをさせたらしい、ということに、あとで気がつきました。ご指摘くださったかたがた、ありがとうございます。 ◆ 人権って、すごく強い言葉で、それを持ち出した瞬間に、相手は防御態勢に入

          問題意識の共有が先、の難しさについて。

          研究者を断念して医者になった話。

          わたし、医学部の前に理学部に4年間通って、大学院も半年行って、それから休学して医学部入試を受けて合格して、医学部を卒業して現在に至るんです。回り道についてはいろいろ思うところがありますけれど、その、回り道に至るまでの昔話です。 ◆ 理学部4年生からは、研究室配属でした。生物学系の研究室に入りました。DNAを解読したり、そのDNAがどこにどう働いているかをホヤとかで解析する研究室でした。 夏休みの間に大学院の入学試験がありました。研究室に所属している全員が必ず大学院に入学で

          研究者を断念して医者になった話。

          二人で食べると二倍美味しい、ですか。

          10年以上前。結婚したての頃。 「ご飯は『美味しいね』って言い合いながら食べたいんだよ」 と夫に言われて、文字通り固まったことがあります。 たとえば、ある店のハンバーグを食べておいしかったとして、夫にも食べさせたい、という気持ちはわたしにもあります。なので、おいしい料理が出てくるとわかっている店に行くときには、ぜひ一緒に行きたいわけです。それならわかる。 でも、二人で食べるとより美味しい、はよくわからない。美味しいものは美味しいし、美味しいなら分けてあげたい。でも、二人で食

          二人で食べると二倍美味しい、ですか。

          認識の対象と解像度。

          あまりに暑いので、さっき、かき氷バーを買ってきたんですよね。見たことある人も多いんじゃないかな。長年50円だったように思います。最近値上がりして70円になりました。30年前から好きでよく食べてます。 で、このかき氷バーですね、30年間たぶん毎年食べ続けているにもかかわらず、わたしの頭の中には、画像が入ってないんです。見ればわかります。当然です。でも、頭の中にはモヤモヤとした赤とピンクしか浮かんでいないわけです。画像の解像度が絶望的に低い。よって、「かき氷バー買ってきて」で通

          認識の対象と解像度。

          ASDの人は被害的な認知をもつ、のか?

          「ASD(自閉症スペクトラム)の人は被害的な認知を持ちやすい」と書いている人がいました。精神科医らしいですけどそれは今は措きます。意味はいくつか考えられます。 ダメージの大きい/小さい。 たとえば感覚過敏。わたし(ASD)には聴覚過敏があります。掃除機の音でダメージを受けます。HP(ヒットポイント、英語圏ではHealth Pointらしいですけど)が減ります。掃除機の音が延々と鳴り響くとしたら、わたしは被害を受けるわけです。 このとき、被害は実在します。だって、HPは実際に

          ASDの人は被害的な認知をもつ、のか?

          身内の偏見のことと、祖父と父のこと。

          わたしはいま、実家から遠く離れて暮らしています。帰省したことも、数回しかありません。行くたびに体調を崩すのです。 ◆ 理由のひとつは、わたしがASDというか「障害」を持っていることを、両親と親戚一同が、どうしても受け入れられないことにあります。信じたくないのです。わたしが「障害者」であることを。 「あのかしこいあずさちゃんが、障害者などという劣った存在であるはずがない」そのかしこいあずさちゃんが言ってることなんだから、信じてくれればいいのに、そこは信じないわけです。そし

          身内の偏見のことと、祖父と父のこと。

          知識を披露しないことで得られるもののこと。

           わたし、言語優位なんですよ。知能検査でもそうですし、実感としてもそうです。「ことばを、軽業みたいに使いますね」と言われたこともあります。  昔は、「ウオーキング・ディクショナリー」と呼ばれることがありました。歩く辞書ね。いまならウィキペディアですかね。語彙も豊富ですし、辞書的に覚えている単語も多いですし、どれもこれも説明できたりしますし。説明上手ですし。  最近は、そのウィキペディアを披露することは減りました。知識をひけらかすなんて失礼だとかうるさいとか面倒だとかなんとか

          知識を披露しないことで得られるもののこと。

          女性のASDが少ないとされる原因について

          昨日のHOTASさんとのスペースで、やっと言語化できたことがあるんです。仮説の域を出ないことではありますけれど。 気づいたことというのは、わたしにとって、女性らしさというのは目指しづらい概念であるということ、です。ASD女性の中には、わたしと同じ事情を抱えたひともいるように思います。 たとえば、「賢くあれ」。単純に勉強をがんばりなさいというメッセージになるのかどうか。男の子はそうですよね。勉強をがんばって、出世することはとてもいいことです。しかし女の子はどうでしょう。いま

          女性のASDが少ないとされる原因について