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読書感想 『「許せない」がやめられない』 坂爪真吾 「新しい『依存症』の発見」

 私はツイッターをしていない。
 だけど、ツイートは毎日のように見ていて、この人のは面白い、と思ったら、ブックマークをして、そのたびにクリックして、読んでいる。そこで見つけて、出かけられたイベントも少なくない。

  その、のんびりした方法は、携帯のスマホも持っていなくて(リンクあり)、ノートブックのコンピューターだけを持っている、という個別で特殊な事情のせいだと思う。さらには、フェイスブックも、インスタグラムも利用していない。このnoteが初めてのSNSで、それもまだ、やっと半年がたとうとしている程度だったりする。

 そして、ツイートをながめて、そういう人たちのフォロワー数が数万人とか、多い人は数十万人という数字を見ると、古い発想だと思いながら、野球やサッカーのスタジアムが満員になっているイメージが浮かぶ。それだけの注目をされているというのは、個人ができる経験としては、かなり特殊ではないかと思う。そんなことは、ツイッターもやっていない人間が言っても、説得力がないとは思うけれど、すでに、コミュニケーションの感覚が違ってきているのではないだろうか。

 昔、スポーツの取材をしていたことがある。プロゴルフのトーナメントで、最終日はかなりギャラリーでいっぱいになるので、ゴルフ場に張られたロープの中に入って、プレーを取材する機会が何度もあった。そういう時に、自分のいる位置によって、プレーヤーへ向けられる何千の視線の集中「流れ弾」のように、こちらまで向かってくることがあって、その時は、おおげさにいえば、視線が「痛い」と感じたことがあった。

  何万人、何十万人のフォロワーがいるということは、それに近いことがあるように思う。

 未経験なので、さらに説得力は下がるのだけど、ツイッターの数字を見ていて、秘かにびびっているのは、フォロワーの数よりも、実はフォローの人数だったりする。100や200でも、多いと思った。それだけの人のツイートを見ていると、タイムライン(この言葉はおぼえました)は、ずっと動いているのではないか、それについていけるのだろうか。さらには、1万とか2万のフォロー数を見ると、経験したことがないけれど、タイムラインが川の流れのようになっていて、止まることを知らず、しかもそのスピードが早いのではないだろうか。

 そこから的確に、自分に必要な情報を読み取り続ける、という行為は、私には、160キロの球速のボールをミートするプロ野球選手や、時速300キロの運転席で正確にドライビングをするF-1のドライバーの能力と、近いものを感じている。

『「許せない」がやめられない  SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症』  坂爪真吾

 この本を読んでいる時に、ツイートを見ていて、その背後にうっすらと見えていた「死闘」といっていいものが本当にあること。そして、それがずっと続いていて、もしかしたら激しさを増しているのでは、とかなり生々しく感じて、無知がゆえの考え過ぎと思いながらも、もし、何かの機会に、そこに巻き込まれたら、怖いと、ずっと薄い恐怖が続いていた。

 だから、この本を読んで、ここには、とても重要なことが書いてあるし、微力とはいえ、少しでも伝わるべき人に伝えるために、こうしてnoteで紹介するような文章を書きたい、と思いながらも、そのこと自体が、ものすごく低い確率と分かっていても、何かの拍子に「許せない」人たちに見つかり、「怒り」にまきこまれるのは恐いという恐怖心は、完全には抜けない。

 それだけ、この本の内容が、私にとって、すぐそこにあるようにリアルに感じられるものだった。そして、間違いなく、今の時代の出来事だと思えた。

「怒り」という「麻薬」

 自分自身も、気持ち的にかなり追い込まれた時に、何かの拍子に、激しい怒りが突発的に噴出し、それに支配されるように行動してしまい、その後に、自己嫌悪になったり、後悔したり、反省をして、できたら繰り返さないようにしたいと思ったことは、何度もある。

 でも、同時に、どこかで、これは気をつけないと、怒りに依存することがあるのではないか、という恐さも感じていたが、その怒りが突発的に起こる機会がそれほどないから、依存までいかずに済んだ。もしも、さらにその機会が増えていたら、危なかったかもしれない、といったことを、今回、改めて思った。だから、当然だけど、「許せない」ことは、他人事ではないと思う。

その「麻薬」の正体は、「怒り」である。

 さらに、その「麻薬」が必要になった人たちは、自分だけの怒りでは、おさまらなくなるらしい。この行為は、冷静に考えると、かなり怖い。

 自分の怒りだけでは飽き足らなくなった人たちは、当事者であることを主張し、被害者であることを装い、マイノリティを代弁して、他人の怒りを盗むことに夢中になる。こうした現象を「怒りの万引き」と呼ぶようにしよう。 

ミソジニスト

 すごく俗な言葉だけど、「モテる、モテない」は、特に若い時には重要だった。学校という場所に通っていれば、「モテる」人間は、確実にいて、その存在が遠くないのに、自分はまったく「モテない」ということは、それは存在を否定されているような、理不尽なような、そして、それがずっと続くかと思うと、どこか暗い絶望に襲われそうなことでもあった。

 それこそ、この本の表現でいえば、何かのきっかけで、「怒り」とともに、「闇落ち」したのが、「ミソジニスト」ではないか、と思うと、私も男性として生まれ育ってきたので、どこかで全く関係がないとは言い切れないように感じた。

 それでも、このSNSの時代だから、怒りや敵意がさらに煮詰まり純化されているようには思える。そして、近くにあるのに知らない世界が、あちこちに存在しているのだろう。

 あなたの生活や仕事とは全く接点がない領域、あなたのタイムライン上には決して表示されない情報空間の中で、「今の日本は男性差別が公然と行われている『女尊男卑』社会であり、男性はあらゆる場面で女性から虐げられている」と信じている人たちは、確実に存在している。そしてネット上における彼らの存在感は、日々強まってきている。

 そして、その憎しみや怒りが、女性からの批判によって、強くなっていくのは、なんとも言えない気持ちにはなる。

 男性の中に巣食うミソジニーは、女性から批判されればされるほど、強化される。
 ミソジニストが固く信じている「全てはフェミニストによる陰謀である」という世界観は、否定することが意外と難しい。 

 ただ、「インセル」といわれる存在は、実際に銃の乱射など重大な犯罪を起こし始めていると聞くので、さらに深刻な問題だとは思うのだけど、そうして表面化した時は、何かがすでに取り返しのつかなくなっているようにも感じ、知らないうちに育っていた、信じられないくらいの怒りや敵意や憎悪だけは伝わってきて、ただ無力感を抱えさせられる。自分は、この容姿のせいで、誰にも相手にされないんだ、と孤独に思う時間が、何万時間と蓄積すると、犯罪にまでつながってしまうのだろうか。

 努力によって変えられる(と考えられている)学歴や職業などの要因ではなく、努力しても変えられない、生まれつき決まっている(と考えられている)容姿に全ての責任を負わせることができれば、努力をしないことを正当化できる上に、被差別者として振る舞うこともできる。 

ツイッター・フェミニズム

 「ツイッター・フェミニズム 」(略称「ツイフェミ」)に関しては、ミソジニストの描写よりも、解像度が高いように思えてしまうのは、後述しているように著者自身が、そうした人たちから、かなり執拗に攻撃を受け続けて、具体的な出来事の蓄積があるからだと思うが、それだけに迫力と恐さが、より伝わってくる。

 著者は、2008年に、「障害者の性」問題を解決するための非営利組織・ホワイトハンズを設立。その後、障害者の問題だけでなく、風俗店で働く女性の無料生活・法律相談事業「風テラス」などにも取り組む中で、こうしたツイフェミからの非難は、この本でも詳細までは語られないものの、かなりのものだったのではないか、と想像できる。

 社会から女性差別をなくそうとする運動自体は、極めて重要である。しかし、その過程で無関係な人を「セクシスト(性差別者)」とみなして攻撃してしまったり、自らの主観や感情だけを根拠にして、特定の表現や相手を「差別」「加害者」と認定してしまうことは、女性差別の解消につながらないだけでなく、それ自体がハラスメントになってしまう。ハラスメントを批判する側がハラスメントを起こしてしまっては意味がない。 

 さらに、その描き方は、具体的な誰か、実際に起こった何か、に思えるようなリアルさもある。

 なぜ彼女たちは、女性を搾取するヤクザやホスト、DV夫といった「明らかな敵」ではなく、「明らかな味方」=自分の身近にいる、フェミニズム に理解を示すリベラル男子たちを執拗に叩くのだろうか。
 最大の理由は「自分たちの攻撃が最も通じる相手だから」である。「何でも斬れる刀」としてのフェニミズムは、基本的に近距離戦でしか使えない。 
 そして、「誰が本当のフェミニストか」という問い=「何でも斬れる刀」の正当な使用権や相続権をめぐって、フェミニスト同士で壮絶な斬り合いを演じるようになる。

 この表現自体が、また叩かれそうでもあるし、こうして紹介するだけでも、非難される側になるのではないかという、恐さまで、確かにある。ただ、この描写を読んでいて思うのは、これも詳しくは知らないから、安易に比べたりするのは失礼なのだけど、団塊の世代の学生運動での、内ゲバのことと、かなり似ているのではないか、という気持ちと、歴史は繰り返される、という無力感もおぼえる。

ジェンダー依存

 おそらく、様々な批判や非難の中で、異質と思えるほどの執着をする、一部のツイフェニがいて、そのために誹謗中傷を法的に訴える、という経験もした、この著者だからこそ気がついた視点だと思うのだけど、その行為に「ジェンダー依存」という名前をつけている。

 「許せない」がやめられない人たちの言動は、一見すると理解に苦しむようなものが多いが、依存症者の成育歴と心理という観点から捉え直すと、その多くを共感的に理解することができるようになるはずだ。  

 そこに至るまでの過程は、このように書いている。

 ツイートする前の緊張感、バズった時の高揚感、バズらなかった時の悔しさと渇望感が混ざり合い、さらにツイッターへの投稿と議論にのめり込むようになる。

 しかも、そうなって、やめるのが難しい原因も、こう分析している。

 SNS社会においては、怒りに対するアクセスの容易さと使用コストの低さは、アルコールやギャンブルをはるかに上回る。怒りによって手軽に高揚感を得られる情報環境こそが、ジェンダー依存が広まる原因になっている。

 私のようなツイッターも使っていないような人間ではなく、日々、ツイートを続ける人たちの方が、この本を深く理解し、そしてより有効に活用できるのだと思う。

 そして、もし、どこかツイートすることが「やめられない」という微妙な苦しさを伴うものになっているとしたら、この本のタイトルや著者に反発を覚えたとしても、より読んでみる価値はあるように思う。

 さらには、私のようなツイッター未経験者が言うと説得力がないのはわかりながらも、著者の提示する「ジェンダー依存」という状態も、ツイッターを使わなければ、ツイッターがなければ、これほど激化しないようにも思った。

 だけど、今でもツイッターを利用しないのは、交通事故を恐れて、一切クルマを使わないことと、同じような行為に思われるのも、なんとなく感じている。

孤独が育てるもの

 生きづらさを抱えた個人が、社会的に孤立し、排除され、誰ともつながれなくなった結果、自らが持って生まれた性別・性的指向・性自認・性表現を「心の松葉杖」にしてしまうことで発生する事態である。

 著者が、「ジェンダー依存」について書いた文章だが、「心の松葉杖」となりえるのは、国籍思想などにも入れ替えが可能だし、この文章は、ネトウヨやネトサヨといわれるまでになってしまった人たちも、表しているように思えてくる。

 こういうことを他人事のように語れないのは、これから先、何か一つでも二つでも理不尽な出来事があって、孤独になったとして、そこで気持ちが立ち上がれなくなってしまったら、その時に「闇落ち」しないような自信が持てないからだ。


 著者の語る「ジェンダー依存」にまで陥いるような人たちは、おそらく例外なく、本人にとっては大変な経験をしてきたはずだと思う。もしくは、ほとんど限界を超えるほどの努力をしてきたのかもしれない。そのことによって、心身が疲弊し、倒れるような状態になって、その時に必要な評価を受けただろうか。または、十分に労われただろうか。

 「怒り」を心の底に抱えた人に接したり、見たりするたびに、そんなことを思う。そんな仮定をするのは失礼かもしれないが、正当に評価されたり、労われたりする環境があれば、というよりも、そういう声をかけてくれる人が一人でもいれば、社会の中の「許せない」は、少しでも減るのだと思っている。

 21世紀の現在では、恥ずかしながら、詳細はわからないが、たとえばイギリスに「孤独担当大臣」が置かれた、と聞いたこともあるので、すでに、そうした取り組みが必要になっているし、思った以上に時間的な猶予は、なくなっているのかもしれない。



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