どうしてこの本を読もうとしたのか覚えていない。
これ読みたい、と思うと、その気持ち自体を忘れてしまうことも少し恐れているから、すぐに区の図書館が開設してくれているサイトがあって、そのマイページの「お気に入り」の項目に入れるので、その数は1000を超えた。
すごくありがたい機能だけど、自分がなんでも「お気に入り」に入れてしまうので、その中を探しても、見つからなくなったりする。
だから、「お気に入り」に入れるよりも、すぐに図書館に予約しても、人気があると100人以上の待ち人数がいたりするので、実際に読める頃には、失礼な話だけど、どうして読もうと思ったかも忘れたりする。
今回も、そんな作品だった。手元に来た時は、何かしらの情報がなかったら、自分では絶対に読まないタイプの本だったと気がついた。
『走る道化、浮かぶ日常』 九月
著書の紹介には、こうした文章が並ぶ。
これだけで、あまりいないタイプの芸人だし、京大の大学院まで出た学歴もそうだけど、どこにも所属しないで、しかもピン芸人として活動を続けている、ということは、どこか孤立している人なのではないか、という印象を持たせるプロフィールだった。
著者は、この書籍が出版されたときは、31歳くらいの時のはずで、今の時代であればまだ十分に若いけれど、30歳という人工的な区切りを前に、いろいろなことを考えるはずで、だけど、もし会社組織で働いていれば、自分のことよりも仕事のことが優先されるような時期でもあるはずだ。
だけど、京大卒のピン芸人の「九月」は、おそらく20代からずっと自分のことを考える時間が長そうだった。今も、実質的には「計算高い権力志向の実用エリートボンボン」の能力は持っているようだけど、同時に、自分では「頭でっかち屁理屈ぐうたら空想自我持ち肉団子」という自意識でい続けている。
これだけ純粋な自意識を保ち続けているだけで、それは才能なのだと思う。
考え続ける力
著者の「九月」という名前は、芸人名で、それほど深く考えたわけでもないようだ。だけど、そこには、そうした命名という場面で、自分の意図や思いや願いなどを「他の誰か」にわかられたくない、といった理由のために、わざわざ無造作を選んだ気配は強い。
ただ、そうした自意識を持続できているのは、何しろ考える力が強いせいだと思うし、考える時間をたっぷり使っているような気もするが、それは勝手な推測だけど、一人でいる時間が長いせいだとも思ってしまう。
だからこそ、通常なら見逃してしまう、とても小さな引っかかりのようなことも、自分なりの答えを出せるのだろうとも、勝手に推測を重ねてしまった。
例えば「センス」について。
視界に入っていて気がついているようで、でも実際にはわざわざ届かない場所に、読者の思考を連れて行ってくれるような表現が多い。
その場所は、少しだけ開けているような気がする。だけど、わずかに曲がりくねっているようにも感じる。
真っ直ぐでも、曲がっていても
著者の自分のキャラクターへの認識ははっきりしている。
それは、主観的だけではなく、客観性がないとわからないポジションのようだ。
だからなのか、この書籍の中でも、真っ直ぐでも、曲がっていても、真面目でも、不真面目でも、もしかしたら、面白いかどうかにもそれほどこだわっていないかもしれず、だから、やたらと正面からの言葉も並んでいる。
社会に適応するために、というよりも、資本主義の社会で働き始めるために、それまで考え続けたり、悩んだり、漠然と不安だったりすることとは、心の中で縁を切っていくことも少なくない。
それは、「中二病」とか、「青臭い」とか言われ、どこか馬鹿にされながら、捨て去ることを強要されたような気もするけれど、実は自分がそうしたことを考え続けるのに疲れていただけかもしれない。
おそらく、「九月」が芸人として、いわゆるすぐに「売れっ子」になっていたら、こうして、自分と向き合うような時間でしか出てこないような言葉は、ここに記録されなかったかもしれない。
これだけ純粋な自意識をキープしながら長い年月考えること自体が、かなり困難なことを思うと、この著書の文章は、想像以上に稀な表現なのかもしれないと改めて思った。
不思議と、ほどよく静かな気持ちになれる作品だと思います。
(こちらは↓、電子書籍版です)。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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