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読書感想 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』 「歴史のディティールを残す、ということ」

 この本のことを聞いた時、おそらくは、大勢の人と同じように、どうして、今、「落合」なのだろうと思った。

 日本のプロ野球界で監督をしていたのは、2004年から2011年の8年間で、すでに10年以上前の話でもあり、落合博満は野球界の偉人でもあるのだけど、落合本人の著書もあり、これ以上、何を残そうというのだろう、といった気持ちだった。

 それで、ここからはかなり予想通りの展開で申し訳ないのだけど、読んでから、そんなことを思っていたのが恥ずかしいくらい、興味深く、面白い作品だった。

 歴史のディティールは、こうやって残さないと、誰も知らないまま、消えてしまう怖さみたいなことまで感じた。

『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』 鈴木忠平

 ノンフィクション、もしくはドキュメンタリーの分野では、書き手の状況と、取材対象との出会いのタイミングによって、驚くほど、作品の濃度が左右されると思う。

 この作品が、これほどの密度の高さを具現化できたのは、落合博満という独特の存在が、中日の監督に就任した時に、著者の鈴木忠平が、取材環境への違和感を持続していた頃だった、ということが、かなり重要な点だと思う。

 著者がスポーツ新聞誌の記者になって、野球担当になった頃、最初の取材対象は、その時の中日の監督・星野仙一だった。そして、その取材状況に関して、著者はかなり正確に表現しているように思える。

 星野が昼夜を問わずに開くどの会合も〝指定席〟はすでに埋まっていた。
 上座にいる星野の隣には親会社である新聞のキャップが、そこから古参の順に各新聞社のキャップが並んでいた。新参者は、星野の声が聞こえるか聞こえないかという末席にいるしかなかった。その席からわかるのは、星野が朝はいつもトーストに目玉焼きとレモンティーを頼むこと、目玉焼きは「オーバー」と注文を付け加えて、両面焼きにするということくらいだった。星野が笑い、古参が笑えば、意味もわからず私も笑みをつくった。それ以外は黙っていた。会合が終わると、他の記者たちと並んで同じように星野に頭を下げる。それだけだった。そうしているうちに1日は過ぎて、翌朝には私の知らないところで新聞ができあがっていた。

 そして、次の監督が、落合博満に決まったという噂が流れる。冬のある時点で、そのことを、著者の所属するスポーツ新聞だけが書くことになり、そのデスクのメッセージだけを「伝書鳩」のように落合本人に伝えるため、落合の自宅前で待つ。その朝に、著者は、落合に初めて出会い、それから、様々なことのすべてが始まる。

 時間と空間をともにすればするほど人は人を知る。やがてそれは既視感となり、その人を空気のごとく感じるようになるものだ。
 ただ落合はそうではない。落合の印象は、今もあの朝のままだ。
 確かに同じ時を生きたのに、同じものを見て同じことに笑ったはずなのに、その一方で、自分たちとは別世界の理を生きているような鮮烈さと緊張感が消えないのだ。
 世界の中でそこだけ切り取られたような個。周囲と隔絶した存在。
 だからだろうか。落合を取材していた時間は、野球がただ野球ではなかったように思う。それは八年間で四度のリーグ優勝という結果だけが理由ではない気がする。勝敗とは別のところで、野球というゲームの中に、人間とは、組織とは、個人とは、という問いかけがあった。 

 読後も、この表現が大げさに思えなかった。

 ある意味での予定調和であり、少し広く考えれば、日本の組織の反映のような野球の取材光景に対して、馴染めないまま、著者が、圧倒的な「個」と出会って、プロの現場で妥協のない日々を過ごし続けたことが、この「歴史の重要なディティール」を残せたのだと思う。

記者の距離感

 スポーツ新聞の記者として、取材して書くことは、私自身も昔、経験していた。

 それは、昭和の時代だから昔すぎるし、短い期間すぎるし、ゴルフ担当だったり、何より実績もないので、著者と比べることもできないが、取材現場での「序列」のようなものは、入社一年目で感じていた。

 何しろ20世紀は、野球が揺るぎないメジャースポーツだったから、ゴルフ記者とは、やや状況は違うとしても、有名プロゴルファーとの関係性の深い記者は決まっていて、インタビューの際の場所も含めて、特に大勢で話を聞くときは、その序列を崩すのは難しかった。

 もちろん、そうした関係性を築いてきた年月があったのだから、経験の少ない人間が入り込むのが難しいのは当然なのだけど、「心理的な距離を縮めること」と、「書くべきことを書くこと」との両立は難しいのでは、と思っていた。

 せっかく近い関係になったら、その相手にとって、不利と思えることは、書きにくくなるのが人間の特性だと感じていたからだ。

 それでも、そんな関係性に関しては、昭和が終わって、21世紀になったら、よりよい報道のための適切な方法論が確立するのではないかと、記者を辞めた後でも、思っていた。

 だけど、この著者が記者として仕事をしていたのは2000年代に入っていたから、ここに描かれていた古参の記者は、もしかしたら、自分と同世代ではないかと想像してしまった。その上で、長く仕事をするには、その世界に適応する大事さと、だからこそだと思うが、取材の現場の気配が、昭和の時代と、基本的に変わらないことには、ちょっとした驚きもあった。

 著者は、8年間も取材を続け、それでいて、落合の「個」を徹底するプロフェッショナルな姿勢によって、距離感が、ある地点より近づきすぎていないように感じた。ただ、そのために、記録や記憶の精度が、薄まらなかったのではないだろうか。

「プロの思い」の表現

 スポーツノンフィクション、もしくは、ドキュメンタリーを書くときに、おそらく誰もが悩んでしまうことの一つが、文章における人称だと思う。

 あるプレーヤーに取材をする。その内容を、どのように表現するか。昔からの一つの方法として、そのプレーヤーが書いているように、一人称で書く方法がある。

 それは、読者にとっては、読みやすく、作品として臨場感も生みやすい。

 だけど、書き手としては、考えてしまうはずだ。
 これは、本当にノンフィクションなのか。といった疑問がわいてしまう。

 書いているのは著者であって、そのプレーヤーではない。だけど、文章として、プレーヤーが書いているように、書いていいのだろうか。

 だけど、聞き手としての自分も前に出して、そしてそのプレーヤーが話している部分は「」(かぎかっこ)で記せば、事実を書く、という意味でのノンフィクションの正確性は高まるものの、読んでいる時の没入感は確実に減ってしまう。

 そんなことを、著者もおそらくは検討したとは思うものの、この作品では、プレーヤーの思いは、ほぼすべて一人称で書かれている。ただ、それは、週刊誌上で、この作品の連載をしていた2020年〜2021年当時に、再び取材をし、事実を確かめて再現したのだと思える。

(本書は「週刊文春」二〇二〇年八月十三日・二〇日号から二〇二一年三月四日号まで掲載)

 その方法は、実際の時間から、10年以上の時間が経ったことで、記憶の正確性が薄れるリスクはあるものの、リアルタイムの時だったら話せないことまで語れているようにも感じるので、事実の再現性が高くなっているようにも思えるから、その点では、時間が経ったことを味方にしているようにも感じた。

 さらには、著者の「記者としての視点」による事実も書いてあることによって、読者も一緒に時間を進めているように思えるし、記者としての成長も感じられるし、可能な限りの率直さによって、より臨場感が増しているように思える。

 そして、1人称で語られない登場人物が、おそらく一人だけいて、それが主役の「落合博満」であることが、かなり実像に迫りながらも、「落合の分かられなさ」を、結果として浮き彫りにしているようにも感じる。

 やはり読者としては、この1人称のスタイルは読みやすく、没入しやすいのも事実で、(著者は、途中は悩んだとしても)迷いなく、この方法を使っている気持ちよさも感じたが、何しろ、それを可能にしているのは、取材によって、その時の思いをなるべく正確に語ってもらうまで、おそらくはきちんと待てた著者の、わかりにくいけれど豊かな力のおかげだと思う。

「8年間」という歴史

 2004年から、2011年で、中日ドラゴンズは4回のリーグ優勝を果たしているが、その年月の中で、1シーズンごとに、落合博満と共に、特定のプレーヤーに焦点を当てる構成になっている。

 2004年。川崎慶次郎
 移籍してきた一線級のピッチャーだったが、故障のため3年間、二軍にいたのに、落合から、直接電話があり、開幕投手に指名される。

 2005年。森野将彦
 チームの顔、と言えるプレーヤーと、文字通りの死に物狂いのポジション争いをすることになる。

 2006年。福留孝介
 バットのみで落合とつながる、と決めたプロフェッショナルなバッターと、落合の不思議な共通点が見えてくるシーズン。

 2007年。宇野勝
 勝つことと、野球の魅力を伝えること。それを両立させたい、コーチとしての葛藤

 2007年。岡本真也
 日本一を決める試合で、完全試合を目前にピッチャー交代した試合の舞台裏。

 2008年。中田宗男
 チームの将来と、即戦力という要望の間での、スカウトとしての葛藤。

 2009年。吉見一起 
 エースはいない、という落合の真意について。

 2010年。和田一浩 
 ベテランですら意識改革を迫る環境。

 2011年。荒木雅博 
 それぞれ「個」としてプロでありながら、さらに「強いチーム」として変質したシーズン。

 この年月の中で、プレーヤーも、記者も、落合博満という、ある種、得体の知れない、だけど、凄みを感じさせるプロとの関わりの中で、変わっていって、しかも形としてはっきりと現れるというような、まるで奇跡のような「8年間」が、今の出来事のように感じられた。

 すごい作品だった。480ページという量を感じさせないほど、次のページをめくっていた。

 本当に久しぶりに、スポーツノンフィクションの長編を読んだのだけど、これは、売れ行きも良かったということなので、これからも、時代を問わず(なんで今さら、という拒絶を跳ね返すモデルにもなり得るので)、優れたノンフィクションが生まれるきっかけになるかもしれない、とも思えた。昔、同じようにスポーツを取材して書いていた頃の自分だったら、明らかに、とてもうらやましく感じていたと思う。

 どうして、落合博満は嫌われたのか?

 少し気持ちが重くなる事実なのだけど、本当のプロほど、この日本社会では排除されやすいのではないか、という理由に思えた。

 そのことは、たぶん、残念ながら、今も変わっていないように思う。

おすすめしたい人

 野球好きな人であれば、「落合嫌い」であっても、強くおすすめできます。
 野球に詳しい方ほど、より深く理解できるように思いました。

 スポーツ好きであれば、「野球嫌い」であっても、強めにおすすめします。
 スポーツの現場の空気感も、ここにはあったように思います。

 ノンフィクションが苦手であっても、「人の気持ち」に興味があれば、できれば、読んでもらえれば、と思っています。

 職場環境に違和感や疑問があって、それでも、「プロフェッショナル」を目指したいという方であれば、読むことで、少し励まされるような気がします。




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