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お菓子の箱の中

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しまっておく。 ほかのひとの。
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#小説

十二度の歪みに酔い、山手線で冷める

 彼女の家の時計はいつも二分だけずれていて、だから彼女の家では毎時〇二分と三二分に鐘が鳴る。だいたい十度くらいずれた彼女の日々は、容赦なくわたしの暮らしにすべりこんでくる。

 「酔狂だね」
 耳元で掠れた、少し低い声がする。薄暗くだだっ広いホールの中に隣り合って座っていた。周囲を見渡してもほんの数人しかいない。若いカップルや女の子たちなんていなくて、小さい子どもを連れた家族と、おばあちゃんの団体

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夜のまたたき

真夜中のバスの灯りは独特な色をしていると思う。あまりに静かで、水でも運んでいるみたいにひたひたと進んでゆくから、あの中に人が乗っているだなんて、なんだか嘘みたいな気がしてしまう。

道を行き交う車もほとんどないような夜遅い時間帯だった。町はひっそりと静かで、もうみんな眠っているんだと思いながら私はひとり歩いていた。たしか直前まで雨が降っていたのだと思う。アスファルトが黒く濡れて光っていて、雨上がり

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星と飛行機

星と飛行機

「あっ、あぶない!」

しずくは、顔をそむけました。

しかし、しばらくしても、何も起こりません。

しずくは、おそるおそる再び夜空を見上げました。

夜空は、平和そのもので、しんと静まり返っています。

しずくの隣には、おじさんがいました。おじさんは、お母さんの弟です。

「おじさん、ずっと空見てた?」

しずくは、聞きました。

「あぁ、見てたよ」

おじさんは、夜空から目をそ

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1月 木の枝 石ころ 道の終わり

その日は霧みたいな粒子の細かい雨が朝からずっと降っていた。窓を開けて目を凝らしてみてようやく降っていることがわかるような、そのくらい細かくて静かな雨が絶えずずっと。

特に予定のない暇な週末だった。寒いし雨も降っているから、私は出かけたくなくて、ずっと布団の中で本を読んでいた。途中で眠たくなったら目をつむって寝て、目が覚めたらまた続きを読んだ。

最後に目を覚ましたとき、日は暮れていて夜になってい

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あの本を読んだ場所

あの本を読んだ場所

人の記憶というのはおかしなもので、「絶対に忘れたくない」と思ったことをあっさりと忘れてしまったり、特別でも何でもないと思っていたことを、なぜか忘れることができなかったりする。

たとえば、とある本を読んだ場所。

それがもうどこにあったかも思い出せないのに、本を読み終えたその場所の様子が、もう10年以上がたつ今になっても、昨日のことのようによみがえる。

それは、どこかの駅構内にあるコーヒーショッ

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魔法がとけた夜のこと

魔法がとけた夜のこと

 

 22歳になるまで、わたしは自分のことを特別な子だって思いこんでいた。
 でも、絵が上手かったり、足が速かったり、これと言って才能があったわけじゃなくて、結局のところ自分が平凡な人間だと気づいたのは、思う存分若くてきれいな時間を使った後だった。
 だれのせいでそう思い込んだかと聞かれたら、間違いなく、8年前に死んじゃったママのせいだった。

 子供の頃はそれでも絵を描くことが好きで、アニメの

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さよならの都

もう長いこと憑かれている夢がある。
でもそれももう終わる、終わってしまうのだと思う。

もとは中学の頃に友人が見た夢の話で、私に聞かせてくれたのだった。
なのに何度も繰り返し思い出しているせいで、今ではもう自分が見た夢だったような気さえする。
この頃はもうどこまでが友人の見た夢で、どこからが私が勝手に作り出したものなのかも、よくわからなくなってしまった。

あれからずいぶん時間が経ってしまった。

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