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女性のASDが少ないとされる原因について

昨日のHOTASさんとのスペースで、やっと言語化できたことがあるんです。仮説の域を出ないことではありますけれど。

気づいたことというのは、わたしにとって、女性らしさというのは目指しづらい概念であるということ、です。ASD女性の中には、わたしと同じ事情を抱えたひともいるように思います。

たとえば、「賢くあれ」。単純に勉強をがんばりなさいというメッセージになるのかどうか。男の子はそうですよね。勉強をがんばって、出世することはとてもいいことです。しかし女の子はどうでしょう。いまはそうでもないとは思いますけど、わたしが育った1980年代の広島においては、「女の子はいずれ嫁に行くんだから、勉強なんかそんなに頑張らなくていい」が主流でした。でも、賢さがまったく不要かというとそうでもなくて、良妻賢母はもちろんよいものとしてたたえられるわけです。しかしこの良妻賢母、何をどうやったら目指せるのか、勉強ほどには単純ではありません。
「強くあれ」もそうですね。弱くていいわけじゃないから、ある程度の強さは要ります。しかし、強さを追求しすぎるとよろしくないわけです。たとえば筋力アップ。いわゆるムキムキマッチョを目指してもいいけど、積極的に奨励されることは少ないかなと思います。男性より力が強くてもいいけど、誇示してはいけない。男性においては、力は強いほどいいし、それを自慢してもかまわないはずですから、やはり、女性の受け取るメッセージのほうが複雑です。
「正しくあれ」もそうです。正しさを「振りかざす」ことへの風当たりは、やっぱり女性の方が強いかなとか。正義の味方は、伝統的には「ヒーロー」=男の子ですよね。ヒロイン=女の子は、ヒーローによって助けられる存在です。正しさの象徴であることはかまわないけど、自分が正しさを実行するのは、やっぱり、奨励されづらい。そして、正しさの象徴であるとしても、それを認定するのは男の子だったりするわけで。

ASD全員ではないと思いますけれど、少なくともわたしにとっては、これらの女性版「賢くあれ?」「強くあれ?」「正しくあれ?」はとても複雑で難しいものでした。わからないものは目指せない。「理屈っぽい」「納得しないと行動できない」タイプであったからかもしれません。モデルをそのまま取り込むことが難しいタイプであったからかもしれません。一回言語化しないと取り込めない。そして、女性らしさは、行動原理としては言語化しづらい。
結果としてわたしは、単純な「強くあれ、賢くあれ、正しくあれ」に沿って生きていくことを選択しました。単純に勉強をがんばり、スポーツをがんばり(壊滅的にできなかったけど、それにしてもがんばったほうがいいとは思い)、正しさとは何かを知り、それを実行する。そっちの方向にかじを切ったわけです。必ずしも全方位的に高く評価されたわけではないですけれども、わたしの両親はそれをいちおうは認めてくれたように思います。大歓迎とは言わないまでも。

そして、思うのは、女性らしさと相性のわるいASD女性がいるとして、とても厳しくしつけられた場合、それでもその女性らしさをなんとか習得できることも多いというだけでなく、なかなかうまくいかないケースにおいても、自分ひとりの責任にしてしまって、これは(自分のせいではなく)障害だ、と認識することが難しくなるんじゃないかなということです。女性らしさを強調して育てられるということは、周りに女性らしい女性ばかりが存在するということでもありましょうし、また、女性らしい女性、女性の女性らしさばかりが目に入るということでもありましょうから。

女性らしさを厳しくしつけられると、厳しいしつけの結果ASDらしい言動が抑制されるだけではなく、ASDらしい言動を自分に許さなくなり、そのASDらしさについて、自分のせいではなく障害のせいだとして医療や福祉に結びつきづらいから、診断されることが少ないのかもしれません。それでも徐々に女性のASDが存在すると知られてきている背景には、女性の教育において、伝統的な女性らしさが以前ほど強調されなくなり、個人の特性や能力により注目するようになったことがあるんじゃないかなとか。

ほんとはね、自分の特性とそれなりに相性のいい生き方を選べるといいですよね。それは、男女問わず、ASDのあるなしを問わず、です。



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