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『21世紀の「大人」を考える』②「まともな大人」は、どこにいるのだろうか?

 精神年齢とか、人としての成熟といったことを考え始めると、精神年齢的には「老人」はいないのではないか(リンクあり)と思ったり、もしくは、どうしても「大人とはどんな人か」を考えることになる。精神年齢をあげようと努力するのではなく、いろいろとあって、結果として気がついたら成熟し、精神年齢があがっている、というのが自然なことだと思う。

 それは、明治時代に、夏目漱石が「高等遊民」といったことを繰り返し書いていた頃から、「大人」のイメージについては、ものすごく大量の文章が費やされてきたはずだし、そのことで、「大人」の像はいろいろと定まったり、揺らいだり、また再定義されたりして、年月がたって、もう100年以上が過ぎた。

 だから、今さら、そこに対して、画期的な「何か」を付け加えることもできないだろうし、そんな能力があるわけもない。だけど、本来であれば、「大人の中の大人」がなるべきであろう、実質的な世界一の権力者であるアメリカの大統領が、4年間、ああいう人だったから、「大人」の基準をまた考え直す時に来ているのかもしれない。もしかしたら近い未来に、アメリカでは初めての女性の大統領が誕生する可能性も出てきたし、今は、21世紀になり、「大人の基準の更新」がされる時に来ている感じもするので、未熟であっても、今の時点で、まずは「まともな大人はどこにいるのか?」から、改めて考えたほうがいいのかもしれない。

教室の記憶

 たとえば、小学校や中学校、高校でもいいのだけど、教室という場所で、自分のことは棚に上げて、たとえば40人学級として、男女問わず、この人はたいした大人になるのではないか、といったことを感じさせる人間が何人いたかを思い出すと、たとえば小学校でも2人か3人。中学校でも、高校でも似た感じで、10人を超えることはないと思う。

 そういう学生は、決して優等生とイコールではないけれど、いいやつだったり、素敵な人だったりする。それは、素質なのか、才能なのか、もしくは家庭環境に恵まれていたのか、と本人の努力のことよりも、そういう周囲のことについて要素を考えがちなのは、まだ生きている時間が短い、子供だからだと思う。そして、確かに「まともな子供」の親や養育者は、「まともな大人」が多い印象がある。

 それでも、同じ年代の子供として、どうして、こんなに勇気があるのだろう。心が広いのだろう。意志が強いのだろう。いつも、優しいのだろう。と、環境を考えることを超えて、感心するくらいの子供はいる。それは、でも「無垢なまともさ」といっていいもので、そのあと、どうなったのだろう、と不安とともに思う。

 そのあとに直面する社会のことを考えると、正直者は馬鹿を見る、といった言葉や、世の中はそんなに甘いものじゃない、といった声が頭に浮かぶからだ。たいしたことはないけれど、自分が経験した嫌なことや大変な事を思い出し、そういう環境を通って、さらには、もっと過酷なことがあるのは知識としては知っているから、あの「まともな子供たち」はどうなったのだろう、と思ったりする。この過酷な環境を通り抜けながらも、あの「まともさ」をキープできるのだろうか。

 ごく稀に、「まともな子供」が、大人になった姿を見る事もあるが、もちろんひどくはなっていないけれど、あの時から予想される「まともな大人像」までは到達していないことが多い。だけど、それは、もっとすごくなっていてくれたら、みたいな一方的な期待をしていただけで、その本人には責任はまったくないのに、勝手にがっかりすることはある。

 そして、社会に生きていれば、誰もが分かると思うのだけど、「まともな大人」は、教室の記憶と同様に、そんなに多くいるわけでもない。だけど、時々、目にして、感心もするような「まともな大人」は、どうやって、そうなったのだろうか、と思うことはある。自分が知らない「ある場所」にいくと、「まともな大人」が大勢いたりすることはあるのだろうか。

環境の影響

 「まともな子供」を見ると、やっぱり家庭環境を思ってしまう。
 そして、その家庭が「まとも」だったりすると、どこか確認できたような気持ちになるとともに、微妙な絶望感みたいなものがあるのは、生まれる場所は選べないし、環境で、その後がそんなに決定されるのは、仕方がないのかもしれないけれど、そこに理不尽さも感じるからだった。

 統計的に見ても、たとえばニューヨークで、以前は、銃撃が日常のような地域に生まれてしまうと、その後も、いわゆる法律の外で生きざるを得ないような将来が多くなる。そんな資料などは読んだ記憶があって、それは、環境の与える影響のことを考えたら、割り切れないけれど、必然であるように思えてしまう。

 だけど、これも、さらにどこかで読んだはずだし、もしかしたら、自分が信じたいだけのねつ造の記憶の可能性すらあるが、少数であるが、過酷な環境で育っても、社会的にも、まともに生きている大人たちがいる。その追跡調査によると、生育環境の中で、自分のことをきちんと相手にしてくれた大人がいた(たとえ一人でも)といった共通点があるらしい、ということを知って、自分で勝手な希望にしているところはある。

 もしかすると、「無垢のまともさ」よりも、厳しい環境の中に生まれ育って、その上で、「まともな大人」との出会いによって、自分自身も「まともな大人」になっていくというパターンが、「まともな大人」として、一番強く深い存在になっていくのではないか、とも思う事はある。だけど、それは、自分自身の勝手な、妙に甘い願望なのかもしれない。

「若い時の苦労は買ってでもしろ」

 こんな言葉は、昔はよく聞いていたけれど、一方では重すぎる苦労が人をゆがませてしまうようなこともあるから、一概に苦労すればいいというものではないと思っていた。それに、「若い時の苦労は買ってでもしろ」という年長者ほど、自分は苦労をしていないことが多い印象があったから、これは、若い人間への嫌がらせでもある乱暴な言葉ではないか、と疑ってもいた。

 それでも、年齢を重ねていくと、この言葉への印象は微妙に変わっている。

 たとえばサッカーのワールドカップ のような大きな舞台で、そこで戦うようにサッカーをするという経験がどのような質のものなのかは、ただ、とんでもないプレッシャーがあると想像するしかない。

 その中でプレーを続けた、特に若いプレーヤーは、そのワールドカップ の期間中に、それは一ヶ月くらいの時間にもかかわらず、というよりは、極端にいえば、1試合ごとに成長しているのを見ていると、その1試合が、これまでのリーグ戦とは違って、とんでもないプレッシャーがかかっている結果だとは思う。もちろん他ではない晴れがましさや充実感はあるかもしれないが、それでも、とんでもなく重い時間なのは想像もつく。そして、おそらく若いプレーヤーのほうが、そのプレッシャーの中での成長率は高いように思う。

 若い時の苦労は買ってでもしろ。

 もしかしたら、この言葉は、それを語っていた人の意図を超えて、こういうワールドカップ での経験みたいなことも示しているかもしれない。確かに若い時でないと、大きく成長できるような、重い負担を背負うことは難しく、歳をとった時に、重い苦労を背負うと、本当に命に関わってしまうことになるので、若い時に経験したほうがいい、という知恵かもしれない、と思うようにはなった。

 毎日を淡々と、仕事や生活に関しての工夫や努力も当然としても、突発的で不規則な大きなできごとがないと、成長の速度に拍車はかからないということかもしれず、だから、苦労も人をゆがませるだけではなく、たしかに意味は大きいのかもしれない。ただ、こうした大きなプレッシャーは意識して選択しないと、遭遇しない可能性も高い。だから、自分の大きな成長のために、若い時は、できるだけ困難なことへのチャレンジはしたほうがいい。

 それが、「若い時の苦労は買ってでもしろ」という意味なのかもしれない。

 ただ、これは向上はするものの、まともさに結びつくかどうかは、また少し違うような気もする。

まともな大人は、どこにいるのか?

 教室に「まともな子供」は少数派で、そこから成長していって、いろいろと厳しいことがあって、それでもゆがまずに成長につなげることができて、「まともな大人」になっても、それは、どう考えても、多数派ではない。

 そして、子供の頃は、厳しい環境の中にいたことで、まともに見えなかった人間が、成長する中で「まともな大人」との出会いによって、自身も「まともな大人」になる人たちも、残念ながら多数派とは思えない。

「若い時の苦労」を乗り越えて飛躍的に向上する人もいるが、その人たちのすべてが、自分の若い時と同じような「厳しい環境」にいる人間にも優しい「まともな成熟した大人」になるわけでもない。


 さらに、とても「まともな大人」だと思っていた人が、いわゆるベテランや晩年になって、急に、がっかりするような言動をすることもある。特にスポーツ界でも音楽界でも、そんなことがここ何年か続いたことが、「まともな大人」を考えたくなった動機の一つでもあった。

 おそらく、年齢が高い人ほど、この見方に同意してくれる人が多くなるような気はするのだけど、自分のことは棚にあげて、もしかしたら、ずっと「まともな人」なんて、世の中にいないんじゃないか、といった気持ちになる。だから、今の世界が、こんな感じになって、困っている人に対して、やたらと冷たくなるような余裕のない社会になるのかもしれない、と思ったりもする。精神年齢が高く、成熟した人はいないのではないか、といったような思いにもなる。

 能楽の世界で、「時分の花」「まことの花」という言葉があり、このことを自分が、本当に理解しているかどうかも分からないが、ただ、今の世界で「まともな大人」と見える人は、その時の勢いによる「時分の花」に過ぎず、生涯にわたって成熟していくような「まことの花」のような「まともな大人」は、(自分も含めて)どこにもいないのではないか、と思いたくもなる。

ガッカリした時に、どうするか?

 だけど、こんなことを考えているうちに、誰かに「まともな大人」であることを勝手に期待するのを、やめたほうがいいとも思うようになった。

 あの人はすごいなどと思っていて、そして、その短い時間だけでなく、10年以上たったころ、その人のことを忘れた時分になって、ガッカリするような言動をしたりするのを、最近のほうが目にすることも多くなってはいるが、少し考えれば、そのガッカリは、こちらの勝手な思い込みだったりもする。

 誰かがまともだったり、立派だったりするのだったら、その瞬間だけで十分で、それ以上を求めてはいけない。もしも、その行為などに学べることがあったら、その「まともさ」の存在が可能である、その事自体を証明したのだから、それから先を期待しない。

 そのまともさを見て、そして、それが参考にできて、もしも、もうガッカリしたくなかったら、少なくともやれることはある。もしかしたら、無理かもしれないし、間に合わない可能性も高いけれど、自分自身が少しでも「まともな成熟した大人」になるように努力なり工夫なりを始めればいい。(しんどそうですが、筋トレと一緒で、やめずに少しずつ、ということだと思います。私も無理せず、がんばりたいと思います)。

 だから、「まともな大人」とは、「まともな大人」になろうとすることをあきらめず、様々な試行錯誤をやめない人のことかもしれない。「まともな大人」は一度そうなったら、固定されるものではなく、そこからさらに「よりまともであること」を目指し続けないと、気がついたら、「まともでなくなる」という困難なことなのだと思う。時代が進むと、「まともさの基準」が更新されていくことも考えられるから、変わらないままだと、まともさが、遠くなる。

 「まともな大人はどこにいるのか?」といえば、どこにでもいる可能性があるし、自分自身が(将来)そうなれる可能性がある、ということなのだろう。そして、まともな大人でも、次の瞬間には、まともでなくなることもある、という単純だけど、残酷な事実があるだけ、だとも思う。


 未熟な結論ではありますが、今回の「まともな大人はどこにいるのか?」については、以上です。ただ、このままでは、あまりにも抽象的で不親切でもあるので、「21世紀の、まともな大人の基準」については、すみませんが、また別の機会↓に考えます。




(他にも、いろいろと書いています↓。読んでいただけたら、うれしく思います)。



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おちまこと
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