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知識を披露しないことで得られるもののこと。

 わたし、言語優位なんですよ。知能検査でもそうですし、実感としてもそうです。「ことばを、軽業みたいに使いますね」と言われたこともあります。
 昔は、「ウオーキング・ディクショナリー」と呼ばれることがありました。歩く辞書ね。いまならウィキペディアですかね。語彙も豊富ですし、辞書的に覚えている単語も多いですし、どれもこれも説明できたりしますし。説明上手ですし。

 最近は、そのウィキペディアを披露することは減りました。知識をひけらかすなんて失礼だとかうるさいとか面倒だとかなんとかのトラブルが多いからというのもそうなんですけど、トラブルを起こさないにしても、これ、相手の発言を封じてしまうよね、ということがなんとなくわかってきたのです。ウィキペディアって、正確だから、正しいから、だからこそ、ファイナル・アンサーになっちゃうんです。ファイナル・アンサーは「ファイナル」ですから、つまり、そこでおしまい。話が終わってしまう。ファイナル・アンサーは正しいからそれでいいといえばいいんですけど、そこで話が終わるのは少しさみしいわけです。

 ファイナル・アンサーによって失われるのは、主観的な「おはなし」です。

 同じものを見ていても、人によって注目ポイントも違いますし、どんな経験をしてきたか、どう解釈しているかも異なります。たとえば、トマトケチャップについて。味について注目する人もいるでしょうし、目玉焼きにかけるべき調味料について議論したい人もいるでしょう。演劇で血の表現として使ったことについて語りたい人もいるかもしれませんし、アメリカに行ってケチャップばかりで食べ飽きた話というかついでだからアメリカ留学の思い出話をしたい人がいても不思議ではありません。どれもこれも、トマトケチャップの話ではあるんですよね。そして、トマトケチャップという単語あるいはケチャップそのものから連想され得るイメージが増えたりします。
 まあ、ケチャップについてはイメージを増やさなくてもいいといえばいいんですけど、これがたとえばASDについてだったりしたら、イメージを増やすことは、理解を深めることにつながるかもしれません。
 それに、です。上記のトマトケチャップ談義には、「そのひと」が登場してますよね。目玉焼きが好きだとか嫌いだとか、演劇やってたんだよねとか、アメリカ留学行ったんだよねとか。せっかくだからそのひとについても知れるんだったら、ちょっと得した感じですよね。
 「あなたはどういう人ですか」って答えづらいじゃないですか。少なくともわたしは、どう答えたらいいかわかりません。でもね、たとえばケチャップについて語ることはできて、そこで何をどう語るかで、自分自身を知ってもらうことは可能なのかもしれないなと思ったりするわけです。

 「チーム・バチスタの栄光」という小説においては、主人公(田口先生)がそれぞれの登場人物に名前の由来についてたずねるというのが、登場人物紹介を兼ねていました。それに近い話かもしれません。そういえばあの主人公、精神科医じゃないけど精神科医以上に精神科医っぽい仕事をしていたのでした。仕事で身につけた方法なのかもしれません。そういえば日々、そうやって情報収集しているような気もします。


 


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