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小説『楽聖』

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連載長編小説『楽聖』をまとめています! 完結。
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【最終回】連載長編小説『楽聖』第四楽章5

【最終回】連載長編小説『楽聖』第四楽章5

        5

 ホール内客席の照明が点灯し、古都フィルハーモニー交響楽団が舞台袖に消えていくのをモニターで確認して僕は立ち上がった。白いシャツの袖口のボタンを締め、燕尾服を羽織り、襟首を正した。姿見で髪形、服装などを点検してから楽屋を出た。
 アーティストラウンジに出ると、奏者たちが各々楽器の手入れや水分補給をしていた。その中で、クリスティーヌは一際険しい面持ちで椅子に腰掛けていた。モニタ

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連載長編小説『楽聖』第四楽章3

連載長編小説『楽聖』第四楽章3

        3

 五条千本の交差点を東に進み、少しして目的地に到着した。五条通りから路地に入ったところの駐車場にスクーターを駐車し、大通りに面した正面玄関から建物の中に入った。
 古都コンサートホールの建設と並行して行われていた古都フィルハーモニー交響楽団の稽古場。それがここだった。ホールのほうには二度足を運んだけれど、稽古場に来るのは初めてだった。こちらはホールよりも一足早く完成したのだっ

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連載長編小説『楽聖』第四楽章2

連載長編小説『楽聖』第四楽章2

        2

 年が明けて一週間が経ち、年末年始の慌ただしさが薄らいできた。まだ正月気分の抜けきらない中学生たちが大きな欠伸をしている。大きく開いた口からは濃い白色の息が十センチほど吐き出ていた。不思議なもので、誰かが白い息を吐き出しているのを見ると自分でもやりたくなってしまう。僕は、はあー、と口を真四角に開けることを意識して息を吐いたのだけれど、予想していたほどはっきりとした白色にはなら

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連載長編小説『楽聖』第四楽章1

連載長編小説『楽聖』第四楽章1

     第四楽章

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「酷いザマだろう」
 病院から支給される水色のジャージ姿でマキシムは言った。顔には殴打されてできた痣が青々と残されていて頭には包帯が二重に巻かれている。首からぶら下げた包帯の輪には、ギプスで固められた右腕が収まっていた。その他にも、足や背中など今は確認できない箇所にも傷を負い、全治三ヶ月と診断されたそうだ。
 僕は茫然としてしまって、躊躇いがちに頷くこと

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連載長編小説『楽聖』第三楽章6

連載長編小説『楽聖』第三楽章6

        6

「交響曲を書いたらしいな。フィリックスから聞いたんだ」僕を見下ろしながら、マキシムは言った。「ヘア・タカツジから杮落としコンサートの招待状が届いている。二部の内容が伏せられていたから少し興味を持っていたんだが、まさかおまえだとは」
「お気に召さないかい?」
 居心地の悪さを覚えながら僕は笑って見せた。まさか古都コンサートホールの杮落としにマキシムが招待されるとは思ってもみなか

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連載長編小説『楽聖』第三楽章5

連載長編小説『楽聖』第三楽章5

        5

 年の瀬が近づいてきたからか、来週から始まる期末試験に急かされてか、生徒たちの表情にはどこか余裕がなかった。寒さに顔を歪めた一年生の女子生徒がぶかぶかのブレザーで萌え袖になっているのが可愛らしかった。
 階段を上がっていると、すれ違う生徒が会釈を寄越したので僕も返した。何気なく向けられた会釈にふと立ち止まり、僕は生徒のほうを振り返った。生徒は僕のことを気に留めるふうでもなく、

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連載長編小説『楽聖』第三楽章4

連載長編小説『楽聖』第三楽章4

        4

 風に揺られた黄金色の紅葉がゆらゆらと燃え盛る炎のように見えた。炎のように見えるけれど、厳めしさは微塵もなく、黄金を紡ぎ出す赤と黄色の葉が絶妙に調和している。色づいた山からは壮大な自然の美しさが感じられ、見事と言うほかなかった。自然に圧倒された時、それを表現する言葉など見当たるはずがない。そもそも、表現しようとすることが愚かなような気がした。
 ぼんやりと薄紫に染まる空を背に

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連載長編小説『楽聖』第三楽章3

連載長編小説『楽聖』第三楽章3

        3

 知里を教室に帰してから、僕は音楽準備室のデスクに向かった。知里が個人的に僕の元を訪ねるなんてずいぶん久しぶりだった。目の前で僕の変化を目の当たりにし、心に戸惑いがあったらしい。まだ中学生なのだから無理もない。現実を突き付けられた時は、大人であっても戸惑い苦しむものなのだ。
 しかし今日の知里は清々しい表情で音楽室にやって来た。彼女によると、模擬試験で志望校の合格基準点に到達

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連載長編小説『楽聖』第三楽章2

連載長編小説『楽聖』第三楽章2

        2

 聴力の衰えと比例して、日に日に活力を削られているようだ。伸也さんに古都コンサートホールを案内してもらって以来、僕の意気込みとは裏腹に作曲ははかどっていない。吹奏楽部の合奏を聞き、まるでそれが加速装置だったかのように作曲が猛進した頃が遠い記憶となって霞んでいる。いつしか僕は、強烈な孤独感を感じるようになっていた。
 合唱コンクールが終わって以降、森沢は一度も音楽室に足を運んで

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連載長編小説『楽聖』第三楽章1

連載長編小説『楽聖』第三楽章1

     第三楽章

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 吹き抜ける秋風が罪深いものに感じた。なぜ僕はここにいるのか。なぜ僕の辞職を校長は認めてくれないのか。耳の状態が万全でないのに、これまで以上に生徒たちに迷惑を掛けることになるのに。
 合唱コンクールが無事に終幕した後、僕は記念講堂で校長に辞職を願い出た。校長は、僕の耳が不自由であることに気づいておらず、今の僕の状況を知った時には大変驚き、大変心配している

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連載長編小説『楽聖』第二楽章6

連載長編小説『楽聖』第二楽章6

        6

 文化祭が二日後に迫っていた。堀江先生の努力のおかげでヴァイオリン・ソナタはすでに完成されている。今から特別なことをする必要などなく、今日明日と通し練習を行う予定だ。僕が文化祭と関わるのはそれだけだ。
 文化祭の翌日には合唱コンクールの本番である。音楽室を使った合唱練習は昨日で終わり、今日の午後からは各教室のみが練習場所として使用できた。
 伴奏者のピアノに歌声を合わせられな

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連載長編小説『楽聖』第二楽章5

連載長編小説『楽聖』第二楽章5

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 時計を見て、チャイムが鳴る一分前であることを確認した。これから堀江学級の授業なのだ。前回の授業の雰囲気を思い出すと、どうにも腰が重い。僕が男子生徒を指導してから今日でちょうど一週間が経つ。その間、森沢と知里にはピアノと指揮のことで何度か顔を合わせたが、他の生徒とは前回の授業以来二度目だ。
 顔を合わせていないというのは特に意識してのことではなかった。堀江学級で問題の起こった

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連載長編小説『楽聖』第二楽章4

連載長編小説『楽聖』第二楽章4

        4

 合唱コンクールの指揮、伴奏が決定して一週間が経ち、午後の授業が廃止された。廃止といっても一時的なもので、合唱コンクールを終えれば午後の授業は再開される。生徒にしてみれば午後の授業がないのは喜ばしいことかもしれないが、急激な時間割の変更に僕はあたふたしていた。うっかり普段通り過ごしていると、いつのまにか生徒が音楽室に集合しているのだ。授業が始まってしばらくしてから僕が顔を出す

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連載長編小説『楽聖』第二楽章3

連載長編小説『楽聖』第二楽章3

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 昨日は終戦記念日だった。僕の曽祖父は兵隊として戦争に参加していたという話を聞いたことがあるけれど、僕にとって太平洋戦争は遠い昔の、歴史の授業で習うもの、という認識だった。曽祖父は運良く戦争を生き残り、僕が小学校に上がる前に亡くなった。だから戦争は身近なもののようで、そうでないようなものだった。
 人を殺し合う戦争が終わってから何十年も経つというのに、日本は平和を得たというの

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