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読書感想 『差別はたいてい悪意のない人がする』 「すぐそこにある差別」
21世紀で最も意識の更新が必要なのは、「差別」に関することだと思う。
同時に昭和生まれの自分にとっては、どれだけ意識を変えても、現代に追い付かないのではないか、といった根本的な恐れもある。
だから、この本は、タイトルだけで読もうと思った。
『差別はたいてい悪意のない人がする』 キム・ジヘ
始まりは、著者が、無意識で悪意なく使った言葉からだった。
それは、でも、差別的な意味合いを持ってしまうこともある、と指摘を受けてからだった。
私が障害者を差別していたって?信じられなかった。いや、信じたくなかった。大学に入学してはじめて入ったサークルは手話サークルだった。社会福祉学と法学を専攻して人権について勉強し、障害者の権利や法律に関する授業を受けた。家族の中にも障害者がいて、かれらが置かれた状況をある程度知っていると思っていた私が、かれらを差別する側だったなんて。
現在の肩書きが「韓国・江陵原州大学校多文化学科教授(マイノリティ、人権、差別論)」である著者にとっては、おそらくは恥ずかしく、どこか思い出したくないような過去なのかもしれないが、この体験を無駄にしなかった。
私は怖くなってきた。もはや差別は、私と関係のない話ではなかった。教室で、会議場で、シンポジウムで、どこであれ、私自身も知らない自分の中の差別的な意識が、いつどんな言葉や行動として突然出てくるかもわからない。
私はこのなんとも座りの悪い「差別をする感性/意識」を研究してみようと思い、まずはマイノリティ集団をめぐるあらゆる侮辱的な言葉を集めることにした。
その成果をまずは分かりやすく示してくれている。
現場の活動家や研究者を対象に、侮辱的な表現を収集していたなかで、注目すべき二つの表現があった。
「もうすっかり韓国人ですね」
「希望を持ってください」
前者は国外から韓国に移り住んでいる移住者、後者は障害者に対する代表的な侮辱表現の例として挙げられている。
前者の表現は、日本でいえば、海外からの移住者に対して「もうすっかり日本人ですね」という表現に置き換える必要があるが、この二つの表現が、「差別」になるのは、一見、分かりにくい。
障害者に対する「希望を持って」という言葉も、同じく不当な前提のせいで侮辱的な発言と受けとられるという。だれかに希望を持てというのは、現在のその人の生活に「希望がない」ということを前提とする発言である。
こういうことを知っているか、知らないかで、たぶん、随分と違ってくるはずだ、と思う。
だれかに対して「真に平等」に接し、その人を尊重するのであれば、それは自分の無意識にまで目を向ける作業を経たうえでなければならない。いわば、自分が認めたくない恥ずかしい自分を発見することである。
この世の多くの人々も、私と同じように勘違いしたり、それぞれの思い込みをかかえて生きているのだろう。
「マジョリティ差別論」
「差別」ということを本当に少しでも減らそうと思うと、とても多くのさまざまな視点が必要になってくるのが、読み進めると、より分かってくる。
例えば、「マジョリティ差別論」をどう考えるのか。
マイノリティのためにマジョリティ(多数者)が差別を受けるという「マジョリティ差別論」の主張は、果たして現実に存在するのだろうか?マジョリティ差別論の主張を覗いてみると、それらは「マイノリティはもはや差別されていない」という前提からはじまっている。たとえ過去に差別された事実があったとしても、現在は解決済みのはずだという思い込みに拠っているのだ。そのため、マイノリティを助ける政策は「特権」に過ぎず、相対的にマジョリティにとっては不当な差別となる。
この引用部分の中で「思い込み」という表現があるが、その「差別は解消されている」という「思い込み」も、まったくの無根拠なわけではないのが、事情を複雑にしていると思う。
例えば、マイノリティでも「抜擢」によって、社会的な地位を得ている場合もある。これは、お飾り=トークンという意味合いでの、「トークニズム」の場合もあると、著者は表現しているが、私は恥ずかしながら知らなかった。
トークニズムは、被差別集団の構成員のごくわずかを受け入れるだけで、差別に対する怒りを和らげる効果があることが知られている。それによって、すべての人に機会が開かれているように見え、努力し能力を備えてさえいれば、だれもが成功できるという希望を与えるからである。結局、現実の状況は理想的な平等とは雲泥の差があるにもかかわらず、平等な社会がすでに達成されているかのような錯覚を引き起こす。
「特権」について
そして、「マジョリティ差別論」を主張する人に対して、日本でも特に男性に対して、「これまでゲタをはかされてきたことに気づいていない」という批判がされることがあり、それは「特権」という言葉で表現されることもあるが、その「特権」という表現が立場によって、おそらくは全く違って思えるはずだ。
一部の人は、特権という言葉に依然として納得できないかもしれない。韓国人として、あるいは男性として生きていくことがこんなにつらいのに、どこが特権なのかと言われるかもしれない。「不平等」という言葉もそうだが、「特権」もやはり相対的な概念である。他の集団に比べて自然で気楽で、有利な秩序があるということは、絶対的に楽な人生だということを意味しない。
この引用部分の「韓国人」を「日本人」に置き換えれば、最近、よく聞く話題でもある。
女性も大変だけど、男性だって大変なんだ。自分に「特権」があるなんて、とんでもない。そんな叫びのような言葉も、心からのものなのは間違いない。
だけど、その「特権」は、例えば、こんな時に意識することができる。
自分には何の不便もない構造物や制度が、だれかにとっては障害になる瞬間、私たちは自分が享受する特権を発見する。普通に結婚することができる人は、それを特権とは思わない。結婚ができない同性カップルの存在があらわれるまでは。
こうした話になると、一瞬、どうしたらいいのか分からなくなる。
自分は何も見えていなかったのではないか。これから先、どうすればいいのか。特に、日本で男性の場合、差別の「加害」に知らないうちに立っている可能性も高いから、気持ちの身動きも取れなくなる。
だが、著者は、自身も無意識に差別をする側に立ってしまった怖さから始めているので、だから、ただ誰かを批判するだけではなく、その「どうしたらいいのか」という戸惑いや恐れに対しても、応えてくれるような文章までがある。
私はどこに立って、どんな風景を見ているのか。私が立っている地面は傾いているのか、それとも水平なのか。もし傾いているなら、私の位置はどのあたりなのか。この風景全体を眺めるためには、世の中から一歩外に出てみなければならない。それができないのなら、この世界がどのように傾いているのかを知るために、私と違う位置に立っている人と話しあってみなければならない。私たちの社会はほんとうに平等なのか。私はまだ、私たちの社会がユートピアに到達したとは思えない。私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ。
差別と笑い
引用が多くなってしまったけれど、それでも本書の一部に過ぎないが、今、その「差別の構造の維持」で巧妙に使われていることが、ユーモアとトーン・ポリシングだと思う。それに対抗するのは、意外と難しい。
例えば、ユーモア。
相手がユーモアとして投げかけた言葉に真顔で対応するのはなかなか難しい。ユーモアや遊びを装ったヘイト表現は、笑いの「ものごとを軽くする性質」のせいで、逆説的に「簡単に挑戦できない強大な力」を持つのである。このような言葉による攻撃は、人間の内面の非常に本質的な部分にふれ、胸をえぐる反面、その言葉がなぜ問題なのかを説明するのは難しく、仮に説明の機会があったとしても、与えられた時間は短すぎる。私たちは、たいていの場合、二の句がつげなくなって、その機会を逃してしまう傾向にある。
だけど、勇気は必要だとしても、対抗できないことはない。
冗談に対して笑わない人たちがあらわれたとき、ユーモアは消えていく。
だれかを差別し嘲弄するような冗談に笑わないだけでも、「その行動は許されない」というメッセージを送れる。冗談に必死に食らいついて、その場に重々しい雰囲気を漂わせるか、少なくとも無表情で、消極的な抵抗をしなければならないときがあるのだ。
差別と抗議の声
例えば、トーン・ポリシング……その言葉の内容よりも、その言い方自体を責め立てて、内容そのものを無効にするようなことは、意外と多いのではないか。ただ、それは、世の中はフェアにできていると思い込みたい「公正世界仮説」をベースにした感覚だと、自分自身が「トーン・ポリシング」をしている意識を持つことは難しい。マイノリティや被害者の方を責めることになりがちだ。
つねに世の中が公正であるという考え方を改めるかわりに、状況を歪曲して、「被害者を批判」する方向にものごとを理解しようとするのだ。世の中が間違っているのではなく、不幸な状況に置かれた被害者のほうが、もともと悪い特性を持ち、間違った行動をしたために、そのようなことを経験するのだと考えてしまう。
不当な差別そのものに注目するより、不当な差別の問題について叫ぶマイノリティの欠点を探しだして批判する。このようにして差別は延々と続き、世の中はまったく変わらないのである。
マジョリティはマイノリティの意見を思いきり攻撃することができる。一方、マイノリティは「穏やかな言葉を慎重に選んで、不要な攻撃を受けないように用心」するよう求められる。しかしマジョリティは、マイノリティの話に耳をかたむけないまま、かれらに丁寧に話すことを要求する。表現の自由があるように見えているが、実のところは沈黙の強要である。だれかが言った通り、正義とは、真に批判する相手がだれなのかを知ることである。だれが、または何が変わるべきなのかを正確に知る必要があるということだ。世界はまだ十分に正義に満ちあふれているわけではなく、社会の不正義を訴える人々の話は、依然として有効である。
おすすめしたい人
今、差別される側にいる人。
差別されることで苦しんでいたり、悩んでいる人。
読むだけで、それが解決されるわけもないとは思うのですが、知ることで、変わるきっかけにつながるかもしれません。
差別と無関係だと思っている人。
差別に関して、少しでも興味がある人。
これからの世の中が、できれば少しでも生きやすくなれば、と思っている人。
私も、知らないことがとても多い書籍でした。だから、できれば、より多くの人に読んでもらえたら、と思っています。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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