十二度の歪みに酔い、山手線で冷める

 彼女の家の時計はいつも二分だけずれていて、だから彼女の家では毎時〇二分と三二分に鐘が鳴る。だいたい十度くらいずれた彼女の日々は、容赦なくわたしの暮らしにすべりこんでくる。

 「酔狂だね」
 耳元で掠れた、少し低い声がする。薄暗くだだっ広いホールの中に隣り合って座っていた。周囲を見渡してもほんの数人しかいない。若いカップルや女の子たちなんていなくて、小さい子どもを連れた家族と、おばあちゃんの団体客だけ。みんな、まさに老若男女が、なんとなく目を開けて明るいステージを見ていた。やけに明るいそこだけが、悲しく華やかだった。きっと自分たちが見物されているなどと意識すらしていないだろう、天使のように可愛いイルカたちと、感情を感じさせない笑顔を貼り付けたトレーナーたちが、主役となりショーを続けている。景気のよかった時代に建てられたのだろう、やけに大きくがらんとしたホールのなかでそこだけがきらきらしていた。その眩しさが虚しい。楽しい虚無。なんか、最低だ。

 いつの間にか雨は止んでいて、からりとした空が広がっている。さっきのトレーナーたちの嘘くさい笑顔みたいだった。昼前ここに来たときはだらだらと雨が降っていて寒いくらいだった。確かにそんな朝に水族館に来る人間たちのことを酔狂と言うのかもしれない。

 「酔狂だね」
 雨が止んでもなお酔狂な二人組のようだ。少なくとも彼女にとっては。じりじりと暑い昼間で、肌の焦げる音が聞こえてきそうだ。九月の頭だというのに、夏のお手本のような気候だった。こんなの半そでを着る合図なのに、彼女はパーカーを羽織っている。
「だっておかしいでしょう、こんな晴れた日に外に出るなんて。せっかく今年の夏は焼けないできたのに、もう最悪」

 彼女にとって太陽は暴力だった。容赦なく襲ってくる光から、白い肌をうすっぺらなパーカーだけで守っている。だから今度は別の建物に入った。こっちもまた、不釣り合いに天井が高い。壁に埋め込まれた水槽の中では、魚たちが何も知らない顔をして泳いでいる。涼しく、ほのかに明るい建物の中で彼女はご機嫌だった。もともと熱帯魚とか、きれいでかわいい生きものが好きなのだ。水槽と水槽の間を楽しそうに歩き回っている。彼女のお気に入りの、深紅のロングスカートの裾が広がっていた。

 そもそもどうしてここにいるのだろう。彼女に合わせて行動するということは、昨日や一昨日のことを忘れて今という瞬間に集中しなければならないということだ。彼女は、誰かが自分といるときに、彼女との時間以外のことにその誰かが少しでも思いを巡らすことを絶対に許さない。生まれつきの女王だから。

 血のつながりがあるとはいえ毎日連絡を取るような関係ではない。わたしが彼女の住む家を出てからは特に。気の向いたときだけわたしに連絡をよこす。だいたいなんでもないような、食べたケーキの写真とか、猫の可愛い動画とか。そういうのを純然たる暇つぶしのためにわたしに送ってくる。

 しかしたまになんでもなくない連絡があって、そういえばつい最近もそうだった気がする。学生という身分で、かつ夏休みというモラトリアムの最たるときに顔を見せないとは何事だ、と言う。正直なところ彼女の家は千葉県の片田舎にあって、家の周りは閑静な住宅街という、それ以上でもそれ以下でもなく、つまり帰ったところで(という言い方は少し不本意で、だってあそここそが帰る場所だ、なんてわたしは思っていないし、まず帰る場所あるんだったかわからない)ひどく退屈な毎日が出迎えてくれるだけなのだ、と正直に伝えたところ、キーッとなってしまいには不貞腐れた彼女の機嫌を取るために、今ふたりで三浦海岸にいるのだった。

 昨日はただ歩いた記憶しかない。新宿から電車に乗りすぎて(彼女にとって三駅以上の移動はストレスらしい。遠いから。彼女はタクシーが好きだ)うんざりして、途中下車して歩きたいと言い出したのでそれに従った。しばらくは海沿いの道を歩いた。カレンダーでは秋だけれどまだ夏のようで、海水浴やバーベキューを楽しんでいる大学生たちを横目に見ながら、ふたりとも前を見つめて無言で歩いた。

 地図アプリの言うことを聞いて歩いていたところ(彼女は地図が読めないし、読めるようになるつもりもない。いつも横にいる男、もちろん特定の一人ではない、が読んでくれるのだ)、どうしても山道に差しかかってしまって、それならば仕方ないとわたしたちはなんの疑いも持たずに登った。キャリーバッグも一緒だった。普段運動する習慣があるし、彼女ももう五十近いとはいえジムに通っているらしいので、少し息が上がっただけですんだ。

 「ゴロゴロきいきい言ってる」
 彼女のキャリーバッグはわたしの幼い頃から使っているもの(彼女によると「一緒に大きくなった」らしい)だから、激しい運動をさせるとすぐに文句を言うようだった。それをいたわるかのように平坦な道が続く。もうかなり高いところまで来たらしく、歩いてきた海がだいぶ見渡せた。

 「人が全然いない」
 ひどく平坦な、ざらついた声で彼女が言う。道が二又に分かれていたから、確認しようと一度止まった。キャリーバッグの音が止まるとまさに無音になった。たまに鳥の鳴き声と、波の音だけが聞こえる、海の見える山の上にふたりだけでいるのだ、といまいる状況を再認識する。民家も見えるのに、人の声は聞こえなかった。世界にふたりきりみたいだ。

 道を確認し終わってスマホから顔を上げ、こっちだよと声をかけようとする。彼女は海と民家を見下ろしていた。うっすらと汗をかいていた。海の近くだからか、まあまあ標高が高いからか、時折風が吹く。そのたびに汗で少し湿った前髪が揺れる。こんなところでだって彼女は美人だった。横顔を少しの間見ていることにした。なにも考えていないようにも見えるし、見晴らしを楽しんでいるようにも見える。多分なにも考えていないだろう。そしてどこか寂しそうにも見えた。なにもない、見晴らしだけしかないこの場所でただひとり美しい彼女は孤独だった。彼女の孤独が好きだ。痛みにも似た気持ちだ。普段から美しいし表情も豊かだけれど、ここまでさまざまな顔を持っているとは知らなかった。スマホを見るって思考停止だ。デジタルデトックスという言葉を考えた人は、世界が好きだったんじゃないかと思う。

 Hard dayという言葉がぴったりな気がした。適切な日本語がわからない。せまっくるしくて不便で美しい言語。忙しいわけでもつらいわけでもなかった。そしてきょう、バスで行ける距離にあった水族館に来ていて、雨が降っている間も、すっきりと晴れてからも、こんな日にここに来るなんて酔狂だと責められ続けている。

 「おなかすいた」
 気づくと隣にいた。
「ほんとにここ人がいないね。ゆっくり見られるからいいけど」
彼女はすごく水族館を楽しんでいるようだった。熱帯魚やほかの生きものを見るのも、写真を撮るのも、そして彼女自身写真を撮られるのも。彼女は写真を撮られるのが得意だ。自分が美しいことも、どうすれば自分が一番美しく映るかもよく知っている。鮮やかな水槽は彼女の背景でしかなかった。彼女は生まれ持ったものだけでなく、身につけているものもきれいだ。視線で磨かれて培ったものなのだろう。

 お腹がすいたとぶつぶつ言うので、ホテルの近くまで戻ってドーナツを食べた。店内は、古くからあるようなどっしりとした飲食店の並ぶ町並みとは不釣合いにファンシーにまとまっていて、水族館とはうって変わって女の子たちがはしゃいでいた。彼女はイチゴ味の、ピンク色のチョコレートでコーティングされたドーナツを頬張る。それもきっと、おいしそうという理由ではなく、一番見た目が可愛いから買ったんだろう。彼女は甘いものがそこまで好きではないのだから。茶色の普通のドーナツより、ピンク色の可愛いのを頬張る自分のほうが可愛いことまで、彼女は知っている。

 夜になった。お刺身が出された。彼女は生魚を嫌う。子ども時代を外国で過ごした彼女は、魚を加熱せずに食べることに強い抵抗があると言う。彼女の家で長い間生活してきたわたしは不思議と食べられる。誰かと同じテーブルを囲むとき、浮かないように、目立たないように、いかにして溶け込めるかに苦心してきた結果だと思う。 日本の人たちは目立つ存在への妬みを「空気読めない」の言葉に込める。美しい彼女は、取り巻いた環境の多くにおいて「空気が読めな」かった。そこに存在していただけで、きっと。

 「不気味。殺したものをすぐに食べているみたい。無理」
 顔をしかめながらお刺身を見ていた。食べることと死ぬこととはすごく近い。いただきます、ごちそうさまでした、という言葉をいつまでもわざわざ有難がるわけではないけど、わたしたちの食はなにかの死と隣り合わせだ。青く光る切り身を見ながら、水槽の熱帯魚たちの姿が頭をよぎる。彼女はあたたかいお味噌汁を嬉しそうに飲んでいる。つやつや光るお椀に直接口をつけて飲む。わたしは潔癖症なので食べかたが下品な人がすごく苦手なのだけど、彼女だけはその仕草も可愛らしかった。

 若い頃、今もだけど彼女はすごく男にもてる。一緒に食事に行った男はだいたい彼女のことを、女性として好きになるらしい。おいしい食事を一緒にするだけで心の距離が縮まる、というきれいな言葉があるが、それを言った人はもてなかったのだろう。美しい人がものを食べる姿は、少女のように可愛らしく、魔女のように艶やかだからだ。

 食べることと愛すること、特に性愛だとかセックスだとかもすごく近くに存在すると思う。セックスは簡易的な死だって誰か言っていなかったっけ。忘れたけど、セックスの後に眠ってしまう時の感覚は、水泳の後の国語の授業にものすごく似ている。眠りは簡易的な死。毎日手軽に死んで、朝に生き返ってはなにかの死体を食べる。

 彼女はお風呂上がりの甘い匂いをすぐに消してしまおうとする。昔からそうだ。変にせっかちなところがあって、まるで彼女の家の時計みたいに。髪も乾かさずに彼女は部屋を出て行ってしまった。
 
 ふたたびふたりきりになった。今度はさらに本格的に。もう夜だから歩いている人もいない。ごくたまに車が、水たまりを豪快に蹴散らしていく。波の音と潮風の匂いしか、わたしたちを今、ここにつなぎとめているものはない。彼女の吐き出す真っ白な煙を見て、まるで世界から隔離されたみたいだと思う。喫煙所と隔離病棟とはどこか似ている。無機質で多くの人は近寄らない場所へのトリップ。煙たい。気持ちいい。最高だ。

 わたしも煙を吐く。彼女が目をわずかに大きくして、またすぐに逸らした。一緒に住んでいた頃は吸っていなかった。それは、高校生だったので、もちろん。いつから吸い出したか正確には覚えていない。実は十九歳のときに一本だけ吸った。生まれてから出会った人間の中でもっとも仲の良い、便宜上、大親友と呼んでいる男が吸いはじめていた。彼が長いこと付き合った恋人に振られ、その直後に安いバーで会ったときに付き合って吸った。その晩、彼は黄色いアメスピをひと箱あけた。そのあとなんとなく、たまに吸うようになって、今の恋人が吸うので習慣となった。海沿いだから風が強い。火がつけづらい。

 「あの人は嫌いだったよね」
 彼女は突然に、昔の男の話を始める。懐かしむふうでもなく、忌々しく思うふうでもなく、きのう見たテレビの話をするように。「あの人」とは彼女の昔の男で、つまりわたしの父親はひどく煙草を嫌った。彼女も「あの人」といるときは「あの人」のために禁煙していた。わたしがまだ幼かったからというのもあったのかもしれない。彼女は柄にもなく、「よき妻・よき母」を演じようとしていた(その頃の彼女を思い出すだけでげらげら笑ってしまう。わたしも彼女も)。「あの人」は突然消えて、彼女はまた煙たくなって、金曜日の夜だけ家を空けるようになった。これで幸福だと思う。

 煙草を指に挟んでいる彼女は寒気がするほど美しくて、不良少女のように可愛い。パルプ・フィクションのミアみたいだ。美しさは幸福だ。だから、過ぎると苦しみになる。

 海風は容赦なくわたしたちの身体を冷やした。気づくと朝、布団のなかにいた。わたしも彼女も朝食を食べる習慣はないけれど、あたたかいお茶だけのために食堂に向かう。今度はふたりきりではなくて、ごつごつとしたおじさんがいた。ディズニーの悪役にいそうな雰囲気。ずっと目を伏せていたが、なんとなく気まずくて、軽く頭を下げた。こんにちは、と言われた。ひどくぶっきらぼうだった。もうずっと着ているようなポロシャツに、ただの黒いチノパン。すれ違っただけでもわかる程度にシミがついていた。彼の世界では、だいたい海だとかそこの生きものと向き合っているのかもしれない。人間の目を気にせずに。ただ彼の生きるうえで必要なものたち、大切なものたちだけを気に留めているのだとしたら、それはひどく幸せなようにも見える。

 「また海の方まで行こう」
 ここに来たときみたいに、海沿いの道を歩くことにした。ちょうど魚市場の前を通る。コンクリートでできた巨大なそれは、ひどく冷たく意地悪だった。もう競りの終わったあとのようで人がほとんどいない。近くでは海鳥が遊んでいて、妙に生々しくて不気味だった。曇っている。朝だからかもしれないが、空も海もざらざらしていた。巨大なコンクリートと同じ色。子どものころ、図工の授業で配られた紙やすりに似ていた。やっとひとり、おじさんが出てきた。荷物を引いて。台車に乗せられた、ごろんと横たわる太い棒。きっと少し前までマグロだったと思われるものだ。おじさんはそれをトラックの荷台へと運んでいった。完全に、重たそうな荷物のようだった。新宿から運んできたキャリーみたいに。

 来る途中で見た海は明るく、穏やかで優しかったが、ここの海は人を寄せ付けないふうだった。わたしたちは灰色の砂浜の上にぼんやりと立っていた。ふたりきりだろうか。彼女の隣にはボートが横たわっていた。魚を捕るときに使うのだろう、大きめのしっかりとしたつくりの黄色いボート。お腹を上にして横たわっていた。普段海の中に浸かっているお腹を、砂まみれにしてさらけ出している姿は息をのむくらいなまめかしくて、見てはいけないものを見ているような気分に襲われた。ものすごく恥ずかしくなって、わざと目を逸らした。

 「撮ってくれた写真、あとで送ってね」
いつものことながら、わたしは彼女の写真を撮った。何枚も。写真集が作れるくらい。この海のそばの街では、見られる身体を持っているのは彼女だけだった。そのことを十分に心得た彼女は、きれいな景色やかわいい熱帯魚とは比べ物にならないほど、優秀な被写体だったのだ。だからわたしは彼女の写真を撮った。彼女以外特に撮るものは見当たらなかった。何枚も。カメラ越しにずっと彼女を見ていた。

 一九歳のとき、生まれて初めて写真集を買った。山口小夜子の。世界一美しいひと。五七歳でいなくなってしまった、東洋の神秘。はじめて資生堂の広告を目にしたとき、人はあまり美しいものを急に目にすると息が止まってしまうのだと知った。わたしは彼女の写真を撮るとき、いつも息の音がしていないか十分気を付けて、浅く、静かに呼吸する。獲物を狙う殺し屋のように。そしてシャッターを切る。緊張が解けて大きく息をつく。写真を撮ることは殺すことだ。愛する男を永遠に自分のものにするために、その首を切ってしまった少女の物語を思い出した。

 新宿駅は「いつもどおり」だ。そのいつもどおりにめまいがして、しばらく動くことができなかった。
「帰るの?」
「どうかな」 
帰るって、どこに?千葉の片田舎に。はるばる?ほんとうに?彼女にも、わたしにも、帰るところがあるのかすら不明だ。郷愁、ホームシック、そういうのはわたしたちとは無縁だった。そういうのって水臭いし、ダサい。

 先に正気を取り戻したのは彼女だった。いつまでもぼんやりとした顔を公衆の面前に晒しているのが我慢ならなかったのだろう。

 「まあ、また、気が向いたらだけどね」
 いつまでもそういう誘い方しかしてくれない。視線は人を磨く一方で臆病にさせる。彼女は精一杯強がって、中央線のエスカレーターへと消えていった。仕方がないので、でもだからといって下北沢のくたびれたアパートへ戻る気にもなれないし、小田急線まで行くのは今のわたしにはたいへん骨が折れる。今、この瞬間のわたしの帰るべき場所はあそこじゃない。のろのろと山手線に乗ろうとした。

 忘れないうちに、とラインのアルバムを作る。撮りためた彼女の写真を一気に載せ終わってしまう。既読がついたのはアルバムを作り終えてすぐ、一分も経たないうちだった。スマホの使い方をつい最近覚えたくせに、彼女は人と離れた直後、いつもすぐに携帯をチェックする。返事は大抵、ない。

 そろそろきれいな海に帰らない?
 珍しくメッセージが来た。わたしも彼女も、外面だけ穏やかで底意地の悪そうな三浦の海には辟易してしまった。そうだ、もっと美しい海のあるところへと帰らなければ。強い義務感に駆られているのはきっとわたしだけじゃない。彼女のことだからいつ帰ろうと言い出すかはわからない。わたしを驚かせようと、絶対に唐突に言いだすはずだ。そして、今すぐじゃなきゃいや、とも言いだすだろう。きっと大急ぎで、必要最低限の荷物をキャリーに詰める。

 耳慣れた発車メロディに邪魔されて思い出した。でもその前に、わたしの世界を取り戻さなければならない。十度くらいのずれだって、積もれば三六〇度だ。飛び降りるように電車から出て、人ごみをぬって歩き出す。わたしの帰る場所は、強いて探すなら、遠くにある美しい海。

 そういえば、敬愛する作家の名作に書いてあった。曇り空までもが美しい異国の地で、完璧な恋人と住みながら、昔の男を想う女性の話。「人の居場所なんて、誰かの胸の中にしかないのよ」その女性が母のように慕う、その地に根を張り生きるおばあさんの言葉だった気がする。
ここの角を曲がれば、恋人の家だ。

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