連載長編小説『楽聖』第二楽章6
6
文化祭が二日後に迫っていた。堀江先生の努力のおかげでヴァイオリン・ソナタはすでに完成されている。今から特別なことをする必要などなく、今日明日と通し練習を行う予定だ。僕が文化祭と関わるのはそれだけだ。
文化祭の翌日には合唱コンクールの本番である。音楽室を使った合唱練習は昨日で終わり、今日の午後からは各教室のみが練習場所として使用できた。
伴奏者のピアノに歌声を合わせられない分、今日か明日に音楽の授業があるクラスはやや有利になる。練習間隔が空いてしまうと、やはり一発勝負で音を合わせるのは難しいことだ。だから今日と明日に音楽の授業があるクラスは幸運だった。そしてその運を、堀江学級は引き寄せていた。
いつもと同じように授業を始め、生徒たちは合唱練習の準備を始めた。僕が異変に気がついたのは授業開始から五分ほどが経った時だ。
森沢が教室前方に立ったため、僕は知里にピアノを譲った。窓際に立ち、雛壇に並んだ生徒たちを眺めていた。練習を始めようとしない。それどころか生徒たちは僕のほうをじっと見つめているのだ。全員が呆気に取られたように口を開け、眉をハの字に曲げている。首を傾げている生徒は、僕の顔を怪訝そうに窺っていた。
「どうした? 練習は?」
苦笑しながら、僕は雛壇から森沢と知里のほうに視線を移した。二人とも、険しい表情で僕を見ていた。森沢は雛壇のクラスメイトと同じように呆然とし、知里は今にも泣き出しそうで、僕には彼女の顔が何かに失望した時に見せるものに思えた。
「どうした? 始めや」
知里は僕をまっすぐに見つめたまま、口をもごもごと動かした。
その瞬間、生徒たちから向けられる呆れと哀愁のこもった視線に僕は気づいてしまった。立ち尽くした僕は、室内を広く見回し、大きく息を吸い、吐き出した。練習を始める前に、知里が何か質問したのだろう。返事を待っているから、練習を始めなかったのだ。僕に知里の声は聞こえなかった。そう、聞こえなかったのだ。
これまでも、何度かそういうことがあった。それは授業中、休み時間、私生活と場面は様々だった。が、まったく聞こえないというわけではなく、何となく聞き取りづらいという程度だった。授業中は、そのせいで生徒に迷惑を掛けることもあった。しかしそういう状態は長くは続かず、刹那的に起こり、すぐに問題はなくなることがほとんどだった。だから大きな問題とは考えなかったのだ。
だが今はまるで世界の時間が止まったかのように音一つしない。知里が口を動かし続けているから、時間は止まっていないようだ。しかし聞こえない。いつもなら、こんなに長くは続かない。僕は自分でもわかるほどに狼狽した。生徒の視線に怯え、僕は授業を放棄して音楽準備室にこもった。耳の調子は、回復しなかった。
堀江先生に断りを入れ、僕は午後になると帰宅した。
帰宅後すぐにかかりつけ医に相談し、翌朝には大学病院で検査を受けられるよう取り計らってもらった。検査の後、正午を過ぎてから診察を受けた。結果は、検査をするまでもなかった。難聴が進行しており、完全に治す手立てはないとはっきり告げられた。
ピアニストとしてだけでなく、音楽家としても失格の烙印を押されたのだ。僕は、音楽家生命が絶たれる時や余命宣告を受けた時は涙が溢れて止まらないものだと思っていた。音楽家にとって耳が聞こえないことほど哀れなことがあろうか。天才ピアニストではなく、大作曲家でもない僕が難聴を患うことは、それすなわち音楽家としての最期を意味する。が、涙は枯渇してしまったかのように出てはこず、ただ頭が真っ白になり、涙どころか声も出なくなった。
担当の医師は、後日さらに精密検査を行い、補聴器を作るために聴力を測定すると述べた。僕は空返事をして、大学病院を去った。
病院を出ると、通りを車が通り抜ける騒音が微かに聞こえた。これは聞こえるのか、と僕は呟いた。スクーターに走らされ、僕は嵐山中学校にやって来た。無心の中に、申し訳なさが僅かに棲み付いていたのだ。
俯いたままゆっくりと階段を上った。聞こえないのだから、演奏などできるはずはない。明日のヴァイオリン・ソナタは中止にせざるを得ない。堀江先生には申し訳ないが、降板するしかないのだ。
音楽室に入ると、昨日の光景を思い出すようで辛かった。そそくさと通り抜け、僕は音楽準備室の鍵を開けた。ドアを開けた時、ふと似たようなことが何度かあったのを思い出した。森沢と出会った時や堀江先生が音楽準備室にやって来た時のことだ。物音一つしなかったから、僕は彼らの存在に気がつかなかった。まさかあの時も難聴の症状が出ていたというのか。わからない、本当のところはわからない。しかし難聴を患っていると宣告されたことでそうとしか思えないのだ。音楽室と音楽準備室を隔てるドアはいつも閉めているから、開けば気づくはずなのだ。しかし僕は気づかなかった……。
音楽準備室に一歩足を踏み入れ、頭を掻き回した。呼吸が荒くなるのを自覚しながら室内に進み、デスクの前で足を止めた。さっと机上を見下ろし、僕は目を伏せた。
気がつくと、僕は奇声を発していた。デスクに広げられた交響曲の楽譜を丸めて潰し、一枚一枚床に叩きつけた。自分の体を殴り、自分でも何を言っているのかわからない声を上げ、ひたすら楽譜を投げ捨てた。
後ろから抱き込まれたのは第三楽章の書かれた楽譜を手に取った時だった。ふと気持ちが静まり、僕の体の前に伸びた白い手が視界に映った。骨張った白い手――しかし堀江先生のものだとすぐにはわからなかった。その手を握り、微妙に体が揺れた時、僕の手の甲に雫が垂れた。我に返った僕は、自分が泣いていることを知った。絶望か、悔しさか、それとも自己嫌悪か、何に対する涙なのか、わからない。
「大丈夫だよ」
耳元で、声がした。手で涙を拭い、僕は振り返った。堀江先生は柔らかな笑みを浮かべていたが、目元の化粧は崩れていた。
「大丈夫って……」
堀江先生は何も答えず、ぐちゃぐちゃに散らばった楽譜を拾い、一枚ずつ伸ばしていった。第四楽章に入ったばかりの、完成間近の交響曲の楽譜だ。
堀江先生は、僕に近づいて言った。「奏介君は、私が守るから」
背を向けて再び楽譜を拾い始めた彼女の姿を見て、この人は味方なんだ、と思った。耳の聞こえないピアニストを軽蔑しないでいてくれる。
それだけに、僕は今、申し訳なさで押し潰されそうだった。
「堀江先生」
堀江先生は振り返り、黙って首を傾げた。
「明日……ヴァイオリン・ソナタは発表できません。コツコツ練習してくれたのに、本当に申し訳ありません」
堀江先生は思案顔になって、皺の引き伸ばされた楽譜に何かを書き込んだ。
――それはできません。
そう書かれていた。
「でも、こんな状態じゃとても……」
――大丈夫。きっと成功する。
堀江先生はそう書いた楽譜を向けながら僕に歩み寄った。僕の耳元に顔を近づけ「これまでたくさん練習してきたじゃない」と言った。「だから大丈夫。テンポは私が合わせるから、奏介君は練習と同じように弾いてくれたらいい」
「でも……」
「生徒たちも、楽しみに待ってるのよ。聴衆の期待に応えるのがプロのピアニストじゃないの?」
僕は何も答えなかった。答えられなかったのだ。もはや僕はプロのピアニストではない。耳が聞こえない状態でプロを語ってステージに立つというのはあまりに失礼な行為ではないか。それに、失敗するのは目に見えていた。
「大丈夫。私が何も言わせないから」
「堀江先生まで恥をかくことになりますよ」
彼女は笑った。
「いいじゃない。一緒に恥、かこうよ」
弁当を食べながら溜息を吐いた。今朝、今食べている弁当をコンビニで買う時も、店員の声が聞こえにくかった。応急処置の補聴器のおかげで辛うじて聴覚を使えるものの、やはり耳が自分の耳でなくなったかのようで苦痛だ。
午前中、僕は一歩も音楽準備室を出られなかった。森沢や知里が授業で創作した展示物があったというのに。何をするでもなく、僕はこの部屋に閉じこもっていたのだ。午後からの予定のため、展示物はもうどこかに移動されているだろう。
昼食を終え、僕はハンガーに掛かっている燕尾服の胸にそっと手を置いた。
堀江先生の言葉を信じて衣装を持ってきたものの、やはり気持ちは前を向かない。醜態を晒すことに怯えている部分もあるが、何より補聴器をつけてステージに立つことを僕は許せないのだ。音楽家として、聴力だけは失ってはならなかった。
ドアが開く音がして、僕は音楽準備室から音楽室へと移動した。やって来たのは、知里だった。彼女は、少し驚いたような顔をした。
「耳、聞こえてるんですね」
知里は微笑んでいるけれど、表情は硬い。
「補聴器があるから……」
知里は合点がいったと言うように相槌を打った。歩き出し、ピアノの前に座ると鍵盤を覆う黒い蓋を指先で撫でた。
「じゃあ、ピアノを弾けるってことですよね」
もちろん、と僕は言った。「目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなってもピアノを弾く自信はある。ただ、質は落ちるやろうし、他の楽器との合奏や協奏なんて……」
耳が聞こえないのではどうしようもない。もしも目が見えなくなったのであれば、今日のヴァイオリン・ソナタも成功する見込みがある。ミスタッチは出るだろうが、堀江先生のヴァイオリンに従えばリズムは崩れない。だが、耳が聞こえない以上、今日のように指揮者のいない場合は一度リズムが狂えばお終いだ。僕が自分の演奏の異変に気がつくだろうか。その自信はなかった。聡志の前で取り乱したことがあるからだ。
現実的に考えて、僕が他の誰かと音楽を奏でるなんてことは不可能なのだ。
「じゃあ、有志の演奏は辞退するんですか?」
「いや、堀江先生に辞退はしないって言われたよ」
「そっか……」と呟き、知里は何かを考え込むように下を向いた。「先生たちの次が吹部の演奏やから、あまり盛り上げんといてくださいよ。先生たちが凄かったら、私たちのプレッシャーが……」
「心配ないよ。紀乃さんたちにプレッシャーを与えられるような演奏はできひんから」
数秒間真顔で見つめ合った後、知里は口元を弛緩させた。
「よかったー。先生たちにとんでもない演奏されたらどうしようかと思ってたから。じゃあ先生、手加減してくださいね」
茫然と立ち尽くす僕を置き去りに、知里は音楽室から出て行った。ピアノの前に腰掛けると、ふと肩の力が抜けた。
こんな格好をしてピアノを触るのはいつ以来だろう。知里が去ってしばらくして燕尾服に着替え、音楽室のピアノを鳴らした。衣装を着るのも何年振りだろうか。少し太ったのか、ズボン、それから肩回りがやや辛い。時間の経過をしみじみと感じた。
音楽室を出て体育館の裏口に行くと、淡いグリーンのドレスを纏った堀江先生が先に来ていた。僕は彼女の姿に息を呑んだ。今彼女が着ているドレスは、亜希が最後のコンサートで着ていたドレスと酷似しているのだ。同じものではないけれど、堀江先生の出で立ちに僕は亜希の姿を思い浮かべずにはいられなかった。
「あと五分しても来なかったら呼びに行こうと思ってた」
ぽつりと呟いた後、堀江先生は思い出したように僕のほうに顔を近づけた。僕は彼女を手で制した。
「大丈夫です。聞こえてますから」
堀江先生はにこりと笑った。ただ、僕の言葉は事実でもあり事実ではなかった。堀江先生の声はたしかに聞こえているけれど、僕たちの間には頭二つ分ほどしか距離がない。だから音が聞こえているだけなのだ。実際、今ステージ上で歌を披露している生徒の歌声は聞こえない。
それでも館内の聴衆が生徒の歌声に浸っているのはわかる。体育館の舞台袖に移動した僕の視線の先に、顎をつんと上げ、瞼を閉じ、左手を大きく広げながら熱唱する生徒の姿がある。中学生で、これほど堂々と歌を歌えるというのは大したものだ。僕も思わず見惚れてしまう。
そばで堀江先生が緊張しているのがわかった。
「大丈夫ですよ」
今の僕に言われても説得力はないかもしれないが、僕はそう言った。気休めにでもなればという思いと、僕自身に勇気を持たせるためだ。僕は緊張してしまって、じつはさっきから燕尾服の中で心臓が大きく脈打っている。いったいどれだけやれるのか、まるで見当もつかない。
僕は舞台袖から客席を確認した。全校生徒と教員、それから保護者で五百名近い観客がいる。観客は皆椅子の上に静かに座り、ステージ上の歌い手を見つめている。歌唱発表の後でよかった、と僕は思った。下手に創作ダンスの後に僕たちの発表が割り振られていたら雰囲気の落差に観客は戸惑っただろう。
歌唱発表が終わると二十分間の休憩が挟まれた。グランドピアノをステージ中央まで移動させるためだ。音楽室にあるピアノとは別のものだが、こちらもヤマハだった。長らく調律していなかったらしいのだが、昨日のうちに校長先生が調律を依頼し、済ませておいてくれた。
大人四人掛かりで少しずつ動かされるピアノを見つめながら、やるしかない、と僕は自分を奮い立たせた。もはや逃げ道はないのだ。
休憩時間が終わり、司会進行の教頭の声で客席が落ち着き始めた。横を向き合っていた顔が、前方に向き直っている。僕は堀江先生のそばに戻り、二度深呼吸を行った。
ふと僕の右手が握られた。緊張で火照っているのか、堀江先生の手は熱いと言ってもいいくらい温かかった。僕は彼女の手を強く握り返し、視線を重ね合わせた。頷き掛けると、堀江先生はステージ中央に向かって歩き出した。
割れんばかりの大きな拍手が僕の耳にも届く。この学校を代表するマドンナ先生の麗しきドレス姿だ。場が騒然とすることは予想していた。
堀江先生に招かれ、僕もステージに向かう。さっきよりも拍手が少ない。お互い笑顔で握手を交わすと、続いて観客に深々と一礼した。椅子に腰を下ろした僕は、ペダルを踏み踏み、一つ息を吐いて堀江先生のほうを見た。
彼女も僕を見ている。僕は、黙ったまま目で頷いた。
弓を持った手を高々と構えると、一切の迷いなく堀江先生は二つ大きな音を鳴らした。第一楽章の始まりだ。
刹那ヴァイオリンが休み、僕のピアノが入る。よし、うまく入れた。ヴァイオリンと音を折り合わせ、主題を展開させていく。大丈夫、ヴァイオリンの音はよく聞こえる。ピアノも順調である。
ところが第二楽章に入って少ししたところで、僕は異変を感じた。派手な第一楽章から疾走感溢れる第二楽章に移ってから、僕の耳の中で音が乱れ始めた。ミスタッチはしていない。楽譜の通り、テンポも保てているはずだ。ヴァイオリンを弾く堀江先生も驚いた顔はしていない。が、僕の耳は連打した音をうまく処理できず、さらには耳鳴りとピアノの音が混ざり合って何とも不快な音を作り出している。ヴァイオリンの音は、何も聞こえない。
ふと耳鳴りが止み、堀江先生のヴァイオリンに奏でられる主旋律が聞こえてきた。大丈夫。ずれていない。僕は鍵盤の上で指を走らせながら一つ安堵した。
第三楽章の冒頭に入り、第一楽章を彷彿とさせる派手で迫力ある音が広がる。テンポが落ち着いたこともあって、僕の中でも余裕が出てきた。滑らかな主旋律を奏でるヴァイオリンの裏で、僕は超絶技巧を繰り出す。左手で細かく素早い音を紡ぎ、跳躍の後、鍵盤の端から端をハープのように鳴らす。
一度ピアノは落ち着き、僕は鍵盤から指を離す。堀江先生のほうに視線をやった時、ややテンポがずれていたことを知った。観客は察していないようだが、悔やまれる結果だった。やはり超絶技巧に焦りを覚えていたのだ。ヴァイオリンは比較的易しめの楽曲だが、ピアノはプロが弾く難易度だ。聴力が衰えていなければ――そんなことを思った。
再びピアノが入り込む。少しずつヴァイオリンと調和していき、やがてピアノの独奏である。ようやく僕が主旋律を弾く番だ。僕は力を込めて鍵盤を押した。清流のように透き通り、空が夕焼けに染まるように甘美な、万人の心に安らぎを与える風景――森の中で反響するようなピアノの上に、優雅なヴァイオリンが重なる。さらにヴァイオリンが畳み掛け、フィナーレを迎えた。
演奏を止めた瞬間、大喝采であろう拍手が僕の耳に僅かながら届いた。大喝采だと思えるのは、五百名ほどの観客が皆揃って立ち上がり、大きく首を振りながら手を叩いているからだった。そんな拍手を全身に受けた堀江先生は、目を丸くして、しかし口元を綻ばせて振り返った。
僕は立ち上がり、彼女と抱擁を交わした。さらに拍手が大きくなるのがわかる。抱擁を解き、僕は両手を掲げた。右手を胸に、左手を背に回し、深々とお辞儀をする。観客に、主役であるヴァイオリニストを讃えさせ、僕は舞台袖に向かった。
目覚めると、体を起こすのが億劫になるくらいの痛みが全身にあった。自分で思っていたよりもずいぶんと緊張していたのだろう。ここ数日同じ楽曲を同じように弾き続けていたのに、今日に限って筋肉痛になるとは何とも情けなかった。
昨日、まさかあれほどの出来栄えに仕上がるとは思ってもいなかった。その理由はむろん僕の耳である。決して耳の調子が良いわけではなく、その重圧からひどく緊張もした。今思えば、ちょうどいい緊張感だったのかもしれない。
予想外だったのは演奏後のことだ。僕たちの演奏の後、十五分間の休憩を挟み、吹奏楽部の演奏に移る予定だった。しかし体育館の裏口から僕と堀江先生が外に出ると何百人もの生徒に囲まれてしまったのだ。写真を撮ってくれと言う者、サインを書いてくれと言う者、それらの対応が追い付かなくなり、結局吹奏楽部の発表は三十分遅れた。知里は怒っていたけれど、吹奏楽部の部員たちも僕たちを囲む輪の中に大勢いた。僕は、知里とも写真を撮った。
吹奏楽部の演奏を始めるからいい加減にしろ、と教頭が顔を真っ赤にしながら言ったことでその場は落ち着いた。そんな中、僕は遠くで微笑む森沢の姿を見つけた。ほとんどの生徒が体育館に戻った後、僕は森沢に駆け寄った。
彼は明るい笑顔を保ったまま、「明日は俺の番や」と言った。僕にも聞こえる、はっきりとした声だった。
明日、というのは今日の合唱コンクールのことだ。時刻を確認すると、すでに午前の部が始まっている時間だった。僕はゆっくりと体を起こし、自室を出てリビングに下りた。
母は洗濯物を畳んでいた。テーブルの上に、見覚えのある封筒が置かれていた。
「いつまで寝てんねんな」と母は言い、その後も何か言っていたようだが、聞こえなかった。
僕は答えず、封筒に手を伸ばした。おや、これはフランスではなくオーストリアからの便りのようだ。フィリックスから手紙だなんて珍しいと思ったが、封を開けると見慣れたクリスティーヌの文字が並んでいた。どうやら、今はオーストリアにいるらしい。
『ムッシュー・アコウ
ごきげんよう。
手紙を書くのはずいぶん久しぶりだわ。私も何かと忙しかったのよ。その辺り、察してもらえるかしら。
ウィーンでコンサートを開いたの。ソウにとって苦い思い出のあるウィーン国立劇場よ。さすがに音楽の都ね、聴衆の目が他とは比べものにならないくらい尖っていたわ。ロベーヌ家の看板を背負っているから、尚更値踏みするような眼差しで見られてね、何かとプレッシャーだった。だけど演奏で黙らせてやったわ。これは嫌味じゃなくってよ?
この手紙で書きたいのは私のコンサートのことじゃないのよ。ウィーンでのコンサートを終えた後、フィリックスと会ったの。彼はモスクワでのマキシムとのコンサートで大成功を収めてウィーンに帰っていたの。大成功を収めていたから、きっと上機嫌なんだろうと思ったら、マキシムとのコンサートの話になると激怒するのよ。ずっと穏やかだったのに、逆鱗に触れたように怒り狂って……。私、そういう男は苦手なのよ。そういえば、私はソウが怒ったところを見たことがないわ。あなたはいつも穏やかで、胸の内で密かに情熱を燃やしているものね。
話を戻すわ。フィリックスは、ウィーン・フィルに行くらしいの。どうしてマキシムと共演するのかって話したのを覚えてる? やっぱり目的はウィーン・フィルだったのよ。二人のコンサートに関係者が来てたみたい。フィリックスが怒り出すから、これ以上は話せなかったんだけどね。
みんな自分の道を逞しく進んでいるわ。ソウは、最近はどうなのかしら。そろそろステージに戻る準備を始めないとね。
クリスティーヌ・ロベーヌ』
耳が聞こえなくなったことをクリスティーヌに打ち明ける気にはなれなかった。手紙を読みながら、三人の活躍を喜ばしく思う一方で、僕は嫉妬に駆られた。これまで努力を怠ったことは一度もない。世界の壁にぶち当たり、それを乗り越えようともがいてきた。今まで何度も高い壁を越えて来たのだ、今回も越えて行ける、そう思っていた。それなのに――なぜ僕なのか。音楽の神様は、なぜ僕から耳を奪ったのか。僕よりも遥かに実力のある者ではなく、なぜ苦しみの中にいる僕だったのか。
正直、心の整理がつかなかった。
朝食を摂った後、自室に戻りクリスティーヌへの返事を書いたけれど、元気でやっているよ、としか書けなかった。他に書くことがなかったのだ。フィリックスのウィーン・フィルへの加入も、どこか素直に喜べないのだ。ウィーンに留学していた頃の僕なら、何も考えずにフィリックスのことを祝っただろうに。
手紙を出し、僕は合唱コンクールの会場となっている記念講堂に向かった。講堂は丸太町通りから折れて少し進んだところにあった。人気のない階段を上がり、ホール内に続くドアを引く。ちょうど三年生の発表が始まったようだ。
一クラス目の合唱が終わり、続いて堀江学級の番だった。
明日は俺の番や――昨日の森沢の言葉が僕の耳に蘇る。僕はそばの太い柱に身を預け、瞼を閉じた。すまない、と僕は森沢に謝罪した。さっきのクラスの歌声は、何一つ僕の耳には届かなかったのだ。
それは、堀江学級の合唱が始まってからも同じだった。知里の弾くピアノはもちろん、森沢が導く混声三部のハーモニーは聞こえない。ただ、堂々と指揮台に立ち、雛壇の上で三列に並ぶクラスメイト一人一人に目を配りながら指揮を振るう森沢に僕は感動した。出会った頃の彼からは想像もつかない、伸び伸びとした動きだ。伴奏する知里の自然な笑顔が見える。客席も変わった様子はない。
やったな、森沢――僕は彼の躍動に思わず拳を固めた。今の森沢は完全に空間を支配し、自分を辱めたクラスメイトたちを手中に収めている。今や、森沢を馬鹿にしていたクラスメイトたちも、彼に従い、歌声を響かせているのだ。ささやかだが、復讐は成功だ。
演奏を終えて振り返った森沢の立ち姿に、思わず僕の目から涙が溢れた。
第三楽章へと続く……
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?