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読書感想 『ハンチバック』  「受け止めきれない怒り」

 2023年の芥川賞受賞作は、ニュースなどで知っていた。重度障害者では初めての受賞だと報道された。

「重度障害者の受賞者も作品もあまりなかった。今回、初だと書かれるんでしょうが、どうしてそれが2023年にもなって初めてなのか、みんなに考えてもらいたい」

(「東京新聞」より)

 そう指摘されて、普段、本当に考えていないことに気がついた。

 そして、そうした受賞時の言葉にまで、これだけの力をこめられることはすごいのだと思ったのだけど、それは、自分も含めた社会の環境を考えると、やはり「2023年になって初めて」なのは、とても遅くて、問題なのだろうと思った。

 読む前に、多少、心が構えてしまった。

 それ自体が、いろいろな意味で問題があることなのは、分かるけれど、今のところどうしようもなかった。


『ハンチバック』  市川沙央

 知らないことばかりで、構成されているように感じた。
 それだけ、自分が見ないようにしてきた、ということだった。

 喉のど真ん中に穴を開ければ原理的に鼻口で呼吸するより負荷が下がると、14の私に病棟主治医は説明した。以来、私が人工呼吸器を必要とするのは仰臥時のみだった。「ミオチャプラー・ミオパチーは進行性じゃないからね」が両親のお題目だった。(中略)何しろ遺伝子エラーで筋肉の設計図そのものが間違っているのだから、劇的な進行がないと言ったって、維持も成長も老化も健常者と同じようにはいかない。
 曲がった首に負荷のかかりにくい姿勢をつくるために椅子の上で両脚をパズルのように折り畳んで、デスクの左側のノートパソコンを起動させる。

(「ハンチバック」より)

 病気の症状や、周囲の反応や対応。両親の言葉や、自身の身体のことについて、これだけ正確に描写しているので、全く知らなかった人間でさえ、一瞬、分かったような気になる。

 それは、もちろん錯覚であるとしても、その状態で、文章を書き続けることを想像し、だけど、実感としては分かるわけがないことも、分からせてくれる。

 首に負荷をかけない姿勢は腰に負荷をかけるので、30分経つと足を下ろして腰を宥める姿勢に移る。また30分もすれば首が痺れてくるから両脚を所定の位置に折り畳む。そうしている内にも重力は私のS字にたわんだ背骨をもっと押し潰そうとしてくる。硬いプラスチックの矯正コルセットに胴体を閉じ込めて重力に抵抗している身体の中で、湾曲した背骨とコルセットの間に挟まれた心臓と肺は常に窮屈な思いをパルスオキシメーターの数値に吐露した。息苦しい世の中になった、というヤフコメ民や文化人の嘆きを目にするたび私は「本当の息苦しさも知らない癖に」と思う。こいつらは30年前のパルスオキシメーターがどんな形状だったかも知らない癖に。 

(「ハンチバック」より)

 普段は見ないようにしていることなのだけど、目を背けさせないような描写が続く。

 主人公は、親が遺してくれた遺産で、自身が所有するグループホームで生活をしている。

 だから、生活そのものには困っていない。というよりも、もしも、そうした経済力がなかったら、生活よりも、命がどうなっていたのか。生きていたとしても、生きていくこと以外に、何かをできる環境があったのだろうか、と思ってしまうが、それも、自分の無知のせいで、それ以上の想像が広がりにくい。

 このグループホームの土地建物は私が所有していて、他にも数棟のマンションから管理会社を通して家賃収入があった。親から相続した億単位の現金資産はあちこちの銀行に手つかずで残っている。私には相続人がないため、死後は全て国庫行きになる。障害を持つ子のために親が頑張って財産を残し、子が係累なく死んで全て国庫行きになるパターンはよく聞く。生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりと溜飲を下げてくれるのではないか?

 そして、読書という行為自体が、どれだけ身体に負担をかけるのか。それは、芥川賞受賞以後、あちこちで引用されているから、私も少し分かった気になっていたのだけれど、当然ながら、そんなに簡単に分かるわけがない。

 厚みが3、4センチはある本を両手で押さえて没頭する読書は、他のどんな行為よりも背骨に負荷をかける。私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。曲がった首でかろうじて支える重い頭が頭痛を軋ませ、内臓を押し潰しながら屈曲した腰が前傾姿勢のせいで地球との綱引きに負けていく。紙の本を読むたびに私の背骨は少しずつ曲がっていくような気がする。

 バリアフリー、さらにはSDGsという言葉は広く言われるようになり、車イスを押して駅に行くと、この10年くらいでエレベーターは多くなり、変化も感じるが、ただ、自分が関係すること以外については、見えていないことに改めて気がつく。

 紙の本を読むのは、知的な側面ばかりに目がいってしまうが、その物質を扱う肉体的な作業でもある。だから、知らなければ、気がつかないうちに排除にもつながる。

 アメリカの大学ではADAに基づき、電子教科書が普及済みどころか、箱から出して視覚障害者がすぐ使える仕様の端末(リーダー)でなければ配布物として採用されない。日本では社会に障害者はいないことになっているのでそんなアグレッシブな配慮はない。本に苦しむせむし(ハンチバック)の怪物の姿など日本の健常者は想像したことがないのだろう。

 それは、こうした内省も踏まえての言葉だった。

 苛立ちや蔑みというものは、遥か遠く離れたものには向かないものだ。
 私が紙の本に感じる憎しみもそうだ。運動能力のない私の身体がいくら疎外されていても公園の鉄棒やジャングルジムに憎しみは感じない。 

 さらに、その批判は、それが実現するかどうかは別としても、出版界まで届けている。

 出版社は健常者優位主義(マチズモ)ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。軟弱を気取る文化系の皆さんが蛇蝎の如く憎むスポーツ界のほうが、よっぽどその一隅に障害者の活躍の場を用意しているじゃないですか。出版界が障害者に今までしてきたことと言えば、1975年に文芸作家の集まりが図書館の視覚障害者向けサービスに難癖を付けて潰した、「愛のテープは違法」事件ね、ああいうのばかりじゃないですか。

(「ハンチバック」より)

 これは、本当のことだと思う。それでも、恥ずかしながら知らないままだった。

私の夢

 そうした日常の中で、主人公は、ある「夢」についてひそかにつぶやき始める。

 暫く考えてみて、そのツイートは下書き保存する。私はノートパソコンのプラウザからEvernoteを開く。炎上しそうな思いつきは取り敢えずここに吐き出して冷却期間を置くのだ。
〈妊娠と中絶をしてみたい〉
〈私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう〉
〈出産にも耐えられないだろう〉
〈もちろん育児も無理である〉
〈でもたぶん妊娠と中絶までなら普通に出来る〉
〈だから妊娠と中絶をしてみたい〉
〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉

 そのことについて、いわゆる主人公は、自分以外の「社会」では、どんな反応があるのかも、自分でも分かっている。

 空気の調べが短調に変わり、静かになった食堂で私はさっき冷却した呟きが世の中に流して摩擦を起こさず常温を保つかどうか、考えてみる。こんな小さな食堂でも、私にとっては公共の場であり、社会だった。社会性のない呟きは、社会の空気のリズムを乱す。私の無様な跛行みたいに人々の耳目をぎょっとさせる。胎児殺しを欲望することは、56歳脊損男性の底明るい下ネタとは次元が違う。
 せむし(ハンチバック)の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。 

 その育ってきた環境についても、控えめに描写される。

 持ち家の子が殆どいない、いても工務店の子というくらいの地域。晴れた空を戦闘機の音に蓋されてしまう、名前を奪われた基地の街。金色のミニスカートの子。イルカのピアスの子。私に教祖の著書をくれた子。あの子たちがそれほど良い人生に到達できたとは思わないけれど、背骨の曲がらない正しい設計図に則った人生を送っているには違いない。ミスプリントされた設計図でしか参照できない私はどうやったらあの子たちみたいになれる?あの子たちのレベルでいい。子どもができて、堕ろして、別れて、くっ付いて、できて、産んで、別れて、くっ付いて、産んで。そういう人生の真似事でいい。
 私はあの子たちの背中に追い付きたかった。産むことはできずとも、堕ろすところまでは追い付きたかった。 

 1996年にはやっと障害者も産む側であることを公的に許してやろうよと法が正されたが、生殖技術の進展とコモディティ化によって障害者殺しは結局、多くのカップルにとってカジュアルなものとなった。そのうちプチプラ化するだろう。
 だったら、殺すために孕もうとする障害者がいてもいいんじゃないの?
 それでやっとバランスが取れない?

 いないことにされる。そのことについての怒りは、やはりベースにあって、その強い怒りは、受け止めきれないと感じる。でも、そんな傍観者のようなことを言っていられるのも、読者である私自身は、当事者ではなく、関係者でもないからだ。

 ミオチュプラー・ミオパーチは、使わないでいる筋力はすぐに衰えて、後から鍛えようとしても回復しない。昔は昇れていた階段ももう昇れないし、トイレに手すりを設置したら1年ほどで手すりなしでは立ち上がれなくなった。
 だから涅槃の釈華は死に物狂いでベッドから立ち上がって、毎日毎日どんなに息が苦しくても夜になるまではデスクに座っている。紙の本を憎みながら紙の本に齧り付いている。

(「ハンチバック」より)

 主人公は、その毎日を繰り返しながらも、自分の「夢」に関して、実現する方向への一歩を踏み出さざるを得なくもなるが、そこに関わってくる人物の悪意は、私のような健常者にとって、決して他人事ではない存在として描かれている。だから、読んでいる側にも向かってくる。

タイトル

 この小説のタイトルは「ハンチバック」。小説の文中にもあるように和訳すると「せむし」になる。

 原題『The Hunchback of Notre Dame』を直訳すると、「ノートルダムのせむし男」。「hunchback」とは、「背骨が湾曲した人(=せむし男)」という意味で、主人公カジモドのことを指しています。
 一方、邦題は『ノートルダムの鐘』で、カジモドがノートルダム大聖堂の鐘突きであることから、このタイトルになっていると考えられます。また、一説によると、原題の直訳である「ノートルダムのせむし男」の「せむし男」が放送コード(放送禁止用語)に引っかかってしまうことも関係しているとか・・・。

(「本気の英会話」より)

 ディズニー映画の場合は、主役にも関わらず、邦題の場合は、まるでいないことにされているようになる。

 そういう社会状況であれば、今回、紹介した小説のタイトルも、もしも「ハンチバック」という英語ではなく、その和訳の「せむし」であれば、タイトルに使うことはできなかったのだろうか。このタイトルの選択にも、そうした怒りのようなものが込められているのではないだろうか。

 21世紀の現在、読むべき本であることは間違いない、と思う。


(こちら↓は、電子書籍版です)



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