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読書感想 『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』 「負けた相手も主役にできるすごさ」
羽生結弦、大谷翔平、そして井上尚弥。
スポーツの世界で、日本から、これまで存在しないような突出したプレーヤーが一気に現れ始めた。それも、それほど関心がない人間にまで、その凄さが届きやすく、しかも少し古い表現になるとは思うが、心技体のバランスが良く、欠点が見当たりにくい、という共通点もある。
個人的には、日本という国自体が衰退していく分だけ、特定の個人に才能が凝縮するような傾向になっているのかもしれない、と根拠のない印象を抱いたりもしているのだけど、このアスリートたちの凄さは、言葉では表現しにくいのだろう、という思いもある。
ボクシング
ボクシングは、スポーツを扱うノンフィクションのテーマとして、比較的多く描かれてきた印象があるのは、海外ではモハメド・アリを筆頭に、リング上だけでなく、とても強い個性を持った人たちがいたせいもあるだろうし、日本国内では、沢木耕太郎が、自らも「当事者」となりながら書いた『一瞬の夏』も記憶に残っている。
リング上で、1対1で殴り合う。
とてもシンプルで、体一つで戦うということへの恐れに近い敬意まで抱かせるし、同時に、あれだけ人目に触れるところで行われているのに、その技術の凄さも、わかりやすそうで、わかりにくく、その上に、その強さも一見伝わりにくいのは、レベルが高くなるほど、そのリング上の二人がどちらも強いからだろう。
それほど熱心にボクシングを見てきたわけでもないので、そんな限られた経験で、しかもテレビ画面という限定された条件でも、その強さがはっきりと伝わってきたのは、ヘビー級のマイク・タイソンだった。
テレビ画面に映った体のただすまいも、その目つきも、そして試合が始まってからの動きの速さと、そのパンチが当たった時の相手がひしゃげて見えて、信じられないくらい強いと思えた。それは、ただの視聴者にも少し恐怖心を味わせてくれるくらいだった。
あんなにわかりやすく強い選手は、もう出てこないかもしれない。
どこかでそんなことを思っていて、同時に、マイク・タイソンのような強い選手を、また見たい、という無責任で勝手な願望を抱いていたことに、井上尚弥のKOシーンを見て、気がついた。
こんなに圧倒的に強いボクサーが、日本から出てくるとは思わなかった。
『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』 森合正範
失礼だけど、著者のことを知らなかった。
ボクシングに対して興味があれば知っていて当然の運動部の新聞記者だということは、この書籍を読んでいて分かってきたが、このテーマで書こうとした動機が、井上尚弥という強いチャンピオンの試合を取材したあとの無力感のようなものだった、というのは、少し意外だった。
とてもすごいのは、当然わかる。だけど、その強さを十分に伝えきれていないのではないか。そんなことを感じ、悩み、その上で、井上の対戦相手に取材することに思い至った。
ただ、毎日のように記事を書かなければいけない新聞記者が、このように、日常的な記事に直接関係あるかどうかわからないテーマに対して、おそらくは仕事以外の時間も使って書こうとすること自体が、かなり意外だった。
だが、深く傷ついた敗戦に私のような第三者が触れていいのだろうか。もしかしたら思い出したくない過去かもしれない。そもそも、負けた選手がきちんと話してくれるのだろうか。いや、敗れた試合、しかも対戦相手の強さを聞くなんて、失礼ではないか。
こうしたことを書くこと自体が、偽善とか、きれいごとだと勘ぐられるような時代になっていて、それでも、おそらくは本当にこういう気持ちを持てること。ベテランになるほど、取材して書くことに慣れていき、忘れてしまいそうな初心を保持できること。それこそが著者の才能ではないか、と読み進めるうちに感じてくる。
井上尚弥の強さ
井上尚弥の現時点(2024年3月)での戦績は、26戦26勝だから、この書籍が出版されたあとも、さらに勝利を積み重ねていることになる。
そして、著者は、井上の対戦相手、10人にインタビューしているが、これだけ取材できただけでも凄いと思えるし、海外の選手もいるし、さらには、スパーリングだけで試合での対戦はない選手も含まれている。
こうした数多い、視点の違う言葉によって、ボクシングに詳しくない読者にとっても、井上の強さへの解像度が明らかに上がってくるように思えてくる。
例えば、2013年4月に戦った佐野友樹からみた井上尚弥。
パンチを浴びた反対の目まで見えなくなる。そんなことが起こりうるのか。一発のアッパーで視神経までやられたというのだろうか。もちろん佐野には初めての経験だった。
普通の選手なら、どこかに隙ができるのに、ないんです。
でも、一番凄いのは心だと思う。あのとき二十歳ですよね。あれだけ注目されても周りのことは一切気にならない。
他の対戦相手たちも、井上尚弥と闘った人間にしか分からない井上の強さを、それぞれの言葉で語ってくれている。それはとても豊かなことだと感じるし、アスリートたちの具体性を持った表現の記録を残せたという意味でも、貴重な書籍だと思った。
例えば、2014年12月。スーパーフライ級をかけて戦った自らも偉大なチャンピオンと言われるオマール・ナルバエスの言葉。
「一発目のジャブをもらったとき、他のボクサーと違うなと感じた。『グローブをはめていないのでは』という硬さというのか、何か硬いモノで殴られたような感覚というのか。過去に闘った誰とも異なるパンチの質だったんだ」
それは、試合後、セコンド陣が、井上のバンテージに何か仕込まれているのではないか、と疑わせるようなパンチだった。
「一つ残念なことは、メディアは井上がリング上で繰り広げていることをいとも簡単にやっているように扱ってしまうことだ。でも、決して簡単ではない、ということを分かって欲しいんだ」
そのこれまでにない強さは、数字としても残ることになった。
2022年6月。ノニト・ドネアとの再戦で勝利した後のことだった。
試合から数日後、井上は米国の老舗専門誌『ザ・リング』の全階級を通じた最強ランキング「パウンド・フォー・パウンド(PFP)」で日本人初の一位となった。ドネアという世界的な強豪に何もさせず、わずか二ラウンドでKOし他ことが評価された。
大橋ジム会長の大橋秀行は「生きている間に日本人のPFP一位を見られるとは思っていなかった。正直、驚いている」とコメントし、日本人にとって夢のまた夢であったことを強調した。
対戦相手
敗戦した選手に話を聞いていいのだろうか。
著者は、そんな畏れのような思いを抱きながら取材を始めたせいもあり、そして相手のことを尊重する姿勢が変わらなかったことを示すように、井上尚弥と闘うまでも、その試合のあとのことも、そのボクサーがどんな人だったのか。という話も丁寧に書いているせいで、その対戦相手のボクサーも、主役を引き立てる存在という印象にはなっていない。
取材は驚きの連続だった。
対戦相手は時間を気にせず、ずっと井上戦の話をしてくれる。日本人に限らない。メキシコでもアルゼンチンでもインタビューで1時間半、二時間と向き合い、その後も一緒の時間を過ごした。
ボクシングコーディーネーターは、こんなことを言っていたという。
「なんで、こんなに長い時間話してくれるんでしょうね。メキシコでインタビューと言えば、二十分くらい。どんなに長くても三十分いかないかな。こんなに長い時間、真剣に話してくれることはないですよ」
そして、著者は、素朴で本質的な疑問も持ち続ける。どうして対戦相手は、井上尚弥との試合の内容を、これほど細かく覚えているのか。それを、2013年に井上と対戦した佐野友樹に直接尋ね、率直な答えも得ている。
「僕が思うに、命懸けで戦ったからじゃないですか。プロアマ通じて百試合近くやっていますけど、正直言って覚えていない試合のほうが多いんです。井上君と闘って燃え尽きたボクサーもいるだろうし、やりきれなかった人もいると思う。だけど、リング上で体感する井上君は特別で、一瞬一瞬が命懸けになる。もうね、本当に一瞬一瞬なんですよ。だから、しっかり覚えているんじゃないですかね」
敗者は勝者に夢を託し、勝者は何も語らず敗者の人生を背負って闘う。井上は佐野の人生にも光を当て、輝かせている。それが本物のチャンピオンなのだろう。
井上尚弥は、闘って、負けた相手も脇役にしていない。それは本当にすごいことで、同時に、対戦相手もシンプルに、それだけ強かった、ということだと思う。
私は取材を通して、彼らに心を奪われ、時に励まされているようだった。強い者に立ち向かうことの大切さ。敗れても、それを受け入れ、教訓にすることを教わった。五年間、何をしているときも、ずっと彼らの生き様が頭の片隅にあった。
取材者が、こうした気持ちを取材相手に持続することも、実は難しいはずで、こうした真っ直ぐさが、この作品を成立させた大事な要素の一つだとも思った。
証明
今はアスリートという「当事者」が自身で思いを発信できる環境でも、これだけ動画が発達し視覚的な情報もあふれている時代でも、インタビューという行為を通して、取材者が、こうして優れたノンフィクションを書くことが可能であるということを、2020年代の現在でも証明してくれた作品だった。
できたら、スポーツに興味がない人でも、自分自身が、日常の中で闘っている意識がある方であれば、気持ちに届く書籍だと思います。よかったら、手に取ってもらえたら、うれしいです。
(こちら↓は、電子書籍版です)。
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