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読書感想 『ケチる貴方』 石田夏穂 「切実さは、具体性に宿る」

 人は、辛いときのことほど、細かく語る。

 それは、本筋ではないのでは、といったことまで、具体的に話す場合、そして、その具体性が高いほど、より辛いのではないか。

年齢を重ねるほど、そんなことを思うようになった。


『ケチる貴方』 石田夏穂

 表題作『ケチる貴方』は、主人公が極端な冷え性で、それに対応するための日常が描かれる。

 生まれてこの方、自分より手の冷たい人間に会ったことがない。握手会を催す立場ではないから、他人の手に触れた機会は子供の頃に集中している。私が子供だった頃は、しょっちゅう誰かと手を繋ぐ機会が会った。私の繋いだ手はどれもしっとりしており、そして、温かった。ケイちゃん、手え冷たっ。毎度毎度、氷のような手に驚かれはしたものの、だからと言って手を離されなかったのは、仁義というやつだったのかもしれない。

(『ケチる貴方』より)

 そして、その冷え性、ということは、フィクションの設定だとしても、読者の自分に少しでも寒がりの傾向があると、その寒さが怖くなるような感覚が体の中に蘇ってくるのは、その具体性の積み重ねのためだと思う。

 さらに、ある出来事をきっかけに、平熱を経験することで、その比較によって、これまでが、寒いだけではなく、どれだけひどく冷えていたかを感じられるようになっている。

 その晩、私は人生初の体験をした。
 夜半に目を覚ますとはっと上体を起こした。布団と湯たんぽがフローリングに投げ出されている。びっくりしたのは夢を見ていたからだ。火炙りにされる夢だ。時計を見ると、午前一時半だった。

 拳を作ってみると、指の腹が、どれも燃えるように熱い。
 信じられない。
 恐る恐る立ち上がると、何ともなかった。パンツとTシャツ姿になり冬場の冷たい水道水を飲んだ。手の平のコップの冷えを、身体が気持ちいいと感じる。その激変はむしろ気持ち悪かった。

 体温は三十六・八度だった。体温計の箱の記載によると日本人の平熱じゃないか。従来私の平熱は三十五度に満たない。私は体温計を五度見した。かつてなく驚愕し、そして、同じだけ不安になった。いっそ風邪の症状があればいいが、むしろ私は普段より元気だった。

 身体が生まれ変わったようにポカポカする。何だ、この身構えずに動ける感じは。いちいち気負わずに行動できる感じは。 

 午後になると、体温は元に戻った。

 だから、夜は、また冷えた体になってしまった。

 いつもよりも寒さが悲しみに直結するようだ。こんなことなら世間の平熱など知らなければよかった。どうすることもできず、固く目を閉じた。 

(『ケチる貴方』より)

仕事と職場

 私だけではないだろうけれど、たとえば、違う会社の職場のこと。もしくは、他人の仕事の内容のこと。そうした具体性について、驚くほど無知であることを、読み進むうちに、改めて知る。

 私の勤める会社には華々しさの「は」の字もない。備蓄用タンクの設計と施工を請け負う従業員数二百人規模のしがない工事業者だ。備蓄用タンクとは工場等に存在するあのデカい入れ物のことだ。形状は巨人のコップのようだったり巨人のビー玉のようだったりする。色は発注者の好みにより白だったり薄緑だったりし、断熱材が適用される場合は外装板が銀色に光る。

 職場の細かいことも描かれる。

 施工部では意図的に警報のような呼び出し音が設定されている。施工部が取る外線の大半は下請からだが極稀に事故発生の一報が現場から入る場合がある。工事中の労働災害だ。そうした時は組織の連絡網として真っ先に本社に連絡されなければならないし、本社としても電話取れませんでしたという間抜けは許されない。令和らしからぬ古風な気構えだが、建設業なら斯くあるべしだろう。 

 主人公は、その職場で、7年間、働いてきた女性だった。

 理不尽な目にもあっているし、これからも遭い続けることが前提のようになっていて、その自衛のためにも、職場でも最低限の人との関わりしか持たないようにしているようだ。

 それにも関わらず、今年の新入社員2人の「教育係」を、離職率が高い中、不本意ながら担当することになり、そこからのことも、読者にとっても共通点があるのかもしれない、と思わせるのも、その具体性のせいだと思う。

 弊社のジャケットは罪深いほどダサかった。こうした初動ミスが離職率上昇に繋がるのだと、私は半眼になりウェルカムモード全開の部長を見遣る。プロジェクターのある南向きの別室で三人だけになると、私は「無理して着なくていいよ」と、二人に自由への扉を開いたが、二人は困ったようにはにかみながら、結局着用し続けた。確かに脱ぎづらい状況ではあった。私もこなれた感じでジャケットを着ていたのだ。 

 そして、いわゆる外回りにも、2人の新人と行動を共にするしかない。

 そのあと私は「下請」と言っては駄目だと二人に指摘した。山本が「下請は……」と、打ち合わせの終盤で謎に出しゃばったのだ。今更だが昨今は「下請」とか「サブコン」と言うのは御法度で「協力会社」ないし「パートナー」と言わなければならない。

 一応注意すると「次からは気をつけます」と山本や口を一文字にした。
 もちろん山本の言葉遣いは、そのまま私のそれだった。二人の前で私自身が「下請」とアクセル全開で言っていたのだ。だからこれは、事前に二人に注意しておかなかった私の非だった……うん、確かに私の非だ。山本を責める気持ちは本当に1ミリもない。だが(うわ、めんどくさ)と、私が辟易したのもまた事実だった。余程のきめ細かさを発揮しなければ万全の指導などできない。こうした「きめ細かさ」が私に期待されるところなのだろうが、それが日に日に重荷になってくる。 

(『ケチる貴方』より)

現地見学

 主人公は、体温が突然あがったことに戸惑いながらも、考えて、そして、自分だけの結論に至る。

 頭に稲妻が走った。そうだ、体温が上がったのは、いずれも私が珍しく寛容を発揮した時だった。前は魚の切り抜きに手を貸した。今回は贈呈役を引き受けた。通常そうした献身的行為を疎む私には、どちらも異例の事態だった。この異例に、私の身体は反応したのではないか。私は総合的にケチなのだ。財布の紐にしても、後輩育成にしても、人を許せるか否かにしても。どの項目でも私は百点満点のドケチ。ならば身体がドケチだったとて、おかしな話ではない。筋肉も脂肪も豊富でありながらいつも寒がっている在り方。食べても食べても熱に変換しない在り方。半永久的に宿便する在り方。いずれもケチな体質の証左だった。
 そういうことだったのか。ドケチな魂にはドケチな肉体がお似合いなのだ。

 そして、体温を得たい思いもあり、それからも、それまでの主人公とは違って、より人に寛容な行動をしようとする。その一環で、実現までに調整の手間ひまがかかる「現地見学」を、2人の新人に経験させようとする。

 我々三人と案内役の上司が現場に出ると、五十トンクレーンが三次元に切り出された鉄板を地切りしたところだった。玉掛け工が脇に除けると荷は高く吊り上げられ、その球面の一部になる鉄板が太陽の前を斜めに横切った時、それは何にも似てない黒い影になった。何だ、いきなり一番いいシーンじゃないか。

 それは、その場所を知らない人間が十分にイメージできないのは、読者としての力の問題もあると思うけれど、そこから、さらに具体的な描写が続き、そこが、独特の美しさを持つ現場であるのは、少し想像ができてくる。

 タンクを見ると天辺に上がりたくなるが、そこまで完成しているものはなかった。チラと二人を窺うと、目が本社でデスクトップを見ている時とは違う。二人とも忘れたように、瞬きひとつしないのだ。私は何も言わず、顔を正面に戻した。つまらん小解説は帰りの車中でいい。 

 私は外気の入冷をもろに受け、がちがち震えていた自分を思い出した。なけなしの体温すら死なない程度にしか守れなかった私。私が人より球に近い生き物だったのは、あるいは必然だったのかもしれない。私の身体は自分が宿命的に冷え性であることを知っていたから、生き伸びるために、球たらんとしたのか。たとえそれがどんなに無様な姿ででも。まさか。私は安全ゴーグル越しの直射日光に、ぎゅっと目を細めた。

(『ケチる貴方』より)

切実さと具体性

 主人公は内面の感情を細かく語ることはあまりしないけれど、出来事や行為はとても具体的に述べられていて、その細かさに、切実さが宿っているように感じてくる。

 それは、この書籍に収められている2つめの短編『その周囲、五十八センチ』でも、十分以上に書き連ねられている。

 太ももの周囲が58センチの女性。その太さは、今は、サバを読んでいることが有名になったものの、一時期は、芸能人女性のウエストサイズの平均値のようにも言われていたし、男性の一流サッカープレーヤの太さの目安でもあったから、かなり目立つ太ももであったのは間違いない。

 最初はダイエットで細くしようとした。
 身長158センチで、体重を40キロまで絞ったにも関わらず、太ももは、「五十六センチ」にしかならなかった。

 その後、失恋を契機に脂肪吸引を始めるが、それから23回の施術を経験することになり、その経過を、医師との打ち合わせ、部位による違い、ダウンタイムと言われる痛みの時間も含めて、かなり具体的に書かれることによって、その必然性や切実さが、読んでいると、思った以上に読者にも沁みてくるようだった。


 とても冷静に、具体的に、細やかな事実を積み重ねて、それは一見無機質なことのようでいて、少しずつ読者の方にも移し替えられるように積もってきて、それで、いつの間にか感情の重さが伝わってくる。

 いわゆる「文学的」と言われる作品を敬遠しがちな人にこそ、読んでもらいたい作品でした。


(こちら↓は、電子書籍版です)




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