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3月30日は、1997年度の最後の日

《3月30日(土)》 父母の会の最終会合

 学童が終わった後 、夜に 父母の会の最後の会合を開いた。お別れ会を兼ねている。退所するところや、50人の枠に入れず待機になった子どもの親も来てくれた。
 退所の親は、父母の会の思い出を沢山語ってくれた。「この楽しい父母の会の伝統を守っていってください」と言ってくれた。嬉しかった。「なんと言っても、お茶やお菓子やビールのが出るのがいい」 と言っている親もいた。財政難につき、全部持ち寄りです。

  5年生で待機のリキヤ君ところが「入れないのは、不安です」と帰っていった。

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『すかたん(勘違い)』 中川・雨田君の二人

 お別れ会の時に、父母の会から先生に一年の感謝を込めて花束をくださることになった。「私達が安心して働けるのは、学童が楽しいからです」ということらしい。
 そんなものがもらえるのは初めてなので 、先生たちはとってもワクワクして待っていた。

 「誰、が花束を渡すのか」急遽話し合いになって、退所していく中川君 と 雨田君が代表して渡してくれることになった。母の会の人がちょっとバタバタしながら、とりあえずそのことを二人に 説明して花束を渡した。
 そしたら、二人が声を揃えて言った。

二人「どうも、素敵な花をありがとうございます。これからも、頑張って遊
   びます。」

 「何聞いてたんだ。違うだろう。 もらうのは先生たちだよ 。あなたたちは、渡す役だよ。もう」言いながら、 父母がみんな見ている前で思わず頭をはたいてしまった。親たちには、みんな笑っていた。

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『父母の会』
 
父母の会は、できるだけたくさん開くようにしていました。子どもを預けているだけではなく「共に子育てをしている意識」を育てたかったからです。
 だから、父母の会と言いながら、毎回宴会をしていました。ビールやお酒を持ち寄って大宴会でした。お母さんよりお父さんの参加の方が、多かったかもしれません。
 夏には父母の会と合同で、一泊のキャンプに出かけるのが恒例でした。キャップファイヤーのあとも大宴会でした。
 そんなかで「子どもたちに、あれしてあげよう、これしてあげよう」とワイワイやっていました。

「待機」問題
 当時、当方の自治体では「希望者は全員受け入れる」が原則でした。それが、国の指導で「50名3年生までしか入れない。ただし、3年生は50名を超えても受け入れる。障害のある子どもは6年まで入れる」の原則に変わろうとしてる時期でした。
 つまり、当方の自治体の原則はやり過ぎだ、と国から指導されていたのでした。 《あそぼクラブ》は、申込みが3年生まで50名を越えていたので、このときは4年生以上がとりあえず待機になっていました。

   注)四年生以上も、定員に達しない場合は入所できました。

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