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限定された場においてのみ有効な愛とか気づかいとかについて。

「わたしは先生にとって、ただの患者にすぎなかったのね」というのは、なだいなだ「れとると」の中の女の子ユキが精神科医である主治医に告げた別れの言葉でした。以前はユキの立場、いまは主治医の立場で、そうよね、と思ったりします。

愛情、では、定義からしてわたしの手には余りますので、適宜、気づかい、と読み替えていこうと思います。

条件付きの愛、かどうか。「わたしの患者である限りは」という条件は間違いなくついています。これは、条件でもあり、場の定義でもあります。「あなたがわたしの患者である、この場においては」と、読み替えていいように思うのです。そして、この場においては、たとえばあなたがどのような態度をとろうと、気づかいを示し続けることはできるでしょう。それを、責任問題の回避とだけ受け取られると悲しいかもしれません。そう受け取るに至る事情こそが、治療対象であるかもしれません。わたしに扱えるかどうかはともかくとして。

そうはいってももちろん、極端な暴力は困ります。たぶん、その「あなたがわたしの患者である」の、「患者である」の定義の中に、対処不能な暴力は対象外とする、という旨が書き込まれているのでしょう。これは、たとえばクリニックと精神科病院では違うでしょうし、精神科病院の中でも、開放病棟と保護室では異なるでしょう。ここでも、場は登場します。

「あなたがわたしの患者である、この場において」だからこそ、提供できるものはあるように思いますし、それらは、「いついかなる場においても」提供できるわけではない、提供しなくていい、と許されているからこそ、安心して提供できるように思うのです。フロイトの弟子の一人は、24時間いつでも、クライアントからの電話を受け付ける方針としたところ、おそらくそれが原因で、早死にしてしまった、そう聞いたことがあります。死なないにしても、長続きはしないように思います。

そしてその限定はおそらく、医師を守るだけでなく、患者さんをも守っているような気がします。重症なときには、そんな限定などないという幻想も必要でしょうし、それをあえて壊すこともしないようにふるまうことはあるかもしれません。しかし、病気が軽くなるにつれ、その幻想からも同時に、卒業していくことになります。そしてその幻想は、医師が一方的に与えるものではなく、医師と患者が協力して作り上げまた維持するものなのでしょう。その、幻想であるところの世界が、冒頭に上げた「れとると」でいうところの、レトルト(加熱殺菌用の密閉された釜)なのでした。

そうはいってもこの、病気の間だけ必要な幻想を医師患者双方の協力のもとに維持する、という構図は、健康な人が一時的に病気になったときにはきれいに成り立ちますしそこからの離脱や卒業も問題なく進むいっぽうで、もともとの健康度が低い場合にはうまくいかなくなりがちです。たぶん、うまくいかなかった、どうにもできなかったいろいろな記憶があるからこそ、わたしも、このツイート(ポスト)にひっかかったのでしょう。

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