連載長編小説『楽聖』第三楽章2
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聴力の衰えと比例して、日に日に活力を削られているようだ。伸也さんに古都コンサートホールを案内してもらって以来、僕の意気込みとは裏腹に作曲ははかどっていない。吹奏楽部の合奏を聞き、まるでそれが加速装置だったかのように作曲が猛進した頃が遠い記憶となって霞んでいる。いつしか僕は、強烈な孤独感を感じるようになっていた。
合唱コンクールが終わって以降、森沢は一度も音楽室に足を運んでいない。授業の様子を見る限り、クラスメイトとの隔たりも消え、すっかり打ち解けたようだが、それが嬉しくもあり、同時に寂しくもあった。
僕と堀江先生の噂は終息したとは言い切れず、彼女とも疎遠になっていた。それもあって、僕は一日中誰とも話をしない日が増えた。人との繋がりを欲し、しかし心のどこかで人と接するのを恐れ、僕は自分の矛盾した気持ちに歯痒さを感じている。そしてその歯痒さが作曲の妨げになっていることもよく理解していた。歯痒さは苦痛となり、苦痛は自尊心を砕き、それらが混ざった負の溜息を気づけば漏らす。
瞼を伏せた。はあ、と吐き出す息が普段よりもぬるい。吐息が唇をかすめる感覚が何とも心地悪い。堪らず目を開けると目の前に中途半端に音符の並んだ五線譜があり、うんざりした。顔が醜く歪むのを僕は自覚した。
楽譜を捨てようと手を伸ばした時、僕よりも一回り小さな手が僕の手の甲に乗った。見ると、そばには森沢が立っていた。彼は包み込むように柔らかな眼差しで僕を見つめている。一つ瞬きをすると、彼は黙ったまま首を横に振った。
僕は楽譜から手を離した。
思わず、僕は床に視線を落とした。今の僕は、きっと以前の森沢と似た目をしているのだろう。希望を見出せず、果てしなく長い闇の中を彷徨っている。森沢には出口があった。しかし僕に出口はない。もう、耳は治らないのだから。ピアノは弾けないのだから。音楽家として、限界を迎えようとしているのだから。
ふと僕の視界を遮るものがあった。それは横から森沢が僕に見せていた。手帳を破ったらしく、背表紙から切り取った部分が乱雑に波打っていた。切り取った手帳の中央に文字が並んでいる。
――音楽は俺を救えて先生を救えないの?
僕は顔を上げた。目が合うと、森沢は和やかに笑った。自然に刻まれた目尻の皺が、僕の苦しみを緩和してくれそうだった。
森沢は、続けて何かを書き込んだ。
――「音楽」は音を楽しむって書くんやで。
僕は首を縦に振った。目を閉じると、僕が森沢にそれを教えた時の光景が瞼の裏に浮かんだ。耳が聞こえなくなってから、いや、ウィーンで挫折を味わってから、僕は紡がれる音に楽しさなど感じられてはいなかった。
まさか、森沢に気づかされるとは……。
僕は微笑んだ。
「もちろん、音楽は先生のことも救ってくれる。森沢君の時みたいにな」
僕は楽譜を見下ろした。そうだ、音楽は楽しめなければ意味がない。音楽は、聴く者を幸せな気分にさせる役割を担っているのだ。が、第四楽章には作曲者の苦労が目に見えるほど滲み出ている。これでは聴く者を幸せになどできない。
僕は第四楽章の楽譜を破り捨てた。
「大丈夫、今から書き直すだけ。この曲は、納得できるものにしたいんや」
森沢はほっとしたように大きく息を吐き、納得したように頷いた。彼のその姿に、僕はどこか吹っ切れた感じがした。
ただ、僕の作る交響曲が素晴らしい出来になる保証はなかった。決して大きくはないが小さくもない不安が胸を過った。
3へと続く……
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