見出し画像

二人で食べると二倍美味しい、ですか。

10年以上前。結婚したての頃。
「ご飯は『美味しいね』って言い合いながら食べたいんだよ」
と夫に言われて、文字通り固まったことがあります。

たとえば、ある店のハンバーグを食べておいしかったとして、夫にも食べさせたい、という気持ちはわたしにもあります。なので、おいしい料理が出てくるとわかっている店に行くときには、ぜひ一緒に行きたいわけです。それならわかる。
でも、二人で食べるとより美味しい、はよくわからない。美味しいものは美味しいし、美味しいなら分けてあげたい。でも、二人で食べたらより美味しい? そうかな? 同じ食べ物なのに? 独り占めしたら申し訳ないってことならわかるけど、そういう意味じゃないよね? 
そして、美味しいね、と言い合いながら食べたい、というのがよくわからない。少なくとも当時はわかりませんでした。

言わなきゃわからない、それはそうです。わたしはとくに、言ってもらわないとわからない。言わなきゃわからないんだから、言え。そうですね。美味しいって言わなければ、美味しいとはわからない。そうですね。
じゃあなぜ美味しいと言わないのか。それが伝えたい【情報】ではないからなんだなあ、ということに、今さら気づきました。「美味しいから食べてごらんよ!」なら、美味しいと言います。言わなきゃ伝わらないし、食べてごらんよ、と言うからには理由も伝える必要がありますから。作ってくれた人にも言います。評価がほしいでしょうから。感謝の表明としても言います。でも、美味しいって、何をするわけでもなくても、ともに食事をしている相手に伝えるのが望ましいってことを、当時のわたしは理解できなかったわけです。
美味しいね、と言い合いながら食べたい、って、美味しいね、って伝える必要があるのね? 食事を楽しむためには、そのセリフが必要なのね? というところで、固まったのです。

その後、「美味しいと言い合いながら食べたい」だけはインプットしました。食事のたびに毎回、機械的に「美味しいね」と言い、笑顔を作ることを始めました。美味しいね、というやりとりには意味を見いだせないまま、です。意味を見いだせないといっても、夫が喜ぶのはわたしも嬉しいので、喜ばせよう、という動機で、言い続けていたわけです。唱える、に近いかもしれません。今も続いています。美味しいと言い合うことでより美味しく食べられる、というのは、わたしには到達できない境地に思えます。気持ちが伴わないと批判されたら悲しいけど、言い返せないです。
いまとなっては、同じ場面における同じフレーズとして習慣化しているためにわたしが安心できるセリフになっていたりします。別のメリットですね。そういう意味であるべきじゃないのはわかってる、だけどそうなんです。

ASDの「適応」って、すべてじゃないにせよ、こういうところ、ないですかね。形だけ合わせていて、本当に気持ちまで合わせることはできないけど、それを「気持ちが伴わない」と批判されるとしたら救われない、みたいなこと。
同じ形式で喜ぶことはできないけど、相手が喜ぶなら行動だけは合わせる。それ以上を求めて得られないのは相手もつらいと思うしそのへんはほんとごめんなさいとしか言いようがないんだけど、このへんで妥協してもらうしかないのかな、いつか気持ちも共有できるといいんだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?